歴史読本8月号 別冊付録 桐野作人+和田裕弘
第五章
光秀は勝龍寺城からはいつくばって落ち行き、小栗栖あたりまで逃げて田圃に隠れていたところ、小栗栖の百姓たちが用心のためか、あるいは落ち武者狩りのためか、鑓や棒で自覚していたところ、これを発見して光秀だと知らずに討ち取って首級をあげ、公儀に届け出た。
明智光秀は、山崎の戦いで敗れた後、坂本へ落ち延びようとして、大岩街道を避けたのであろうかと、小栗栖へ差し掛かった時に討たれたという。
現在光秀が討たれたという明智藪が残されている。
しかし、数年前根拠薄と言うことで、一部伐採された。そしてもうひとつ、数百メートル離れた所に、胴塚と呼ばれる石碑がある。
その石碑は現在、駐車場の中にあり、また、数年前からその前に大きな道路が通るようになり、周囲の様子が一変した。
古写真を見ると、田圃の中に木ガ一本建ってるだけの胴塚であった。
胴塚なのだから、ココが光秀が討たれたところと考えたほうが自然では無いでしょうか。
第五章
光秀は勝龍寺城からはいつくばって落ち行き、小栗栖あたりまで逃げて田圃に隠れていたところ、小栗栖の百姓たちが用心のためか、あるいは落ち武者狩りのためか、鑓や棒で自覚していたところ、これを発見して光秀だと知らずに討ち取って首級をあげ、公儀に届け出た。
明智光秀は、山崎の戦いで敗れた後、坂本へ落ち延びようとして、大岩街道を避けたのであろうかと、小栗栖へ差し掛かった時に討たれたという。
現在光秀が討たれたという明智藪が残されている。
しかし、数年前根拠薄と言うことで、一部伐採された。そしてもうひとつ、数百メートル離れた所に、胴塚と呼ばれる石碑がある。
その石碑は現在、駐車場の中にあり、また、数年前からその前に大きな道路が通るようになり、周囲の様子が一変した。
古写真を見ると、田圃の中に木ガ一本建ってるだけの胴塚であった。
胴塚なのだから、ココが光秀が討たれたところと考えたほうが自然では無いでしょうか。
重要美術品 大名物 井戸茶碗 銘信長 李朝時代
織田信長の所持によりこの銘がつけられた大井戸茶碗である。
外箱に伝来が書かれている。
信長井戸由来記
織田内府信長公御物也、京極殿に伝り太閤殿下御所持、其後古田織部正重勝之ヲ拝領、以後淀屋 庵ノ重器なり、故有て我に伝ふ、子孫永宝なすべき也、 紹甫
畠山記念館所蔵なるこの井戸茶碗、信長が所持していたのが、何故京極家に伝わったのであろうか?
これを私は、本能寺の変後安土城に残っていた信長の遺宝であったと思っている。つまり明智光秀が気前よく分配したと云われる物の一つで、光秀に味方した京極高次が受け取ったモノではなかったか。
織田信長の所持によりこの銘がつけられた大井戸茶碗である。
外箱に伝来が書かれている。
信長井戸由来記
織田内府信長公御物也、京極殿に伝り太閤殿下御所持、其後古田織部正重勝之ヲ拝領、以後淀屋 庵ノ重器なり、故有て我に伝ふ、子孫永宝なすべき也、 紹甫
畠山記念館所蔵なるこの井戸茶碗、信長が所持していたのが、何故京極家に伝わったのであろうか?
これを私は、本能寺の変後安土城に残っていた信長の遺宝であったと思っている。つまり明智光秀が気前よく分配したと云われる物の一つで、光秀に味方した京極高次が受け取ったモノではなかったか。
久しぶりに女性史についてご紹介したい。
織田信雄の室について、先に論じたことがある北畠具教の娘、雪姫が正室。
寛政譜に継室とある木造具政の女。そして、織田家雑録にある継室津田長利女。織田信清の女で先に安土殿ではないかと論じた女。
二代宇陀藩主織田高長の母は、久保三右衛門の女である。
久保氏は、信雄の家臣であったが、他の女の父に比べると低い身分であったことは歪めない。
久保三右衛門は後に前田家に仕えた。その縁かどうか分からないが、高長は前田家に仕えることになる。
この高長は、父常真の奨めで織田家に戻ることになった。
しかし、母の動向は他の信雄の室同様よく分からなかったが、墓所であった所が判明した。法名は壽徳院とある。(出典は、諸事情でひかえせせて頂きます)
壽徳院と分かり、高野山悉地院過去帳に
壽徳院乾室宗元大姉 施主織田出雲守様 寛永二十一年十月十五日
とあるのが、高長母と結び付けられなかったが、やっとすっきりした。
高長母は、信雄追放の時(1590)に高長を生んだ。その後の動向は分からないが、長生したのが幸い?してか、高長が引き取ったのであろうか、最期の記録が残ることとなった。
織田信雄の室について、先に論じたことがある北畠具教の娘、雪姫が正室。
寛政譜に継室とある木造具政の女。そして、織田家雑録にある継室津田長利女。織田信清の女で先に安土殿ではないかと論じた女。
二代宇陀藩主織田高長の母は、久保三右衛門の女である。
久保氏は、信雄の家臣であったが、他の女の父に比べると低い身分であったことは歪めない。
久保三右衛門は後に前田家に仕えた。その縁かどうか分からないが、高長は前田家に仕えることになる。
この高長は、父常真の奨めで織田家に戻ることになった。
しかし、母の動向は他の信雄の室同様よく分からなかったが、墓所であった所が判明した。法名は壽徳院とある。(出典は、諸事情でひかえせせて頂きます)
壽徳院と分かり、高野山悉地院過去帳に
壽徳院乾室宗元大姉 施主織田出雲守様 寛永二十一年十月十五日
とあるのが、高長母と結び付けられなかったが、やっとすっきりした。
高長母は、信雄追放の時(1590)に高長を生んだ。その後の動向は分からないが、長生したのが幸い?してか、高長が引き取ったのであろうか、最期の記録が残ることとなった。
昨日の晩(25日)桃山城天守閣がライトアップされてると思い、よく見てみるといつものではなく、映画の撮影をしているようであった。
駐車場には、ロケバスでしょうか、室内灯を付けっ放しの車が数台止まっていた。
流石映画の撮影だけあってか、ライトの明るさはいつもの数倍では無いかというぐらい凄かった。
ライトアップされていた新桃山城は、夜のせいかも知れないが幻想的であったし、また以前のイメージとは変わっていて、写真で見るより、良かった。
駐車場には、ロケバスでしょうか、室内灯を付けっ放しの車が数台止まっていた。
流石映画の撮影だけあってか、ライトの明るさはいつもの数倍では無いかというぐらい凄かった。
ライトアップされていた新桃山城は、夜のせいかも知れないが幻想的であったし、また以前のイメージとは変わっていて、写真で見るより、良かった。
總見平君信長
従一位右大臣、政事之暇、問法笑嶺和尚、為求起道号、笑師泰岩宗安之字酬之、元亀三年、以大宮郷方十九町為本寺食邑、天正元年、重授印券、永除公課諸役、十年六月、為明智氏所弑、十月、其臣秀吉新建総見院干本山、葬其遺骨、請笑師下炬、勅使入山贈太政大臣、
このブログの名は、信長が生前に大徳寺聚光院住持であった笑嶺宗訴に求めて与えられた道号「泰岩宗安」からとったものである。
信長の位牌は、総見院にもあるが、
総見院殿贈大相国一品泰巖大居士とあり、道号は略されてる。
他の寺院でも、道号まで書かれたものはない。
有名な長興寺信長画像の上部には
天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門
と、少し違う道名が賛されてる。
本朝諡號雑記には
天徳院から惣見院に院号が改めたことが記されているが、異説として華巖院なる院号が記されている。
大徳寺での信長葬儀の引導を務めた笑嶺宗訴は、古溪宗陳ほど有名ではないが、信長と親交はあった禅僧と思われる。
追記
先日の大河ドラマで長尾景虎が大徳寺で「そうしん」と云う道号を授けられたとあったが、事実なのだろうか?
