祝 桐野様のブログ凍結解除。
また魅力ある記事を拝見できます。楽しみです。
さて、上記本、読み終えましたが、引用に藤本先生の名前がありません。
参考文献にも、藤本先生の著作が見れません。
これは、信長ファンの私が指摘するものではなく、ルール違反ではないでしょうか?
桶狭間の戦いでの、藤本説に倣いあらゆる桶狭間を扱った本等は、藤本先生の名をあげられてる。しかし、この著者は、研究者とひとくくりにされてるようだ。
それと、口語が多すぎるように思う。分かりやすく、したかったのかも知れないが、逆にこの本の価値を下げてしまったのではないでしょうか。
また魅力ある記事を拝見できます。楽しみです。
さて、上記本、読み終えましたが、引用に藤本先生の名前がありません。
参考文献にも、藤本先生の著作が見れません。
これは、信長ファンの私が指摘するものではなく、ルール違反ではないでしょうか?
桶狭間の戦いでの、藤本説に倣いあらゆる桶狭間を扱った本等は、藤本先生の名をあげられてる。しかし、この著者は、研究者とひとくくりにされてるようだ。
それと、口語が多すぎるように思う。分かりやすく、したかったのかも知れないが、逆にこの本の価値を下げてしまったのではないでしょうか。
初めて、マンガを取り上げたい。
主人公は、古田左介。そう、後の古田織部のことである。
この主人公というか、このマンガ自体面白いのだが、気になったセリフがあった。
それは、左介を安土城に招いた信長が語る
南蛮にこんな話がある、大国の王が力の誇示をせんが為、天まで届く塔を造らせたが、その行いが神の逆鱗に触れ、雷によって巨大な塔は、粉々に粉砕された。
「俺はまだ雷を受けておらん、まだまだ登るぞ」
この号が出たのは、一昨年で天主タヲレの記事より遥か前である。
これは、バベルの塔のことを指していると思われるが、フロイスからこのバベルの塔を知っていたのであろうか?
知っていたなら、信長の心境はどの様なものであったか興味深い。
まだ、1巻しか読んでないが、本能寺黒幕説みたいですね。
主人公は、古田左介。そう、後の古田織部のことである。
この主人公というか、このマンガ自体面白いのだが、気になったセリフがあった。
それは、左介を安土城に招いた信長が語る
南蛮にこんな話がある、大国の王が力の誇示をせんが為、天まで届く塔を造らせたが、その行いが神の逆鱗に触れ、雷によって巨大な塔は、粉々に粉砕された。
「俺はまだ雷を受けておらん、まだまだ登るぞ」
この号が出たのは、一昨年で天主タヲレの記事より遥か前である。
これは、バベルの塔のことを指していると思われるが、フロイスからこのバベルの塔を知っていたのであろうか?
知っていたなら、信長の心境はどの様なものであったか興味深い。
まだ、1巻しか読んでないが、本能寺黒幕説みたいですね。
小嶋殿から、宇治の話題がでましたので、室町時代の終焉地宇治を話題にして見たい。
元亀四年七月十六日二度目の挙兵に及んだ足利義昭は、宇治槇島城に篭もった。信長は、上記タイトル柳山に本陣を置いた。
信長公記に、五ヶ庄の上柳山とあるので、かみやなぎか、うえやなぎと読まれた方もあるかも知れないが、柳山が正しい。
何故、上という字を太田が入れたのかを考えると、山の上だから上と入れたのかと思っていたが、この柳山にあった許波多神社に本陣を置いたように思う。というのも、現在隠元橋付近に遷座する、この許波多神社を下、柳山を上の社としたのではと、考えたのであるがいかがでしょうか?
