泰巖宗安記
織田信長に魅せられた管理人が、信長に関するあらゆるものを(女性史を中心に)紹介して行きます。
信長の和歌
うらみつる風をしつめて
はせを葉の露を心の
玉みかくらん

伝信長の和歌詠草
本能寺所蔵で珍しい和歌。
最近はあまりお見かけしない。
巖松山東龍寺来迎院
尾張名所図絵

前略
永禄年中、信長公四十貫文の田地を寄付ありて、また制札をも賜ふ。
さて、光秀この公を弑せし時、神祖泉州堺にましましが、微行して勢州を経、当村に至り給ひ、当寺に三日まで御淹留あらせられしに、信長公の制札を御覧あそばされ、御涙数行に及ばせられし由。後略

この逸話、家康が果たしてこの寺院に、立ち寄ったかどうか、分からないが、大河ドラマの一シーンに採用して頂きたい程のシーンではないか。
S58年徳川家康では、白子?からの船上で合掌してその回は、終わっていたが、上陸してからのシーンは案外に無い。
神君伊賀越えと言われる、この家康の危機だが、船の上でもまだ安心出来ないと思うのだが。

溺れた信長
津田豊後守家の自家出版書

信長は幼時津田家の菩提寺凌雲寺へ勉強に来ていた。
ある盛夏の日 寺の裏手の庄内川で水泳中 信長が深みに溺れた。
従兄の玄蕃允が命がけで助けたことがあった。
信長はこの命がけの救助を非常に感謝していたといわれている。

もし玄蕃の行動が無かったなら、桶狭間も長篠もなく、安土城の天主閣も出現しなかったことになる。ああ玄蕃に感謝、感謝。
蛇池に挑んだもうひとりの男
伴右近こと塙直政

大野木の城主伴右近は怠らぬ勝気な人、此の事を耳にするや一笑し、陣羽織を着し、駒に鞭入れ此の池を渡ろうとしたが半ばにて馬進まず、俄かに渦巻き起こり馬諸共池底に引き込まれ、しばし水中深々苦悶の限り尽くした。己が無謀を悟り必死に懺悔しけるに神の怒りも解けたるか再び浮かび上がる。全身濡れ鼠となり命からがら岸に這い上がるという(蓬州旧勝録)

後に山城、大和両守護となった塙直政であるが無名の時、濡れ鼠になっていたとは(笑)
ぐねった信長
言継卿記 永録十二年四月十三日

織田弾正忠所へ罷向、烏丸一品、同辨、萬里小路、同黄門、予等也、
各訴訟共也、萬里は山國、小野、細川等之事也、烏丸者摂州之儀歟、
予率分之儀也、尚不相調、鞠に足損云々不見参也、申刻帰宅了、

信長が蹴鞠で足を挫くと訳せば良いのだろうか、一次史料にある
めずらしい記述である。

しかしながらただ会いたくないだけの断り文句かも知れないが。