肖像画の視線 宮嶋新一著
による、解説にある長谷川嘉竹像は、京都東福寺霊雲院所蔵で、画像賛も掲載されてる。
谷口先生の辞典によれば、長谷川与次と、この長谷川嘉竹が同一人物かは、今一つ傍証がいると
論考されてるが、宮嶋氏はこの著書で画像にも書き込まれてる、木部肩衝が山上宗ニ記に、長谷川与次殿にありから、同一人物とはっきりしたと述べられてる。
画像賛によると、一源宗心法印御寿容とあるので生前に描かれた事が分かり、慶長五年まで存命していた事も確認できる。
内容は、織田氏の家臣で本能寺の変後、信忠の嬰児(三法師)を清洲城へ移すのに功があった。
朝鮮の役後十余万石を得るが、六十余歳で隠居。
もともと主を奉じる他は志は茶事のみにあり、木辺小宝壺を高価で購入するなど珍器異物で茶の床によろしいものは遠近を問わず手に入れた。と画像賛にある。
長谷川与次と言えば、桶狭間で善照寺砦から、中島砦に信長が陣を移そうとした際、それを引きとめようと家老衆として天理本信長記に名がある人物としては、最近気になっている。
その時の家老衆他には、林秀貞、平手監物、池田恒興、花井三河守、蜂屋頼隆の六人であるが、
最も長く生きた人物で、幸せな老後を送ったようだ。
東福寺誌慶長十九年に、尾州長谷川因幡守、塔頭不二庵内に別に霊雲軒を創む。
とあり、嘉竹と同一人物か、子か分からない。
没年不詳なので、何か資料が東福寺に残ってないのでしょうか。
葬られたとしたら、ここに間違いにないと思われるが、京都に住んでいてまだ未踏の地である。
門前の信長塀は見た事があるが(笑 、機会があれば訪ねてみたい。
による、解説にある長谷川嘉竹像は、京都東福寺霊雲院所蔵で、画像賛も掲載されてる。
谷口先生の辞典によれば、長谷川与次と、この長谷川嘉竹が同一人物かは、今一つ傍証がいると
論考されてるが、宮嶋氏はこの著書で画像にも書き込まれてる、木部肩衝が山上宗ニ記に、長谷川与次殿にありから、同一人物とはっきりしたと述べられてる。
画像賛によると、一源宗心法印御寿容とあるので生前に描かれた事が分かり、慶長五年まで存命していた事も確認できる。
内容は、織田氏の家臣で本能寺の変後、信忠の嬰児(三法師)を清洲城へ移すのに功があった。
朝鮮の役後十余万石を得るが、六十余歳で隠居。
もともと主を奉じる他は志は茶事のみにあり、木辺小宝壺を高価で購入するなど珍器異物で茶の床によろしいものは遠近を問わず手に入れた。と画像賛にある。
長谷川与次と言えば、桶狭間で善照寺砦から、中島砦に信長が陣を移そうとした際、それを引きとめようと家老衆として天理本信長記に名がある人物としては、最近気になっている。
その時の家老衆他には、林秀貞、平手監物、池田恒興、花井三河守、蜂屋頼隆の六人であるが、
最も長く生きた人物で、幸せな老後を送ったようだ。
東福寺誌慶長十九年に、尾州長谷川因幡守、塔頭不二庵内に別に霊雲軒を創む。
とあり、嘉竹と同一人物か、子か分からない。
没年不詳なので、何か資料が東福寺に残ってないのでしょうか。
葬られたとしたら、ここに間違いにないと思われるが、京都に住んでいてまだ未踏の地である。
門前の信長塀は見た事があるが(笑 、機会があれば訪ねてみたい。
某氏へ私信。
信長姉安養院(犬山殿)の墓所大徳寺大慈院に墓があるようです。
また、話題になりました筒井親子の墓も同所にあったようです。
甚介とどうかは、また次の機会に。
追記
大慈院
梅林院殿心月宗安大禅定門 元和九年九月六日
過去帳には慶長廿年五月六日になっている。
信長姉安養院(犬山殿)の墓所大徳寺大慈院に墓があるようです。
また、話題になりました筒井親子の墓も同所にあったようです。
甚介とどうかは、また次の機会に。
追記
大慈院
梅林院殿心月宗安大禅定門 元和九年九月六日
過去帳には慶長廿年五月六日になっている。
信長の近習。谷口先生にいう第三世代。
信長の親衛隊で、少し触れていらっしゃるが、変後秀吉に仕えるが、パッとしないようで、
武士なのに、竹を切り。釘として売っていたと、愛すべきキャラクターの人物。
信雄もそうだが、何か影の有る人物に興味を覚える。
この矢部、没年は不明のようであるが、面白い資料を見つけた。
久波奈名所図会 (上巻)
これによると、矢部は伊勢出身で、父は矢部右馬允主繁。
兄が某で、享禄三年出生、慶長十四年八月四月七日、八十四歳で没。