兼見でしたか、岡谷に陣したとあるのは、下の社ではなかったのではあるまいか。信長勢は、二手に分かれて分宿したのであろう。
さて、信長はどこに泊まったのであろうか?これにはヒントが、先に紹介した谷口研語著の流浪の戦国貴族 近衛前久にある。
つまり近衛の別邸は、ここ柳山にあったのである。
現在、萬福寺が鎮座するが、信長の時代は無いので、この別邸がどの様な規模か分からないが、境内に中和門院産湯の井戸伝説があるので、ここに間違いなさそうに思う。といっても、前子は二年後の誕生であるが。
さて、信長軍は二手に分かれて宇治川を渡るのであるが、現在と元亀の頃とでは様子が全く違うであろうが、隠元橋付近は、渡しという地名が残っているので、急な宇治川の中でも緩やかなほうではなかったと思う。また、川上に美濃勢が渡ると、流れも少しは緩やかになるであろう。
この時の信長軍団における美濃勢の役割が興味深い。
柳山は現在、神社はなく、体育館と病院と墓地になっていて、墓地からの眺望は素晴らしい。
槇島城跡との位置関係を見たい方は、近くの大型スーパー屋上からの見学を大きな声では言えないが、お薦めする。
元亀四年七月十六日二度目の挙兵に及んだ足利義昭は、宇治槇島城に篭もった。信長は、上記タイトル柳山に本陣を置いた。
信長公記に、五ヶ庄の上柳山とあるので、かみやなぎか、うえやなぎと読まれた方もあるかも知れないが、柳山が正しい。
何故、上という字を太田が入れたのかを考えると、山の上だから上と入れたのかと思っていたが、この柳山にあった許波多神社に本陣を置いたように思う。というのも、現在隠元橋付近に遷座する、この許波多神社を下、柳山を上の社としたのではと、考えたのであるがいかがでしょうか?
兼見でしたか、岡谷に陣したとあるのは、下の社ではなかったのではあるまいか。信長勢は、二手に分かれて分宿したのであろう。
さて、信長はどこに泊まったのであろうか?これにはヒントが、先に紹介した谷口研語著の流浪の戦国貴族 近衛前久にある。
つまり近衛の別邸は、ここ柳山にあったのである。
現在、萬福寺が鎮座するが、信長の時代は無いので、この別邸がどの様な規模か分からないが、境内に中和門院産湯の井戸伝説があるので、ここに間違いなさそうに思う。といっても、前子は二年後の誕生であるが。
さて、信長軍は二手に分かれて宇治川を渡るのであるが、現在と元亀の頃とでは様子が全く違うであろうが、隠元橋付近は、渡しという地名が残っているので、急な宇治川の中でも緩やかなほうではなかったと思う。また、川上に美濃勢が渡ると、流れも少しは緩やかになるであろう。
この時の信長軍団における美濃勢の役割が興味深い。
柳山は現在、神社はなく、体育館と病院と墓地になっていて、墓地からの眺望は素晴らしい。
槇島城跡との位置関係を見たい方は、近くの大型スーパー屋上からの見学を大きな声では言えないが、お薦めする。
歴史読本において、桐野様から情報を頂きました。
今号からの連載が始まりました、上記タイトル。
そういえば、昔岡田正人氏が天下布武への道というタイトルで、歴読誌で連載をされてましたが、いつの間にか終わってましたが、、、、
分かりやすく、また詳細に論考されている。
冒頭、お狂に関して、論考されてるが、昔からこのお狂いとはどんなものか?と思っていた。子供の頃遊んだ、はないちもんめみたいなものかと思っていたが(笑)、それとは違うようである(笑
次号も大変楽しみである。
この桐野様の論考は、納得いくものであったが、今読み進めている
桶狭間の真実 太田満明著 kkベストセラーズは、反対に、信長を否定している論考である。まだ、読み終えてないが、冒頭から、私信長ファンから見ると交戦的で、反論したいものである。
帯びには赤字で、信長は小心者だった
そうである。
今号からの連載が始まりました、上記タイトル。
そういえば、昔岡田正人氏が天下布武への道というタイトルで、歴読誌で連載をされてましたが、いつの間にか終わってましたが、、、、
分かりやすく、また詳細に論考されている。
冒頭、お狂に関して、論考されてるが、昔からこのお狂いとはどんなものか?と思っていた。子供の頃遊んだ、はないちもんめみたいなものかと思っていたが(笑)、それとは違うようである(笑
次号も大変楽しみである。
この桐野様の論考は、納得いくものであったが、今読み進めている
桶狭間の真実 太田満明著 kkベストセラーズは、反対に、信長を否定している論考である。まだ、読み終えてないが、冒頭から、私信長ファンから見ると交戦的で、反論したいものである。
