信長の天下所司代
筆頭吏僚 村井貞勝 谷口克広著 中公新書 2009年11月
今年最後の信長本になるんでしょうか。
まだ最後まで読んでませんが、はじめての試みでしょうか?村井貞勝 日次記と題してその年代ごとに、論考されています。
これは太田牛一の信長記編纂に似た手法で、谷口版 貞勝記(ていしょうき)と呼びましょうか(笑
今年最後の信長本になるんでしょうか。
まだ最後まで読んでませんが、はじめての試みでしょうか?村井貞勝 日次記と題してその年代ごとに、論考されています。
これは太田牛一の信長記編纂に似た手法で、谷口版 貞勝記(ていしょうき)と呼びましょうか(笑
特別展 二件
ニ件、展覧会に行ってきました。色々な方のブログ見てましたら、行きたくなりました。
高槻と吹田。どちらも京都近郊で、すぐ行ける場所に住んでいるメリットでしょうね。
まずは、高槻市立しろあと歴史館「北摂の戦国時代と高山右近」
ここは、二回目。小さい博物館ですが、前も展示物が充実していた。今回は、あの義元左文字が展示されてました。お目当てではあったんですが。前に見た京都国立博物館では、左文字の前に?マークなものを何故か付けてましたが、ここではありませんでした。(その辺りに原因があるのではないですかね)
もうひとつの目当ては、中川宛て織田信長朱印状。中国地方二ヶ国を与えると言うもの。
あと、中川清秀の画像が展示されてました。画像の説明文に狩衣と書いてあって、あれって思って図録を確認してみると、肩衣になってました。瑣末な事ですが、誰も気がつかないものなんですかね。指摘しても、分かってるのかどうかわからない様な受け答えでした。
その後、吹田市立博物館へ。こちらははじめてですが、ものすごく分かりにくい場所でした(笑
入り口がですが、西から入って行かなければならなかったんですが、東から行ったので。
「北摂の戦国時代」と題してのもの。
伊丹兵庫頭宛て信長朱印状が展示されてました。あと、金子様の本でクローズアップされてます、太田関連のものも展示されてました。欲を言えば、もう少し分かりやすい説明文を入れたほうが、読み手に優しいと感じました。
吹田と信長との関わりは、荒木村重を介してですが、地名であるところの吹田は、吹田氏が治めていたが、村重の異母弟が吹田氏の娘を娶り、吹田村氏を名乗るが、村重が伊丹城を抜け出した後も篭城し、その後は妻とともに六条河原の露と消えていったのはご存知の通り。
15日に信長の乳母養徳院とその子孫 と題して 田端泰子先生の講演があったようで(知らなかった)レジメだけ入手。遺言を取り上げるのではなく、秀吉から養徳院宛て書状が取り上げられたよう。
これは長久手後のもので有名なものですね。
どちらも入場料二百円で、リーズナブルです。
高槻と吹田。どちらも京都近郊で、すぐ行ける場所に住んでいるメリットでしょうね。
まずは、高槻市立しろあと歴史館「北摂の戦国時代と高山右近」
ここは、二回目。小さい博物館ですが、前も展示物が充実していた。今回は、あの義元左文字が展示されてました。お目当てではあったんですが。前に見た京都国立博物館では、左文字の前に?マークなものを何故か付けてましたが、ここではありませんでした。(その辺りに原因があるのではないですかね)
もうひとつの目当ては、中川宛て織田信長朱印状。中国地方二ヶ国を与えると言うもの。
あと、中川清秀の画像が展示されてました。画像の説明文に狩衣と書いてあって、あれって思って図録を確認してみると、肩衣になってました。瑣末な事ですが、誰も気がつかないものなんですかね。指摘しても、分かってるのかどうかわからない様な受け答えでした。
その後、吹田市立博物館へ。こちらははじめてですが、ものすごく分かりにくい場所でした(笑
入り口がですが、西から入って行かなければならなかったんですが、東から行ったので。
「北摂の戦国時代」と題してのもの。
伊丹兵庫頭宛て信長朱印状が展示されてました。あと、金子様の本でクローズアップされてます、太田関連のものも展示されてました。欲を言えば、もう少し分かりやすい説明文を入れたほうが、読み手に優しいと感じました。
吹田と信長との関わりは、荒木村重を介してですが、地名であるところの吹田は、吹田氏が治めていたが、村重の異母弟が吹田氏の娘を娶り、吹田村氏を名乗るが、村重が伊丹城を抜け出した後も篭城し、その後は妻とともに六条河原の露と消えていったのはご存知の通り。
15日に信長の乳母養徳院とその子孫 と題して 田端泰子先生の講演があったようで(知らなかった)レジメだけ入手。遺言を取り上げるのではなく、秀吉から養徳院宛て書状が取り上げられたよう。
これは長久手後のもので有名なものですね。
どちらも入場料二百円で、リーズナブルです。
秀子か?