その弟が善七郎。永禄十年八月廿三始めて信長公に謁した。
神戸に於いて信長公野菊の花を採って、与えた事から家の紋所とする。
慶長十六年君恩を慕ひ、京都紫野大徳寺の内にて自殺す。
法号松円院殿といふ。五月朔日の事なり。
この様なものを見つけた。谷口先生の辞典でも没年不詳なので、驚くべき記述。
兄の年から見ると、思っていたより年長者に思える。
また、自殺した年も、思ったより後年のようである。
地誌なので、何とも言えないが、他に記述がないようなので、貴重なものと言える。
追記
慶長十六年とはどんな年だったか調べると、前月に秀頼が上洛して二条城へ家康に会見しているのである。これに何らかの関与していたのであろうか。
信長の親衛隊で、少し触れていらっしゃるが、変後秀吉に仕えるが、パッとしないようで、
武士なのに、竹を切り。釘として売っていたと、愛すべきキャラクターの人物。
信雄もそうだが、何か影の有る人物に興味を覚える。
この矢部、没年は不明のようであるが、面白い資料を見つけた。
久波奈名所図会 (上巻)
これによると、矢部は伊勢出身で、父は矢部右馬允主繁。
兄が某で、享禄三年出生、慶長十四年八月四月七日、八十四歳で没。
その弟が善七郎。永禄十年八月廿三始めて信長公に謁した。
神戸に於いて信長公野菊の花を採って、与えた事から家の紋所とする。
慶長十六年君恩を慕ひ、京都紫野大徳寺の内にて自殺す。
法号松円院殿といふ。五月朔日の事なり。
この様なものを見つけた。谷口先生の辞典でも没年不詳なので、驚くべき記述。
兄の年から見ると、思っていたより年長者に思える。
また、自殺した年も、思ったより後年のようである。
地誌なので、何とも言えないが、他に記述がないようなので、貴重なものと言える。
追記
慶長十六年とはどんな年だったか調べると、前月に秀頼が上洛して二条城へ家康に会見しているのである。これに何らかの関与していたのであろうか。
聞きなれない人物だと思いますが、信長の子である。
本能寺の変時、二歳なので生年は1581年生まれとなる。
十一男と言われる、信好より年下かどうか分からない。
信好は、秀吉の家臣となっていて、母も秀吉の庇護を受けたと思われるが、
樋口信胤は、母と共に越中に逃れたと言う。
幼名は、徳丸。母は樋口源兵衛長達の女 。
祖父長達は、成政に仕えるが、没落後、戦死。
母方の氏、樋口を名乗り仁左衛門と名乗る。
と言う事で、K2編、信長の男子系図。
村井重勝(織田信正)
織田信忠
北畠信雄
神戸信孝
津田信房
羽柴秀勝
織田信秀
織田信高
織田信吉
織田信貞
織田信好
織田長次
生駒直勝
五藤信親
樋口信胤
今後も増えるようであれば追加していきたい。
本能寺の変時、二歳なので生年は1581年生まれとなる。
十一男と言われる、信好より年下かどうか分からない。
信好は、秀吉の家臣となっていて、母も秀吉の庇護を受けたと思われるが、
樋口信胤は、母と共に越中に逃れたと言う。
幼名は、徳丸。母は樋口源兵衛長達の女 。
祖父長達は、成政に仕えるが、没落後、戦死。
母方の氏、樋口を名乗り仁左衛門と名乗る。
と言う事で、K2編、信長の男子系図。
村井重勝(織田信正)
織田信忠
北畠信雄
神戸信孝
津田信房
羽柴秀勝
織田信秀
織田信高
織田信吉
織田信貞
織田信好
織田長次
生駒直勝
五藤信親
樋口信胤
今後も増えるようであれば追加していきたい。
信長の娘、月明院が没した後実久は後妻を迎えた。
井伊直政の息女で、家康の四男忠吉の妻だった女性で、
忠吉没後実家に戻っていた後の事のようである。
その婚姻時期は、分からないが一人女子を産む。
長じて和田飛騨守に嫁した。
実久は元和二年十一月二十六日、三十四歳で没した。
法名は晴雲院月峯秀松
墓所は十念寺(阿弥陀寺の南の寺である)
初めましてさんのコメントに答えたもので、その後を記しましたが、
この後妻へは、大変気を使う相手ではなかったと思われます。
井伊直政の息女で、家康の四男忠吉の妻だった女性で、
忠吉没後実家に戻っていた後の事のようである。
その婚姻時期は、分からないが一人女子を産む。
長じて和田飛騨守に嫁した。
実久は元和二年十一月二十六日、三十四歳で没した。
法名は晴雲院月峯秀松
墓所は十念寺(阿弥陀寺の南の寺である)
初めましてさんのコメントに答えたもので、その後を記しましたが、
この後妻へは、大変気を使う相手ではなかったと思われます。