帯びには赤字で、信長は小心者だった
そうである。
リンクさせて頂いてる桐野様のブログが、未だ原因不明の凍結状態が続いてます。表示されてる迷惑云々は、考えられませんので、誤解なきようお願いいたします。一日も早い復旧による、魅力的な記事を拝見したいものです。
道三ゆかりの武将俳諧師 於岐阜市歴史博物館
記事が長くなったので、こちらは別で。
続いて、隣の徳元の展覧会へ。私は、この様なマイナ−な人物が好みである。1559年生まれで、信忠の二歳下であるが、幼少時信忠と接点はなかったのであろうか?と思いつつ会場へ。
比べるのも悪いが永徳展では、展示物が見れないほど盛況だったので、少し寂しい展覧会だった。
が、ゆっくり見れたのだが、俳句自体分からないので、解説者がいると思いつつ、回ると年表有り。すると、1625年高野山へ、秀信の墓へ詣でると有り、質問させて頂いた。
というのも、秀信の墓は、高野山光台院と、橋本向副と二説有り、下山して嫁までもらい、子を儲けて子孫までいらっしゃるので、これは確認、確認と思い親切にお答え頂いた。
斎藤徳元集 笹野隆編 古今書院 S11年
によると、高野の山よじのぼりとあるので、山上をさすと思われる。
つまり、光台院かは、分からないが、高野山に墓があったと思われる。
ここでも句を読んでるのだが、かつての主君秀信の墓参りをするのに、涙が止まらない云々の句を読んでいる。
この記述だけでも、こみ上げてくるものがある。(秀信の墓も、また記事にしてみたい)
徳元は、義龍の妹の子、つまり系図上濃姫の妹の子である正印の子ということであるが、本能寺の変後、近江大溝に蟄居したとあるのが、興味深かった。墓所は、丹後の宮津智恩寺だそうで、機会があれば訪れてみたい。
記事が長くなったので、こちらは別で。
続いて、隣の徳元の展覧会へ。私は、この様なマイナ−な人物が好みである。1559年生まれで、信忠の二歳下であるが、幼少時信忠と接点はなかったのであろうか?と思いつつ会場へ。
比べるのも悪いが永徳展では、展示物が見れないほど盛況だったので、少し寂しい展覧会だった。
が、ゆっくり見れたのだが、俳句自体分からないので、解説者がいると思いつつ、回ると年表有り。すると、1625年高野山へ、秀信の墓へ詣でると有り、質問させて頂いた。
というのも、秀信の墓は、高野山光台院と、橋本向副と二説有り、下山して嫁までもらい、子を儲けて子孫までいらっしゃるので、これは確認、確認と思い親切にお答え頂いた。
斎藤徳元集 笹野隆編 古今書院 S11年
によると、高野の山よじのぼりとあるので、山上をさすと思われる。
つまり、光台院かは、分からないが、高野山に墓があったと思われる。
ここでも句を読んでるのだが、かつての主君秀信の墓参りをするのに、涙が止まらない云々の句を読んでいる。
この記述だけでも、こみ上げてくるものがある。(秀信の墓も、また記事にしてみたい)
徳元は、義龍の妹の子、つまり系図上濃姫の妹の子である正印の子ということであるが、本能寺の変後、近江大溝に蟄居したとあるのが、興味深かった。墓所は、丹後の宮津智恩寺だそうで、機会があれば訪れてみたい。
2007年11月23日 (金、祝)
信長時代の庭園跡の、現説があるということで、行って参りました。
庭園跡もさることながら、一度確認したかったことがあったからもあり、岐阜へ行くことにしました。
それは、去年刊行された「信長とは何か」小嶋道裕著において、千畳敷の信長居館は、四階建てではなく、温泉旅館の増築を重ねたような構造ではなかったか?を、実際見てみたかったのです。
岐阜城へは、何回も行ってますが、来る度に景観が変わって行ってますね、良いのか、悪いのか分かりませんが。発掘調査跡は、ロープウェイ乗り場の一段上でして、はずかしながら、初めて行きました。いつも何でこんな所に三重の塔が、、、と思っていた、下側で有り、川原石が見つかったことは、知ってましたが、実際見て、現在の岐阜公園内の池と比較し、往時の情景を思いながら、説明を聞く。庭園があるという事は、その向こうには、借景があったのでは?との説明に、なるほど、その奥石壁?(表現が難しい)に水が流れ落ちる、瀧の跡の様な感じがする。後で質問させて頂いたが、その下に水を受ける跡の様なものが見つかれば、瀧の跡と分かるのですがと、おっしゃられてました。