16.17世紀イエズス会日本報告衆 第1期第2巻 第4巻
信長の女性史に関して、史料に乏しく、それがまた興味のそそるものではあるのだが、、、
これまであまり指摘されてこなかったものの紹介。
1603年、1604年のところで織田信長の娘で、高貴この上ない一婦人が受洗したとある。
関ヶ原後で、信長の娘が存命でとなると限られてくる。また夫も、二年前にキリシタンに帰依したとあるから、これまた絞られてくる。
蒲生の冬姫かと思ったが、年代が合わないので、筒井定次の室で秀子ではないかと思われるが、いかがでしょうか。この中でもうひとつ興味深いのは、母親にキリシタンになるように何度も説得している。
秀子の母については、不詳であるがこの年まで存命していた事が明らかとなった。
もうひとつ、秀信と秀則について。
秀則が受洗した為、少し家族関係の情報が詳らかになった。
それによると、この兄弟は意外ではあったが、異母であるという。
そして養育しているのは、母であるという。秀信の母親としては、織田系図にある塩川の娘との説がある。しかし、荒木略記には、信忠没後、二条家へ嫁いだとの記述があるが、イエズス会のこの記録より、もっと前に大坂にいる事が判明している。それは解釈の仕方は間違っていると思うが、城之助の奥方を秀吉が自分のものにしたとの記述から判明する。
もう一つ判明する事は、信忠乳母慈徳院の影が無い事である。
本能寺の変後、三法師と共に安土城へ同道したのは慈徳院だからである。退城後、何らかの事情で、母親が養育者に変わったようですね。秀信は、後に羽柴小吉秀勝の娘、完子を娶ります。
来年の大河では、どこまで反映させるか楽しみです。
信長の女性史に関して、史料に乏しく、それがまた興味のそそるものではあるのだが、、、
これまであまり指摘されてこなかったものの紹介。
1603年、1604年のところで織田信長の娘で、高貴この上ない一婦人が受洗したとある。
関ヶ原後で、信長の娘が存命でとなると限られてくる。また夫も、二年前にキリシタンに帰依したとあるから、これまた絞られてくる。
蒲生の冬姫かと思ったが、年代が合わないので、筒井定次の室で秀子ではないかと思われるが、いかがでしょうか。この中でもうひとつ興味深いのは、母親にキリシタンになるように何度も説得している。
秀子の母については、不詳であるがこの年まで存命していた事が明らかとなった。
もうひとつ、秀信と秀則について。
秀則が受洗した為、少し家族関係の情報が詳らかになった。
それによると、この兄弟は意外ではあったが、異母であるという。
そして養育しているのは、母であるという。秀信の母親としては、織田系図にある塩川の娘との説がある。しかし、荒木略記には、信忠没後、二条家へ嫁いだとの記述があるが、イエズス会のこの記録より、もっと前に大坂にいる事が判明している。それは解釈の仕方は間違っていると思うが、城之助の奥方を秀吉が自分のものにしたとの記述から判明する。
もう一つ判明する事は、信忠乳母慈徳院の影が無い事である。
本能寺の変後、三法師と共に安土城へ同道したのは慈徳院だからである。退城後、何らかの事情で、母親が養育者に変わったようですね。秀信は、後に羽柴小吉秀勝の娘、完子を娶ります。
来年の大河では、どこまで反映させるか楽しみです。
織田信長の足半
日本歴史 第375号 1979年8月号 歴史手帖 皆川完一著
以前から欲しかった日本歴史を古本屋で百円で手に入れました。
昔、名古屋の豊清二公顕彰館(現在は違う名前)でまじかに見せていただいた思い出あるもの。