従一位右大臣、政事之暇、問法笑嶺和尚、為求起道号、笑師泰岩宗安之字酬之、元亀三年、以大宮郷方十九町為本寺食邑、天正元年、重授印券、永除公課諸役、十年六月、為明智氏所弑、十月、其臣秀吉新建総見院干本山、葬其遺骨、請笑師下炬、勅使入山贈太政大臣、
このブログの名は、信長が生前に大徳寺聚光院住持であった笑嶺宗訴に求めて与えられた道号「泰岩宗安」からとったものである。
信長の位牌は、総見院にもあるが、
総見院殿贈大相国一品泰巖大居士とあり、道号は略されてる。
他の寺院でも、道号まで書かれたものはない。
有名な長興寺信長画像の上部には
天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門
と、少し違う道名が賛されてる。
本朝諡號雑記には
天徳院から惣見院に院号が改めたことが記されているが、異説として華巖院なる院号が記されている。
大徳寺での信長葬儀の引導を務めた笑嶺宗訴は、古溪宗陳ほど有名ではないが、信長と親交はあった禅僧と思われる。
追記
先日の大河ドラマで長尾景虎が大徳寺で「そうしん」と云う道号を授けられたとあったが、事実なのだろうか?
安土城天主は天正六年に崩壊か? 西ヶ谷恭弘著
上記記事コピー頂きました、いつもありがとうございます。
西ヶ谷氏は天主タオレに関しては
この建築作業中におそらく暮風雨で天主台石垣の一部か組まれた支柱の一部が崩壊したのではあるまいか。
と、好意的に論じられている。
これからの研究者達の論考に注目です。
先日大津歴史博物館へ行きましたら、23日から園城寺の慶長期の復興と金堂の再建というミニ企画展が来月25日まであるそうだ。
堂塔坊舎破却の件もあり、要注目。
日曜日の大河ドラマで、山本勘介と長尾景虎が高野山無量光院を訪ねていたが、私も訪ねたことがある。
この無量光院こそ、江戸時代織田家の菩提寺であった悉地院の後身であったことが分かったからなのである。火災の後、一寺院の復興が出来なかったらしく、二個一で復興したのが現在の無量光院だそうです。
実際に二人が行ったかどうか知らない。
正月映画に茶々、つまり淀殿の映画のセットに桃山城を改装するという記事を見たが、なるほどいつもライトアップされてる天守閣が今日見ると、されていなかった。大坂城になるというが、伏見に大坂城天守閣が出きるとは、映画の完成も楽しみである。
上記記事コピー頂きました、いつもありがとうございます。
西ヶ谷氏は天主タオレに関しては
この建築作業中におそらく暮風雨で天主台石垣の一部か組まれた支柱の一部が崩壊したのではあるまいか。
と、好意的に論じられている。
これからの研究者達の論考に注目です。
先日大津歴史博物館へ行きましたら、23日から園城寺の慶長期の復興と金堂の再建というミニ企画展が来月25日まであるそうだ。
堂塔坊舎破却の件もあり、要注目。
日曜日の大河ドラマで、山本勘介と長尾景虎が高野山無量光院を訪ねていたが、私も訪ねたことがある。
この無量光院こそ、江戸時代織田家の菩提寺であった悉地院の後身であったことが分かったからなのである。火災の後、一寺院の復興が出来なかったらしく、二個一で復興したのが現在の無量光院だそうです。
実際に二人が行ったかどうか知らない。
正月映画に茶々、つまり淀殿の映画のセットに桃山城を改装するという記事を見たが、なるほどいつもライトアップされてる天守閣が今日見ると、されていなかった。大坂城になるというが、伏見に大坂城天守閣が出きるとは、映画の完成も楽しみである。
京都新聞 夕刊 2007年10月20日
一面に取り上げたこの新聞記事、旧本能寺跡の第三弾とも言うべき今回の記事。七月に行われた調査で出てきた堀の延長に、小川通りを越えることがなかったとの見解が述べられ、境内の東北部、四分の一を正方形で囲んでいたのではないかと言う、見解を述べられている。
発掘調査をした、関西文化財調査会(上京区、吉川義彦代表)は、フロイスの記述、僧侶を追い出しての記述から、「僧侶のいない寺に本堂は必要ない。本堂を壊し、その資材を利用して占拠した可能性もある」と推測されているようだ、、、、
また、今谷明教授は、堀により、信長は境内に僧侶が立ち入れない空間を作ったのだろう。堀の復元で、信長にとっての本能寺が、軍事的というより、天皇や公家を迎える儀礼的な空間だった性格が明かになったと述べられてる、、、、
信長公記を読み返して見ると。
前略 透をあらせず、御殿へ乗入り、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。御厩より 後略
本庄惣右衛門覚書を見てみると
取った首を堂の下に投げ入れ、とか、殿舎に入ったが、蚊帳が吊ってあるだけだったと記してある。これも本堂のことでしょう。
本堂があったことは間違いないでしょう。また、公記すら見てない方が、発掘されているのでしょうか?と思いたくなる。
また天皇を本能寺に迎える、、、とは?あの狭い空間にと思うのですが。
数年前、この旧本能寺跡を案内した際、法華宗の寺院の特長、本庄惣右衛門覚書等から、寺の東北に信長が自刃した御殿があったとの話になり、その辺りで、話込み、中々皆さんがその場所から離れなかったことがあったが、場所はそれを裏付けることができて、納得したのですが、本堂がないとはどうかと。
一面に取り上げたこの新聞記事、旧本能寺跡の第三弾とも言うべき今回の記事。七月に行われた調査で出てきた堀の延長に、小川通りを越えることがなかったとの見解が述べられ、境内の東北部、四分の一を正方形で囲んでいたのではないかと言う、見解を述べられている。
発掘調査をした、関西文化財調査会(上京区、吉川義彦代表)は、フロイスの記述、僧侶を追い出しての記述から、「僧侶のいない寺に本堂は必要ない。本堂を壊し、その資材を利用して占拠した可能性もある」と推測されているようだ、、、、
