豊明市史にある、小嶌日向守の娘。
岩塚殿と称したとあったので、調べてみると。
岩塚城は、守護斯波氏の家臣、吉田内記守氏入道長英で、その子元氏は信長に仕え、
永禄十一年(1568年)勢州大河内城で戦死。
その子九郎左衛門は信雄に仕えたとある。(尾陽雑記)
信雄分限帳の成立時期と岩塚殿の没年が近いので、岩塚をその時領していたのは、
これでは誰か分からない。
ここからも、やはり詳細はつかめない。
この岩塚は、信長が幼年期手習いをした凌雲寺の南に当たる。(中村区)
信長の母説として、美濃土田(どた)説と清洲土田(つちだ)説。
そして美濃薮田小嶋日向守信房女説がある。
面白いのは、凌雲寺近辺を領してた稲葉地城主津田豊後守敏元の室が、
信長の母の姉、土田政久の女であることなのである。
また、豊後守の子玄蕃允信平が谷口先生の辞典によると叔父で後見人と認められる
ようなのは、母の縁かも知れない。
信長の母が、土田氏なのか小嶋氏なのか判然としないが、美濃土田(可児市)説は、信秀の勢力範囲からは、かけ離れているように思われるので、この辺りを領していた一族と考えるほうが、自然のように思う。
岩塚殿と称したとあったので、調べてみると。
岩塚城は、守護斯波氏の家臣、吉田内記守氏入道長英で、その子元氏は信長に仕え、
永禄十一年(1568年)勢州大河内城で戦死。
その子九郎左衛門は信雄に仕えたとある。(尾陽雑記)
信雄分限帳の成立時期と岩塚殿の没年が近いので、岩塚をその時領していたのは、
これでは誰か分からない。
ここからも、やはり詳細はつかめない。
この岩塚は、信長が幼年期手習いをした凌雲寺の南に当たる。(中村区)
信長の母説として、美濃土田(どた)説と清洲土田(つちだ)説。
そして美濃薮田小嶋日向守信房女説がある。
面白いのは、凌雲寺近辺を領してた稲葉地城主津田豊後守敏元の室が、
信長の母の姉、土田政久の女であることなのである。
また、豊後守の子玄蕃允信平が谷口先生の辞典によると叔父で後見人と認められる
ようなのは、母の縁かも知れない。
信長の母が、土田氏なのか小嶋氏なのか判然としないが、美濃土田(可児市)説は、信秀の勢力範囲からは、かけ離れているように思われるので、この辺りを領していた一族と考えるほうが、自然のように思う。
豊明市史 資料編補一
川口氏先祖書系図
整理してましたら、やっと見付けた上記史料。
読み直して見ると、大変なものを見落としていた。
信長の実母ではないかと思っている、小嶋日向守信房の娘。
この系図では、伯母と出てくる。
川口久助宗勝の項に
母小嶌日向守女、為化粧田尾州岩塚村ヲ領ス、世人岩塚殿ト云、信長之伯母也、
天正十二年十一月三日卒、葬甚目寺、法名岩松院妙林
今まで分からなかった、没年など見落としていた。
これは送って頂いた方には、失礼な事をした。甚目寺の墓地を歩いたが、古い墓はなさそうだったので、遺失したか。
さて、この系図面白いのは、川口久助の業績が、信長公記に全く記されてないのは、
太田牛一と仲が悪かったから、意図的に記述されなかったとしている。
ある日に口論となって、太田が赤面したと出て来る(笑
本当なら、太田も意外な一面があったことになる。
話を戻して、信長の母?と言う説があるこの女性について、信雄分限帳に出て来る女性達の中に、岩塚を領してるものはいない。岩塚は、誰がかは、また調べてみたい。
川口氏先祖書系図
整理してましたら、やっと見付けた上記史料。
読み直して見ると、大変なものを見落としていた。
信長の実母ではないかと思っている、小嶋日向守信房の娘。
この系図では、伯母と出てくる。
川口久助宗勝の項に
母小嶌日向守女、為化粧田尾州岩塚村ヲ領ス、世人岩塚殿ト云、信長之伯母也、
天正十二年十一月三日卒、葬甚目寺、法名岩松院妙林
今まで分からなかった、没年など見落としていた。
これは送って頂いた方には、失礼な事をした。甚目寺の墓地を歩いたが、古い墓はなさそうだったので、遺失したか。
さて、この系図面白いのは、川口久助の業績が、信長公記に全く記されてないのは、
太田牛一と仲が悪かったから、意図的に記述されなかったとしている。
ある日に口論となって、太田が赤面したと出て来る(笑
本当なら、太田も意外な一面があったことになる。