この足半、某氏によると後世のものであるとか、ないとか。それでこの論考をいつか入手して確認してみたかった。あたり前だが、足半自体でいっても国内で一番古いものであるので、それを比べる対象になるものもないとの論考も、さもありなんと。
東大史料にも、この足半の模造品があるようですが、それは兼松家から寄贈されたらしいのですが、現存のものと比べて同じものではないそうで、寄贈された明治時代の史料では経緯が分からないらしい。そんな事はさておき、写真も目次の後に添えられてる。
さて、足半とはわらじの半分くらいのもので、著者が幼い頃は、まだ足半を使用していて、学校の休み時間などは足半をぶつけあって遊んで、それが無くなってしまい、裸足でいる事がよくあったようで、微笑ましい。
説明はいらないかも知れないが、この足半が兼松又四郎家に伝来した経緯は、信長記にも記されていて、兼松家の家譜類にも述べられている。また兼松又四郎の画像にも足半が腰の辺り描かれている。
谷口先生の合戦全録の冒頭にもってこられ、わたしも好きなエピで、朝倉追撃戦で裸足で戦って、敵の首を討ち取った兼松を見た信長が、その足が血に染まっているのを見て足半を与えた。
翁草によると、わらじを履く暇も無く駆け出した為、裸足であったという。これは佐久間信盛同様、信長が退却するからの注意を聞き入れなかった事による、油断といえようか。著者は、わらじを履いていない兼松に戦場の心得を諭したもので、皮肉ともとれると論考されている。この辺りの指摘はさすがですね。兼松は信長馬廻りにもかかわらず、わらじを履いてなかったという事は、信長の許にいなかったのでしょうか?それとも、近くにいながら油断していたのでしょうか?兼松の素顔をかいま見れる様な気がします。
以前から欲しかった日本歴史を古本屋で百円で手に入れました。
昔、名古屋の豊清二公顕彰館(現在は違う名前)でまじかに見せていただいた思い出あるもの。
この足半、某氏によると後世のものであるとか、ないとか。それでこの論考をいつか入手して確認してみたかった。あたり前だが、足半自体でいっても国内で一番古いものであるので、それを比べる対象になるものもないとの論考も、さもありなんと。
東大史料にも、この足半の模造品があるようですが、それは兼松家から寄贈されたらしいのですが、現存のものと比べて同じものではないそうで、寄贈された明治時代の史料では経緯が分からないらしい。そんな事はさておき、写真も目次の後に添えられてる。
さて、足半とはわらじの半分くらいのもので、著者が幼い頃は、まだ足半を使用していて、学校の休み時間などは足半をぶつけあって遊んで、それが無くなってしまい、裸足でいる事がよくあったようで、微笑ましい。
説明はいらないかも知れないが、この足半が兼松又四郎家に伝来した経緯は、信長記にも記されていて、兼松家の家譜類にも述べられている。また兼松又四郎の画像にも足半が腰の辺り描かれている。
谷口先生の合戦全録の冒頭にもってこられ、わたしも好きなエピで、朝倉追撃戦で裸足で戦って、敵の首を討ち取った兼松を見た信長が、その足が血に染まっているのを見て足半を与えた。
翁草によると、わらじを履く暇も無く駆け出した為、裸足であったという。これは佐久間信盛同様、信長が退却するからの注意を聞き入れなかった事による、油断といえようか。著者は、わらじを履いていない兼松に戦場の心得を諭したもので、皮肉ともとれると論考されている。この辺りの指摘はさすがですね。兼松は信長馬廻りにもかかわらず、わらじを履いてなかったという事は、信長の許にいなかったのでしょうか?それとも、近くにいながら油断していたのでしょうか?兼松の素顔をかいま見れる様な気がします。