また、今谷明教授は、堀により、信長は境内に僧侶が立ち入れない空間を作ったのだろう。堀の復元で、信長にとっての本能寺が、軍事的というより、天皇や公家を迎える儀礼的な空間だった性格が明かになったと述べられてる、、、、
信長公記を読み返して見ると。
前略 透をあらせず、御殿へ乗入り、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。御厩より 後略
本庄惣右衛門覚書を見てみると
取った首を堂の下に投げ入れ、とか、殿舎に入ったが、蚊帳が吊ってあるだけだったと記してある。これも本堂のことでしょう。
本堂があったことは間違いないでしょう。また、公記すら見てない方が、発掘されているのでしょうか?と思いたくなる。
また天皇を本能寺に迎える、、、とは?あの狭い空間にと思うのですが。
数年前、この旧本能寺跡を案内した際、法華宗の寺院の特長、本庄惣右衛門覚書等から、寺の東北に信長が自刃した御殿があったとの話になり、その辺りで、話込み、中々皆さんがその場所から離れなかったことがあったが、場所はそれを裏付けることができて、納得したのですが、本堂がないとはどうかと。
建仁寺方丈前にある、十三重石塔は織田信長の供養塔である。
建仁寺の側溝から出てきた?と何かの本で読んだことがあるが、施主は有楽斎だと思っていたが、どうやら違うようである。
玉仲遺文によると、
娑婆世界榑桑国泉州堺南之住、大願主今井宗久禅人、天正十年龍集壬午林鐘初二日、伏植 大相国薨、重建 十三級石塔、而安置仏舎利、以表 顕一代之武徳、要脱生死也
施主は、今井宗久のようである。また、一周忌に際しても玉仲が塔婆を書いている。(古溪宗陳 竹貫元勝著 2006年 淡交社)
建仁寺は、常時拝観できないのでご注意を。同じ境内に安国寺恵瓊の墓があるのは愛嬌か、縁か。
京都東山阿弥陀ヶ峰山頂にある豊臣秀吉の墓は、大徳寺総見院にある織田信長墓をモデルにしていることは、知られていない。
明治になってから掘り起こされた秀吉の遺体は、中腹から山上へ移された。その墓形態をどうするか考えた結果、信長墓をモデルにすることになったという。
H8年大河ドラマ秀吉のオープニングシーンで、子供が階段を駆け上がって行くところがあるが、あの唐門付近に、初め葬られたようである。
総見院の織田信長墓は、秀吉が施主となったことは残されている文書から確認できる。
しかし、この信長墓、裏から見た方は多分いらっしゃらないと思うが、何故か△のマークが入っている。
ちなみに、秀吉の墓に、△は入ってない(笑
建仁寺の側溝から出てきた?と何かの本で読んだことがあるが、施主は有楽斎だと思っていたが、どうやら違うようである。
玉仲遺文によると、
娑婆世界榑桑国泉州堺南之住、大願主今井宗久禅人、天正十年龍集壬午林鐘初二日、伏植 大相国薨、重建 十三級石塔、而安置仏舎利、以表 顕一代之武徳、要脱生死也
施主は、今井宗久のようである。また、一周忌に際しても玉仲が塔婆を書いている。(古溪宗陳 竹貫元勝著 2006年 淡交社)
建仁寺は、常時拝観できないのでご注意を。同じ境内に安国寺恵瓊の墓があるのは愛嬌か、縁か。
京都東山阿弥陀ヶ峰山頂にある豊臣秀吉の墓は、大徳寺総見院にある織田信長墓をモデルにしていることは、知られていない。
明治になってから掘り起こされた秀吉の遺体は、中腹から山上へ移された。その墓形態をどうするか考えた結果、信長墓をモデルにすることになったという。
H8年大河ドラマ秀吉のオープニングシーンで、子供が階段を駆け上がって行くところがあるが、あの唐門付近に、初め葬られたようである。
総見院の織田信長墓は、秀吉が施主となったことは残されている文書から確認できる。
しかし、この信長墓、裏から見た方は多分いらっしゃらないと思うが、何故か△のマークが入っている。
ちなみに、秀吉の墓に、△は入ってない(笑
穴太城は、小幡神社の西の裏山にあり、別名長谷山城ともいう。
信長公記首巻に出てくる、内藤備前守与力赤沢加賀守の居城である。
丹波志桑田記に、赤沢加賀守出城ノ趾とあり、裏付けることができる。
遺構は、三つからなり、一番手前にある堀切を挟んで南北の郭で形態が異なる郭が主郭らしく、山上の郭が臨時的なものらしく、立て篭もりようなのか。
この赤沢加賀が鷹好きで、関東へ行った帰りに信長に鷹を進上しようとしたところ、天下を取ってから貰うと答えたところ、都で嘲笑を買ったところ十年も経たずに上洛を果たしたというエピソ−ドが首巻の最後に出てくるのだが、赤沢加賀も地元でも資料は残されていないようで、何も分からない。
穴太城跡こと、長谷山城は亀岡市にあり、京都縦貫道亀岡インターチェンジをおりて、亀岡運動公園の向こうに見える低い山である。
断っておきますが、石碑、案内版等なしなので、散策していると怪しまれます(笑
信長公記首巻に出てくる、内藤備前守与力赤沢加賀守の居城である。
丹波志桑田記に、赤沢加賀守出城ノ趾とあり、裏付けることができる。
遺構は、三つからなり、一番手前にある堀切を挟んで南北の郭で形態が異なる郭が主郭らしく、山上の郭が臨時的なものらしく、立て篭もりようなのか。
この赤沢加賀が鷹好きで、関東へ行った帰りに信長に鷹を進上しようとしたところ、天下を取ってから貰うと答えたところ、都で嘲笑を買ったところ十年も経たずに上洛を果たしたというエピソ−ドが首巻の最後に出てくるのだが、赤沢加賀も地元でも資料は残されていないようで、何も分からない。
穴太城跡こと、長谷山城は亀岡市にあり、京都縦貫道亀岡インターチェンジをおりて、亀岡運動公園の向こうに見える低い山である。
断っておきますが、石碑、案内版等なしなので、散策していると怪しまれます(笑
京都国立博物館 10月16日から11月18日まで
信長様・秀吉様ご推奨 天下をとった絵師、京都見参
行ってまいりました、狩野永徳展。