話を戻して、信長の母?と言う説があるこの女性について、信雄分限帳に出て来る女性達の中に、岩塚を領してるものはいない。岩塚は、誰がかは、また調べてみたい。
とうとう手にいれました瑞龍寺過去帳コピー。
永姫母、正覚院について論争した経緯も有り、一度確認したかった。
少し字が違っているとこもあり興味深かった。
正覚院が、寺伝で濃姫ではないかという事も聞いたことがあった。
しかしながらそれは無いように思った。
それは、例えば永姫は利長の簾内とあり、まつは、利家の簾内、とある。
濃姫なら、信長公の簾内となる筈だが、玉泉院殿母儀とあり、濃姫説は難しいでしょう。
ただ、永姫母はもう一説あるが個人的にはこちらを支持している。
永姫母、正覚院について論争した経緯も有り、一度確認したかった。
少し字が違っているとこもあり興味深かった。
正覚院が、寺伝で濃姫ではないかという事も聞いたことがあった。
しかしながらそれは無いように思った。
それは、例えば永姫は利長の簾内とあり、まつは、利家の簾内、とある。
濃姫なら、信長公の簾内となる筈だが、玉泉院殿母儀とあり、濃姫説は難しいでしょう。
ただ、永姫母はもう一説あるが個人的にはこちらを支持している。
桐野様の歴読誌連載の信長 狂乱と冷徹の軍事カリスマでは、現在舅斎藤道三が討ち死にしたところ迄、進んでいる。
この回でも紹介されている、有名な織田玄蕃充殿宛。
三郎殿様(信長)を慮って書いた道三の心情が分かるものであり、桐野様も、正徳寺会見の前の書状であることから、早い段階で気にしていたことを示していた、と論考されている。
それより前と思われる書状を紹介する。
大阪青山歴史文学館蔵 斎藤道三書状 天文廿一年頃
雖未申承候、以事之次、令
啓候、家来之者、那古野ヘ
往還付而、種々御馳走之
由候、誠不寄存知子細快
然候、自今巳後、切々可申
述事本望候、随而弓廿張
進之候、聊爾之儀候、恐々謹言
四月七日 道三(花押)
佐々隼人佐殿
御宿所
井口と那古野の間を佐々の居城比良城があるのだが、家臣が往来するに辺り便宜をはかってくれた事に対する礼状である。この時道三は、弓20張贈っている。
信長との連絡を取り合っていたことを示す資料である。
武将感状記にある、寝所を抜け出し云々は一次史料からは考えられないですね。
この回でも紹介されている、有名な織田玄蕃充殿宛。
三郎殿様(信長)を慮って書いた道三の心情が分かるものであり、桐野様も、正徳寺会見の前の書状であることから、早い段階で気にしていたことを示していた、と論考されている。
それより前と思われる書状を紹介する。
大阪青山歴史文学館蔵 斎藤道三書状 天文廿一年頃
雖未申承候、以事之次、令
啓候、家来之者、那古野ヘ
往還付而、種々御馳走之
由候、誠不寄存知子細快
然候、自今巳後、切々可申
述事本望候、随而弓廿張
進之候、聊爾之儀候、恐々謹言
四月七日 道三(花押)
佐々隼人佐殿
御宿所
井口と那古野の間を佐々の居城比良城があるのだが、家臣が往来するに辺り便宜をはかってくれた事に対する礼状である。この時道三は、弓20張贈っている。
信長との連絡を取り合っていたことを示す資料である。
武将感状記にある、寝所を抜け出し云々は一次史料からは考えられないですね。
古溪宗陳の法語録(蒲庵稿)にある上記女性の三十三回忌。
施主は難波に居住したとあるが、本女性については、例えば茶道文化研究や、大徳寺禅語録、古溪宗陳(竹貫元勝著)など特定には至っていない。
年次は、天正十二年仲夏廿九日。三十三回忌と言うことは、天文廿年に没。
この年に亡くなった方で思い浮かぶのは、濃姫の母小見の方。
美濃国諸旧記にある、天文二十年三月十一日卒。
年は合ってるが、日は合わない。濃姫が天正十二年難波に住んだというのも可笑しな話ですが、、、
濃姫の足跡を求める事は、難しいですね。
施主は難波に居住したとあるが、本女性については、例えば茶道文化研究や、大徳寺禅語録、古溪宗陳(竹貫元勝著)など特定には至っていない。
年次は、天正十二年仲夏廿九日。三十三回忌と言うことは、天文廿年に没。
この年に亡くなった方で思い浮かぶのは、濃姫の母小見の方。
美濃国諸旧記にある、天文二十年三月十一日卒。
年は合ってるが、日は合わない。濃姫が天正十二年難波に住んだというのも可笑しな話ですが、、、
濃姫の足跡を求める事は、難しいですね。




