泰巖宗安記
信長ファンの独り言。
伏屋城
一度行ってみたいと、思いながら行けていないマイナーな史跡。
知ったのは、織豊興亡史。著者は早瀬晴夫氏。

この城こそ、あの墨俣一夜城のモデルとなったものと云う。
最近読み進めている、武功夜話異聞にも触れられていて思い出した次第。
場所は、濃尾国境岐阜県羽島郡岐南町。
説明版には、墨俣築城と同じ様な内容が書かれている。
秀吉が、歴史上に登場したデビュー戦とも言うべき城。
さて、いつ行ける事やら。
天主卵塔
安土城考古博物館、秋季特別展 天下人を祀るでは、どの様な展示になるのでしょうか。
管理人は、勝手に憶測してみます。

織田信長の画像で、神格化されてるものは、
京都 大雲院本と愛知寂光院本の二つである。
大雲院本については、京都大徳寺総見院本を模した事が容貌から指摘できる。
寂光院本については、他と全く違う容貌であり、また真言宗寺院に伝来している特異なものであるので、よく分からない。
しかしながら、大雲院本の製作年代を考えると、どうも江戸時代に入ってからのようである。

そして、一番の神格化と考えられるのは画像ではなく、安土城伝二の丸にある信長廟と考えられる。
あまり知られてませんが、仁正寺大守代々登山記録の中に

(元文2年8月)五日、領地江明日之役人申付、歩五人来、天主卵塔、表坂百々橋迄、裏坂江藤道筋掃除申付ル也。
とあり、当初からあのような墓塔では無かった事が指摘できる。
近江名所図絵に描かれたように、五輪の塔であったと思われる。
卵塔とは、五輪の塔の丸石の部分を当てたものと推測できるし、現在の墓塔を卵塔と言うのは無理があるでしょう。
秋田裕毅氏は、織田信長と安土城で享保年間には現状と同じだから、基本的な形態まで変えなかったと考えてもよいであろうと述べていらっしゃる。
また神になった織田信長でも、シンポジウムでの発言が載っているが、

墓の製作年代を問われて、蒲生郡志に秀吉が一周忌に建てた事を指摘されているが、よく分からないと述べられている。秋田氏は本当に仁正寺藩のこの記録。安土町史にも活字化されてるこの資料、知らなかったのでしょうか?
それはさて置き、神格化は江戸時代に、織田家によって行われた事が指摘でき、信長廟の改変の時期は、意外に新しい印象を受ける。
信長の休み石
森蘭丸考 兼山町歴史研究同行会編 H4年5月より
天正十年武田攻めの際、金山城から久々利館に向かう際に信長が腰掛けた石があるよう

当時、可成寺が建っていた寺が峰から、およそ三十メートルほど北へ下がった尾根にこの時信長が腰掛けて休んだと伝えられる長さ凡そ三メートル余、天場の幅凡そ一メートル余の長方形の腰掛けるのに格好の石がある。
村人はこの石を「信長の休石」と名付けているばかりか、その辺りを休石洞と呼んで今日に伝えてる。

公記(角川文庫より)を見てみると
三月八日、信長公、岐阜より犬山迄御成り。九日金山御泊り。十日高野御陣取。

とあり、ここを通った可能性は高い。久々利では舞台跡の伝説も有り、武田攻めでは数多い伝説を残したといえる。
桶狭間の信長史跡
桶狭間の戦いにおける、信長の関連史跡が有名ではないが何点か見受けられる。
今川義元の関連史跡は、よく写真で見られるが、である。

そこで、いくつか拾いだしてみると。
一、扇川
前略 先年信長公桶狭間御陣之節此川之流を御尋被成候時扇川と答候得は
先幸よしと御喜悦被遊候由申伝候
一、手越縄手
信長公桶狭間御合戦之時善照寺より此道へ御懸り御遊所の名御尋候得は手越と答申候
に付出陣之吉事と被仰青指一〆匁被下則御案内申候其百姓半四郎と申候由

以上 鳴海旧記 なるみ叢書 第三冊

鎌研
名古屋市緑区鳴海町鎌研
一説によると、信長が桶狭間への進軍之途中、鎌を研いでいた農夫に場所を尋ねたところとされ
「鎌研」の地名が伝承されているという。旧東海道が手越川をまたぐところに鎌研橋がかかっている。
(豊明市史 資料編補二)

長翁寺
信長の持仏を弟の有楽斎が貰い受けこの寺に祀った織田薬師如来がある。
(鳴海宿マップ)

まだ、あるかも知れませんが拾いだしてみた。
明後 日は、桶狭間の戦いのあった五月十九日ですね。