九時半開場なので、直後ぐらいに入場したが、入り口の聚光院の襖絵からもう人がいっぱいでした。これが、土日となると絵も見れない位になるのかと思いつつ、日曜まで限定の先着者にもらえるピンを頂くが、思ったより小さく残念。混んでない先の絵から見ようと進み、というか目的は織田信長画像。先へ進み、見つける。
初対面、狩野永徳筆信長像。思ったより大きく、その横に大徳寺本の衣冠束帯姿の信長像も並べて展示されていた。
(過去の記事 6月 織田信長画像 13番)
この肩衣袴像、長興院本の祖本と宮島新一氏は指摘されている。寿像は図録では否定されてました。
衣冠束帯姿像、初公開と銘打ってましたが、総見院の特別公開で展示されたことがあり、友人から情報をもらってました。残念京都国博。
近江八幡西光寺本も、伝永徳筆と言われいて、京都国博に移管されている筈であるのに展示されないのは、永徳筆ではないのだろうか。
細川昭元室、信長妹お犬の方の画像も展示されていた。
さて、この永徳展一番人だかりができていたのは、上杉本洛中洛外図屏風で、近くで見るのに苦労した。二番目は、聚光院の襖絵でしょうか。
あの唐獅子も初めて実見したが、その大きさに脱帽した。
一番最後にあったので、混んでなく見られたのが良かった。
そして、やるな京博と思ったのが、存在は知っていたが見れると思って無かった、名古屋別院所蔵信長所持の扇が見れたことだった。
このような展覧会がなければ見ることが出来ないので、大変貴重なものがみれた、時間を忘れて観ることができた。
申し訳ないが、絵に関するコメントは知識がないので差し控えさせて頂きたい。常設展に、 安土城屏風を贈った等のビデオを見て帰った。
昼から大津歴史博物館へ、初公開の明智光秀木像(慈眼寺)を拝見しに行ったが、ここでも、安土総見寺本織田信長画像を見ることができ、意外?にも本能寺の瓦も展示されていた。見逃された方、必見です。
大津歴博近いのだが、初めて行ったが、見晴らしは最高です。
信長様・秀吉様ご推奨 天下をとった絵師、京都見参
行ってまいりました、狩野永徳展。
九時半開場なので、直後ぐらいに入場したが、入り口の聚光院の襖絵からもう人がいっぱいでした。これが、土日となると絵も見れない位になるのかと思いつつ、日曜まで限定の先着者にもらえるピンを頂くが、思ったより小さく残念。混んでない先の絵から見ようと進み、というか目的は織田信長画像。先へ進み、見つける。
初対面、狩野永徳筆信長像。思ったより大きく、その横に大徳寺本の衣冠束帯姿の信長像も並べて展示されていた。
(過去の記事 6月 織田信長画像 13番)
この肩衣袴像、長興院本の祖本と宮島新一氏は指摘されている。寿像は図録では否定されてました。
衣冠束帯姿像、初公開と銘打ってましたが、総見院の特別公開で展示されたことがあり、友人から情報をもらってました。残念京都国博。
近江八幡西光寺本も、伝永徳筆と言われいて、京都国博に移管されている筈であるのに展示されないのは、永徳筆ではないのだろうか。
細川昭元室、信長妹お犬の方の画像も展示されていた。
さて、この永徳展一番人だかりができていたのは、上杉本洛中洛外図屏風で、近くで見るのに苦労した。二番目は、聚光院の襖絵でしょうか。
あの唐獅子も初めて実見したが、その大きさに脱帽した。
一番最後にあったので、混んでなく見られたのが良かった。
そして、やるな京博と思ったのが、存在は知っていたが見れると思って無かった、名古屋別院所蔵信長所持の扇が見れたことだった。
このような展覧会がなければ見ることが出来ないので、大変貴重なものがみれた、時間を忘れて観ることができた。
申し訳ないが、絵に関するコメントは知識がないので差し控えさせて頂きたい。常設展に、 安土城屏風を贈った等のビデオを見て帰った。
昼から大津歴史博物館へ、初公開の明智光秀木像(慈眼寺)を拝見しに行ったが、ここでも、安土総見寺本織田信長画像を見ることができ、意外?にも本能寺の瓦も展示されていた。見逃された方、必見です。
大津歴博近いのだが、初めて行ったが、見晴らしは最高です。
秀吉神話をくつがえす 藤田達生著
一応、目を通してみました。藤本先生の指摘にどう答えるかが興味あったので。意外にも反論されてましたね。
桐野さん、堀新さん指摘の小屋がけは、無視でしたね。
残念です。以上。
最近テレビで、信長が女装が趣味と言われてる方がいるとか。
女装ではなく、女踊りをしたという公記首巻の記述からの誤解でしょう。
梅沢富美雄は、女装が趣味なのでしょうか?と突っ込みたくなった。
本日の京都新聞に岐阜信長居館跡に、フロイスの記述どおり小石が敷き詰めた庭園跡が出土したという。岐阜へも訪ねたくなった。
養華院に新史料入手。他、色々目新しい史料頂きました。
この場を借りて御礼申し上げます。
昨日、御土居の前を通り雑草を刈り上げてました。手入れも大変だなと感じましたね。もう、京都も涼しくなってきたが。
狩野永徳展が昨日から始まりましたね。
明日行ってみたいです。
以上、ブログらしく独り言でした。
一応、目を通してみました。藤本先生の指摘にどう答えるかが興味あったので。意外にも反論されてましたね。
桐野さん、堀新さん指摘の小屋がけは、無視でしたね。
残念です。以上。
最近テレビで、信長が女装が趣味と言われてる方がいるとか。
女装ではなく、女踊りをしたという公記首巻の記述からの誤解でしょう。
梅沢富美雄は、女装が趣味なのでしょうか?と突っ込みたくなった。
本日の京都新聞に岐阜信長居館跡に、フロイスの記述どおり小石が敷き詰めた庭園跡が出土したという。岐阜へも訪ねたくなった。
養華院に新史料入手。他、色々目新しい史料頂きました。
この場を借りて御礼申し上げます。
昨日、御土居の前を通り雑草を刈り上げてました。手入れも大変だなと感じましたね。もう、京都も涼しくなってきたが。
狩野永徳展が昨日から始まりましたね。
明日行ってみたいです。
以上、ブログらしく独り言でした。
禅文化 168号 竹貫元勝著
織田信長は、美濃を併合した永禄十年において、城下町の「井ノ口」を改め、新しい名称を考えられるよう命じられた沢彦。
延宝伝灯録によると、歴参行脚して諸方を尋ねたという。そして、行きついたのが、妙心寺四派の悟溪宗頓を祖とする東海派泰秀宗韓であったという。その後、妙心寺を辞し、美濃の大宝寺の住持となった。
この大宝寺の壇越に平手氏政がおり、平手氏の縁ができたようだ。
有名な平手政秀の霊を弔う為に小牧山の南にあたる小木村に政秀寺を創建し、沢彦を開山とした。
岐阜迄は、重用されていたが安土へは招かれなかったのは、何故か理由があるのだろうか?この政秀寺は、現在名古屋市内にあるが、小木村の跡は、現在は世尊寺という寺が建っている。清洲と小牧への街道沿いに位置した政秀寺であったが、小牧長久手の戦いで消失してしまう。
この尾張の新しい支配者息子の信雄のことをどう思っていたのか個人的
には大変興味がある。
沢彦は、信長の求めに応じて、岐阜・岐山・岐陽の三つ案を出し、その中から信長は岐阜を選んだという。
また天下布武の印判文字も沢彦が選んだといわれている。ただ、出典が不明であり、沢彦が考えた四文字なのかも?しれないと締められている。
織田信長は、美濃を併合した永禄十年において、城下町の「井ノ口」を改め、新しい名称を考えられるよう命じられた沢彦。
延宝伝灯録によると、歴参行脚して諸方を尋ねたという。そして、行きついたのが、妙心寺四派の悟溪宗頓を祖とする東海派泰秀宗韓であったという。その後、妙心寺を辞し、美濃の大宝寺の住持となった。
この大宝寺の壇越に平手氏政がおり、平手氏の縁ができたようだ。
有名な平手政秀の霊を弔う為に小牧山の南にあたる小木村に政秀寺を創建し、沢彦を開山とした。
岐阜迄は、重用されていたが安土へは招かれなかったのは、何故か理由があるのだろうか?この政秀寺は、現在名古屋市内にあるが、小木村の跡は、現在は世尊寺という寺が建っている。清洲と小牧への街道沿いに位置した政秀寺であったが、小牧長久手の戦いで消失してしまう。
この尾張の新しい支配者息子の信雄のことをどう思っていたのか個人的
には大変興味がある。
沢彦は、信長の求めに応じて、岐阜・岐山・岐陽の三つ案を出し、その中から信長は岐阜を選んだという。
また天下布武の印判文字も沢彦が選んだといわれている。ただ、出典が不明であり、沢彦が考えた四文字なのかも?しれないと締められている。
雍州府志 巻八
かつて霊陽院義昭公本国寺にありし時、織田信長公なきを瞰ひ、
三好の一族、大いにこれを囲む。信長公、急に洛に入る。
ここにおいて、三好軍退き、営中、恙無し。
その後、信長公、二条城を築き、相共にこれに移る。今、高倉二条の北を
天主町といふ。二条城、この処にありしか。
義昭の将軍御城を何故、二条城というのか。
これにはこれにヒントがある様に思った。
江戸時代でも、将軍御城が何処にあったか分からなかったようだ。
(信長公記に載っているのだが?)
そこで、天主町が二条にあるところから派生していったのではと推論して見た。
かつて霊陽院義昭公本国寺にありし時、織田信長公なきを瞰ひ、
三好の一族、大いにこれを囲む。信長公、急に洛に入る。
ここにおいて、三好軍退き、営中、恙無し。
その後、信長公、二条城を築き、相共にこれに移る。今、高倉二条の北を
天主町といふ。二条城、この処にありしか。
義昭の将軍御城を何故、二条城というのか。
これにはこれにヒントがある様に思った。
江戸時代でも、将軍御城が何処にあったか分からなかったようだ。
(信長公記に載っているのだが?)
そこで、天主町が二条にあるところから派生していったのではと推論して見た。
安土山に現在も残る、総見寺は臨済宗妙心寺派であるが、信長在城時は上記僧が真言僧らしいので、真言宗であったようだ。
この僧に関して、江戸時代の総見寺でも謎であったようで、宝暦五年(1755)当時の住持から尾張藩士織田周防守(信長九男の子孫)へ書状を送り調査を依頼した。
周防守の返事は、
信長公小牧ニ御在候時分、五代以前堯照法印屋敷拝領御祈祷所建立、其後信長公安土へ御国替之時、安土ニモ居申サレ候由、右法印入寂天正十四丙戌五月八日
以上秋田裕毅氏の織田信長と安土城を参照したが、秋田氏はこの記述があった天王坊を、津島神社のような書きかたをされているが、この天王坊は、那古野城下にあった、天王坊ではないであろうか。
小牧に祈祷所があったとあるが、岐阜は飛ばして、何故安土に招かれたのであろうか?総見寺建立の謎に迫れる謎である。
以前の記事で、法華寺の日陽は岐阜城内に八棟作りの屋敷を持っていたようだが、安土へは何故招かれなかったのであろうか。
清洲城、?
小牧城、堯照法印(真言宗)
岐阜城、日陽上人(法華宗)
安土城、堯照法印(真言宗)
信長は、無神論者と言われているが、これを見てもそうではなさそうである。
この僧に関して、江戸時代の総見寺でも謎であったようで、宝暦五年(1755)当時の住持から尾張藩士織田周防守(信長九男の子孫)へ書状を送り調査を依頼した。
周防守の返事は、
信長公小牧ニ御在候時分、五代以前堯照法印屋敷拝領御祈祷所建立、其後信長公安土へ御国替之時、安土ニモ居申サレ候由、右法印入寂天正十四丙戌五月八日
以上秋田裕毅氏の織田信長と安土城を参照したが、秋田氏はこの記述があった天王坊を、津島神社のような書きかたをされているが、この天王坊は、那古野城下にあった、天王坊ではないであろうか。
小牧に祈祷所があったとあるが、岐阜は飛ばして、何故安土に招かれたのであろうか?総見寺建立の謎に迫れる謎である。
以前の記事で、法華寺の日陽は岐阜城内に八棟作りの屋敷を持っていたようだが、安土へは何故招かれなかったのであろうか。
清洲城、?
小牧城、堯照法印(真言宗)
岐阜城、日陽上人(法華宗)
安土城、堯照法印(真言宗)
信長は、無神論者と言われているが、これを見てもそうではなさそうである。
現代の京都は、水道水として琵琶湖からの疎水で賄っている。
それ以前は、井戸によって水を確保していた。
二条御新造にも、井戸があったと思われるが、その敷地内と思われる民家の敷地に京都市内最大と思しき井戸が残されている。
Iさん邸では、この辺りで信忠が自害したと言い伝えられているそうだ。
この近くで、数年前二条家の屋敷にあった池跡の発掘調査が行われ、現地上面より、かなり掘り下げたところにあり、Iさん邸の井戸底面と比べて、
井戸のほうが、少し低いかなと感じたが、この井戸が二条邸の名残ではないかと思われる。
何故この井戸を注目したかというと、信忠を介錯した鎌田新介(五左衛門)は切腹せず、石井(石造りの井戸)の中に飛び込み、1丈(約3メートル)ほど下の積み石が抜けた所に這い入って身を隠し、夜半になってから忍び出たという。(明智軍記)その3メートルが、この井戸にピッタリ当てはまるので、鎌田の隠れ井戸と私だけは思っている(笑
参照 真説本能寺 桐野作人著 H13年 P143
それ以前は、井戸によって水を確保していた。
二条御新造にも、井戸があったと思われるが、その敷地内と思われる民家の敷地に京都市内最大と思しき井戸が残されている。
Iさん邸では、この辺りで信忠が自害したと言い伝えられているそうだ。
この近くで、数年前二条家の屋敷にあった池跡の発掘調査が行われ、現地上面より、かなり掘り下げたところにあり、Iさん邸の井戸底面と比べて、
井戸のほうが、少し低いかなと感じたが、この井戸が二条邸の名残ではないかと思われる。
何故この井戸を注目したかというと、信忠を介錯した鎌田新介(五左衛門)は切腹せず、石井(石造りの井戸)の中に飛び込み、1丈(約3メートル)ほど下の積み石が抜けた所に這い入って身を隠し、夜半になってから忍び出たという。(明智軍記)その3メートルが、この井戸にピッタリ当てはまるので、鎌田の隠れ井戸と私だけは思っている(笑
参照 真説本能寺 桐野作人著 H13年 P143
安土城見学資料 関西城郭研究会 H12年5月28日
H12年2月19日朝日新聞 夕刊記事要約
織田信長と言えば、仏教勢力を弾圧、迷信、俗信を排し、戦国武将として合理的、近代的精神の持ち主とされる信長の、意外一面を知るものとして注目される。
この遺構は、清涼殿風の御殿が立っていたと言われる本丸跡の二ヶ所で見つかった。
一ヶ所は本丸西端の天主台石垣下の竃状遺構で、約六十センチ掘り下げたところ、二つの竃の焼け跡と敷石があった。竃は壊した後に、ビー玉大で粒揃いの小石多数を丁寧に埋めており、その直ぐ上から石垣を築いていた。
もう一ヶ所は本丸北端で、同じような竃状の焼け跡があり、小石を埋めていた。本丸の敷地造成をした後に竃を築いて火をたき、何らかの所作をした後、小石で石垣の築造や建物の建設工事を始めていることが分かった。
さらに、埋め戻しに使った小石は、琵琶湖岸にある「小豆石」と呼ばれる茶色のもの、橙色の花崗岩を砕いた石、「長石」という白い石を砕いたものを、場所によって使い分けていることも分かった。
無神論者と言われる信長も、安土築城で陰陽師に地鎮祭をさせても不思議ではない(小和田哲男静岡大学教授)
合理主義者と言われる信長の意外な一面を伺い知るものであるが、陰明道に詳しくないが、二つあるのは二代目天主造営時の遺構と考えるのは、何でかんでも結びつけすぎであろうか。
それか、倒壊してしまったので、陰明師を連れてきて、工事の無事を祈ったのかも知れない。
H12年2月19日朝日新聞 夕刊記事要約
織田信長と言えば、仏教勢力を弾圧、迷信、俗信を排し、戦国武将として合理的、近代的精神の持ち主とされる信長の、意外一面を知るものとして注目される。
この遺構は、清涼殿風の御殿が立っていたと言われる本丸跡の二ヶ所で見つかった。
一ヶ所は本丸西端の天主台石垣下の竃状遺構で、約六十センチ掘り下げたところ、二つの竃の焼け跡と敷石があった。竃は壊した後に、ビー玉大で粒揃いの小石多数を丁寧に埋めており、その直ぐ上から石垣を築いていた。
もう一ヶ所は本丸北端で、同じような竃状の焼け跡があり、小石を埋めていた。本丸の敷地造成をした後に竃を築いて火をたき、何らかの所作をした後、小石で石垣の築造や建物の建設工事を始めていることが分かった。
さらに、埋め戻しに使った小石は、琵琶湖岸にある「小豆石」と呼ばれる茶色のもの、橙色の花崗岩を砕いた石、「長石」という白い石を砕いたものを、場所によって使い分けていることも分かった。
無神論者と言われる信長も、安土築城で陰陽師に地鎮祭をさせても不思議ではない(小和田哲男静岡大学教授)
合理主義者と言われる信長の意外な一面を伺い知るものであるが、陰明道に詳しくないが、二つあるのは二代目天主造営時の遺構と考えるのは、何でかんでも結びつけすぎであろうか。
それか、倒壊してしまったので、陰明師を連れてきて、工事の無事を祈ったのかも知れない。
前略
頗る奢華美麗ナル宮殿ヲ建設センタメ、安土ノ市街ヲ俯瞰スル従来殿堂アル一箇ノ山地ヲ選ミ、許多ノ職工ヲ用ヒ速ニ之レヲ修飾シ、
信長が築いた安土城前身、安土山には元々、殿堂つまり寺院の存在があったことを示唆している。
例えば、安土山には現在九品寺平や、神様平等の地名が残り、
安土寺という寺院があったのではという説もある(織田信長と安土城 秋田裕毅著)
それはさておき、安土山に寺があったならば、どの様な規模の寺院であったかが、興味深いが、近江東部では、立派な石垣作りの寺院が多数存在する。
例えば、近江三山西明寺であるが、この寺院を訪れた際、参道が安土城の大手道に似てると思ったのは、私だけでなく、一緒に参詣したものも同感であった。
信長は、何もない安土山に一から築いたのではなく、その下地となる寺院があったことは、間違いないと思うが、どの位の規模であったかは?であるが。
中川重政の安土城、細川家の記録にある目賀田山城との関連も興味深いが、根本は殿堂、石垣作りの寺院ではなかったか。
頗る奢華美麗ナル宮殿ヲ建設センタメ、安土ノ市街ヲ俯瞰スル従来殿堂アル一箇ノ山地ヲ選ミ、許多ノ職工ヲ用ヒ速ニ之レヲ修飾シ、
信長が築いた安土城前身、安土山には元々、殿堂つまり寺院の存在があったことを示唆している。
例えば、安土山には現在九品寺平や、神様平等の地名が残り、
安土寺という寺院があったのではという説もある(織田信長と安土城 秋田裕毅著)
それはさておき、安土山に寺があったならば、どの様な規模の寺院であったかが、興味深いが、近江東部では、立派な石垣作りの寺院が多数存在する。
例えば、近江三山西明寺であるが、この寺院を訪れた際、参道が安土城の大手道に似てると思ったのは、私だけでなく、一緒に参詣したものも同感であった。
信長は、何もない安土山に一から築いたのではなく、その下地となる寺院があったことは、間違いないと思うが、どの位の規模であったかは?であるが。
中川重政の安土城、細川家の記録にある目賀田山城との関連も興味深いが、根本は殿堂、石垣作りの寺院ではなかったか。
佐和山おさへの諸執出(砦)之道具共、両人かたへ可預置候、
小谷表之普請之用ニすべく候、五郎左衛門かたへ
申遣候条、両人打越間、とりあつめ可置候、ちり候ハぬ様ニ可
被申付候、謹言、
二月廿五日 信長(花押)
樋口三郎兵衛殿
藤吉郎殿
この書状は、信長が北近江の秀吉と樋口直房に宛てた書状で佐和山城攻めの陣城に使った資材を、小谷城攻めの陣城に使うから、両人は佐和山へ行って、資材を確保しておけという意味の指図文書であるが、この史料によって陣城などを築く際普請用材を確保しておく集団を形成していたと考えられ、戦闘要員とは別の集団を組織していたと考えられます。
しかもその集団を武将の指揮下へ入れる、特殊な集団を配置していたと思われます。
小谷城攻め、つまり虎御前山砦使用後、どうなったかは定かではないが、あの長篠の戦いの際、陣城を構築したと言われているので、そこに使用されたかも知れない。
そして、安土城の仮御座所に使用されたかもと考えるのは早計であろうか?資材を使用してなくても、その集団が安土城築城に携わった可能性はあろう。敵方の最前線で、短期に築城する技術を持っていた集団が、敵方のいない所で数ヶ月で天主閣を築城することは案外可能ではないであろうか。
東京大学史料編纂所研究紀要 第17号 2007年3月 金子拓著
当時の法隆寺は、学侶と堂衆という大別して二つの身分階級が存在し、子院のある場所から学侶が西寺で、堂衆が東寺と称された。
この両階層の対立は、天正年間にピークに達し、江戸時代まで連綿と続くのである。天正二年から七年までの相論を関係文書を整理して、信長権力のあり方、大和国支配、寺社支配等を論じられている。
新しい論文に触れる度に、信長の違う側面が見れて興味深い。しかし、流石最新鋭の学者さんの書かれている論文を私などが、書評出来る分けないが、興味深いことを紹介させて頂くと、井戸良弘による
「事度々候間、殿様思召忘事も候ハつる」
と、信長は寺社に対して消極的であったと。
日々の出来事に精一杯で、手が廻らなかったのか、元々忘れっぽかった性格なのか?
天正二年以来東寺西寺いずれも信長権力に依存し、朱印を得、それを根拠に対立をくりかえしてきたが、信長が倒れ、分裂状態であった所領の一円化せんと画策するのであるが、江戸時代になっても対立は収まったわけではなく、相論の際堂衆が依拠したのはなお信長の朱印状であったという。
慶長十五年(1610)に家康に相論が持ち込まれ、最終的に破棄され、失効するまで死後29年間奈良に於いて影響を及ぼしたのである。
著者金子氏は、織田信直と「伝織田又六画像」画像史料解析センター通信において、本像を織田信直と論じられている。
というのも、新修名古屋市史に本像を市橋利政とする説を述べられているが、法名下二字の不一致に加え、年代も合わないとバッサリ切っている。
これからも、信長関連論文を期待するものである。
当時の法隆寺は、学侶と堂衆という大別して二つの身分階級が存在し、子院のある場所から学侶が西寺で、堂衆が東寺と称された。
この両階層の対立は、天正年間にピークに達し、江戸時代まで連綿と続くのである。天正二年から七年までの相論を関係文書を整理して、信長権力のあり方、大和国支配、寺社支配等を論じられている。
新しい論文に触れる度に、信長の違う側面が見れて興味深い。しかし、流石最新鋭の学者さんの書かれている論文を私などが、書評出来る分けないが、興味深いことを紹介させて頂くと、井戸良弘による
「事度々候間、殿様思召忘事も候ハつる」
と、信長は寺社に対して消極的であったと。
日々の出来事に精一杯で、手が廻らなかったのか、元々忘れっぽかった性格なのか?
天正二年以来東寺西寺いずれも信長権力に依存し、朱印を得、それを根拠に対立をくりかえしてきたが、信長が倒れ、分裂状態であった所領の一円化せんと画策するのであるが、江戸時代になっても対立は収まったわけではなく、相論の際堂衆が依拠したのはなお信長の朱印状であったという。
慶長十五年(1610)に家康に相論が持ち込まれ、最終的に破棄され、失効するまで死後29年間奈良に於いて影響を及ぼしたのである。
著者金子氏は、織田信直と「伝織田又六画像」画像史料解析センター通信において、本像を織田信直と論じられている。
というのも、新修名古屋市史に本像を市橋利政とする説を述べられているが、法名下二字の不一致に加え、年代も合わないとバッサリ切っている。
これからも、信長関連論文を期待するものである。
昭和56年8月号
安土城炎上の謎 田中政三著
前に紹介した、影武者の冒頭シーン安土城天主跡の北東の城戸口は、以前は埋っていた。ここには、天主閣の排水溝と見受けられるものが、埋っていて、この城戸口に向かっていたことから粟田氏が発掘したものである。
粟田氏は、石垣の切れ目をのあることに気付いて、内部を発掘したら天主閣の焼け落ちたままの状態が現れ、慎重に発掘すると、この城戸口が出現した。秋田氏も著書で触れられているが、この石段が切石が使われている事から、信長時代のものでないと推定されている。この石段の下に瓦が埋っていることからこの部分の下も、発掘調査すべきだったのではないでしょうか。専門家、この記事では粟田氏は石垣の切れ目を見極められた。
専門家の目というのは恐るべきものといえる。
織田信長のスポーツと食生活 宮本義己著
津田宗及茶湯日記に、京都妙覚寺における茶の湯の振る舞いの後に、お菓子の記事があり、九種類で、美濃柿、小串椎茸、花すり、むき栗、金柑、石榴、金団、むすび昆布、煎り榧実、とある。
カステラがない(笑
安土城炎上の謎 田中政三著
前に紹介した、影武者の冒頭シーン安土城天主跡の北東の城戸口は、以前は埋っていた。ここには、天主閣の排水溝と見受けられるものが、埋っていて、この城戸口に向かっていたことから粟田氏が発掘したものである。
粟田氏は、石垣の切れ目をのあることに気付いて、内部を発掘したら天主閣の焼け落ちたままの状態が現れ、慎重に発掘すると、この城戸口が出現した。秋田氏も著書で触れられているが、この石段が切石が使われている事から、信長時代のものでないと推定されている。この石段の下に瓦が埋っていることからこの部分の下も、発掘調査すべきだったのではないでしょうか。専門家、この記事では粟田氏は石垣の切れ目を見極められた。
専門家の目というのは恐るべきものといえる。
織田信長のスポーツと食生活 宮本義己著
津田宗及茶湯日記に、京都妙覚寺における茶の湯の振る舞いの後に、お菓子の記事があり、九種類で、美濃柿、小串椎茸、花すり、むき栗、金柑、石榴、金団、むすび昆布、煎り榧実、とある。
カステラがない(笑
織豊城郭 第5号 木戸雅寿著
続天主タヲレに関して、木戸氏のいうあり得ないとはなんぞや?と資料を捜すとこの論文に
調査の成果や転倒した礎石の現況から見て天主、本丸が再建された様子がない
石垣の構築順から見た連続性から天正十年以降に増改築を行ったとすることは不可能であること等から否定的な証明を行った。
したがって、安土城に関しては焼失以後の天主、本丸の再建はなかったとしてよい。
このように述べられています。天正十年以降と述べられているが、これが考古学上、考えられないという事の証左なのでしょうか。
この論文は、木戸氏の言う閉じられた空間、本城と二の丸とを分けた自説が述べられ、伝菅屋邸が二の丸と論じられている。
続天主タヲレに関して、木戸氏のいうあり得ないとはなんぞや?と資料を捜すとこの論文に
調査の成果や転倒した礎石の現況から見て天主、本丸が再建された様子がない
石垣の構築順から見た連続性から天正十年以降に増改築を行ったとすることは不可能であること等から否定的な証明を行った。
したがって、安土城に関しては焼失以後の天主、本丸の再建はなかったとしてよい。
このように述べられています。天正十年以降と述べられているが、これが考古学上、考えられないという事の証左なのでしょうか。
この論文は、木戸氏の言う閉じられた空間、本城と二の丸とを分けた自説が述べられ、伝菅屋邸が二の丸と論じられている。
大阪城天守閣紀要 第34号
有名な、美濃一国譲り渡し状であるが、現在大阪城天守閣と妙覚寺が蔵しているのだが、これは大阪城の報告書である。
備前国臣古証文によると、江戸時代には岡山藩士、斎藤佐左衛門が道三遺言状を所持していたという。
妙覚寺の遺言状は、江戸時代、文化十四年(1817年)に大坂織田弥助なる人物が寄進したものという。
大阪天守閣本は、花押が堂々と据えられていることから、桑田忠親氏は著書で正真証明の遺言状と評価されている一方、末尾の住家なりけんの、二文字が、妙覚寺本にあって、大阪城天守閣本にはない疑問点もある。
北川氏は、そもそも道三が本当に書き置いたのかという根本的な疑問を述べられ、古写本と考えておくのが妥当と締められている。
数年前、妙覚寺にお参りした際、この遺言状を実見しているが、真贋に関しては、解りかねるが、織田弥助って?誰なのかが話題になった。
妙覚寺に来たら、濃姫のこと何か残ってないかお伺いしたが、意外であるが、一番古い記録でも、天正の末期からしかなく、過去帳も、道三が斎藤ではなく、長井○(下の名忘れました)と出て来るのみとの御返事だった。
墓所に、楠木正虎と狩野永徳が眠っている隠れ信長関連寺院である。
有名な、美濃一国譲り渡し状であるが、現在大阪城天守閣と妙覚寺が蔵しているのだが、これは大阪城の報告書である。
備前国臣古証文によると、江戸時代には岡山藩士、斎藤佐左衛門が道三遺言状を所持していたという。
妙覚寺の遺言状は、江戸時代、文化十四年(1817年)に大坂織田弥助なる人物が寄進したものという。
大阪天守閣本は、花押が堂々と据えられていることから、桑田忠親氏は著書で正真証明の遺言状と評価されている一方、末尾の住家なりけんの、二文字が、妙覚寺本にあって、大阪城天守閣本にはない疑問点もある。
北川氏は、そもそも道三が本当に書き置いたのかという根本的な疑問を述べられ、古写本と考えておくのが妥当と締められている。
数年前、妙覚寺にお参りした際、この遺言状を実見しているが、真贋に関しては、解りかねるが、織田弥助って?誰なのかが話題になった。
妙覚寺に来たら、濃姫のこと何か残ってないかお伺いしたが、意外であるが、一番古い記録でも、天正の末期からしかなく、過去帳も、道三が斎藤ではなく、長井○(下の名忘れました)と出て来るのみとの御返事だった。
墓所に、楠木正虎と狩野永徳が眠っている隠れ信長関連寺院である。
津田三郎著
現代においても、例えば東京国博や京都国博で、大寺院の秘仏が何百年ぶりや、初公開等人目を惹く文字が躍るが、江戸時代大坂に於いて高台寺の寺宝が公開されたことがあり、その目録が上記本に掲載されている。その中に、
一、従信長公賜秀吉 御具足
北政所、つまりねねが、信長から秀吉が賜った具足を大坂城から持ち出したことが分かり興味深い。
それほど、思い出深いものであったに違いない。
しかしながら、御住職様にお伺い尋ねたところ、現在は見当たらないという。
現代においても、例えば東京国博や京都国博で、大寺院の秘仏が何百年ぶりや、初公開等人目を惹く文字が躍るが、江戸時代大坂に於いて高台寺の寺宝が公開されたことがあり、その目録が上記本に掲載されている。その中に、
一、従信長公賜秀吉 御具足
北政所、つまりねねが、信長から秀吉が賜った具足を大坂城から持ち出したことが分かり興味深い。
それほど、思い出深いものであったに違いない。
しかしながら、御住職様にお伺い尋ねたところ、現在は見当たらないという。
毎年の10月19日信長が上洛した日を記念して、京都市北区舟岡山に鎮座する建勲神社に於いて建勲大祭が行われます。
今年は残念ながら見に行けませんが、例年いつもは見られない寺宝が展示されますので、それだけでも見応えがあります。
本当の見所は、敦盛の舞が奉納されることである。
ドラマで見るのと、実際に目の前で舞われるのとは全然違いますので、一度、実見してみてはいかがでしょうか、平日ですが。
建勲神社へは、駐車場が北側に少しあるが、車では大変混雑すると思われるので、バスでの来場がベストでしょう。
建勲神社は、平日は人が少なく、私も初めて行った際は、物足りなさを感じたが、今はあの静けさが良くて、拝殿の三十六功臣を眺め、信長のこと考えながらの参拝をお薦めする。
今年は残念ながら見に行けませんが、例年いつもは見られない寺宝が展示されますので、それだけでも見応えがあります。
本当の見所は、敦盛の舞が奉納されることである。
ドラマで見るのと、実際に目の前で舞われるのとは全然違いますので、一度、実見してみてはいかがでしょうか、平日ですが。
建勲神社へは、駐車場が北側に少しあるが、車では大変混雑すると思われるので、バスでの来場がベストでしょう。
建勲神社は、平日は人が少なく、私も初めて行った際は、物足りなさを感じたが、今はあの静けさが良くて、拝殿の三十六功臣を眺め、信長のこと考えながらの参拝をお薦めする。