そして、その温泉旅館の増築の構造ですが、それは、説明者の方も、一番上に茶室云々とおっしゃられてましたので、やはりって思った。
フロイスの記述と、現場を重ねて見ると、なるほどと思うこともあり、また、建物がないので、色々考えながら見てまわった。
3区と呼ばれる、茶室があったと思われる場所は、山の中で、フロイスの記述と一致するし、ハレとケで言うと、ケではないでしょうか。
来年に、その茶室があるのでは?と思われる所を調査されるとのこと、非常に楽しみである。で、どうしても触れておきたいのは、二階の婦人部屋と呼ばれる所である。
現明治天皇像があるところなのだが、ここが濃姫の部屋ではなかったかと言う事である。過去記事でも触れてますが、この時点では、存命してると思ってるので、この場所こそ濃姫の部屋と批定してもおかしくないのでは?濃姫ファンには喜ばしいことではないでしょうか。
今まで、四階建てと私も思っていたので、茶室の発見の記事を待ち、裏付けを取って頂きたい。
最後に、フロイスの記述にある1パルモという用語は、手を広げたときの親指の先から小指の先までの長さで、約20cmだそうです。
信長時代の庭園跡の、現説があるということで、行って参りました。
庭園跡もさることながら、一度確認したかったことがあったからもあり、岐阜へ行くことにしました。
それは、去年刊行された「信長とは何か」小嶋道裕著において、千畳敷の信長居館は、四階建てではなく、温泉旅館の増築を重ねたような構造ではなかったか?を、実際見てみたかったのです。
岐阜城へは、何回も行ってますが、来る度に景観が変わって行ってますね、良いのか、悪いのか分かりませんが。発掘調査跡は、ロープウェイ乗り場の一段上でして、はずかしながら、初めて行きました。いつも何でこんな所に三重の塔が、、、と思っていた、下側で有り、川原石が見つかったことは、知ってましたが、実際見て、現在の岐阜公園内の池と比較し、往時の情景を思いながら、説明を聞く。庭園があるという事は、その向こうには、借景があったのでは?との説明に、なるほど、その奥石壁?(表現が難しい)に水が流れ落ちる、瀧の跡の様な感じがする。後で質問させて頂いたが、その下に水を受ける跡の様なものが見つかれば、瀧の跡と分かるのですがと、おっしゃられてました。
そして、その温泉旅館の増築の構造ですが、それは、説明者の方も、一番上に茶室云々とおっしゃられてましたので、やはりって思った。
フロイスの記述と、現場を重ねて見ると、なるほどと思うこともあり、また、建物がないので、色々考えながら見てまわった。
3区と呼ばれる、茶室があったと思われる場所は、山の中で、フロイスの記述と一致するし、ハレとケで言うと、ケではないでしょうか。
来年に、その茶室があるのでは?と思われる所を調査されるとのこと、非常に楽しみである。で、どうしても触れておきたいのは、二階の婦人部屋と呼ばれる所である。
現明治天皇像があるところなのだが、ここが濃姫の部屋ではなかったかと言う事である。過去記事でも触れてますが、この時点では、存命してると思ってるので、この場所こそ濃姫の部屋と批定してもおかしくないのでは?濃姫ファンには喜ばしいことではないでしょうか。
今まで、四階建てと私も思っていたので、茶室の発見の記事を待ち、裏付けを取って頂きたい。
最後に、フロイスの記述にある1パルモという用語は、手を広げたときの親指の先から小指の先までの長さで、約20cmだそうです。
リンクさせて頂いてる、桐野様のブログが、現在原因不明の凍結状態にあります。内容は、明かに不当なもので桐野様の記事にそのような迷惑をかけるものはなく、逆にためになるものばかりです。
これを見て頂いた方は、コメント覧の桐野様のコメントも重ねてごらんください。
これを見て頂いた方は、コメント覧の桐野様のコメントも重ねてごらんください。
某家系図に、忠盛に、妾に一女有、十五才ニテ信長ノ妾トなり、天正二年に信親を生んだという。
また、信忠に仕え妙覚寺ニ館ス。という?
で、本能寺の変時、その場を逃れ、天正十一年正月に土佐に行ったという。
数え年八歳で出陣し、妙覚寺にいたのも変な話だし、何故土佐へ?という疑問もある。現代に通じる系図であるが、信長の妾が載る系図は珍しく、貴重なものだが、何ともいえない系図である。この系図が正しいなら、天正二年生まれなので、九男信貞と同年になるので、十男?ということになる。
信忠
信雄
信孝
秀勝
信房
信秀
信高
信吉
信貞
信親
信好
長次
となる。
また、信忠に仕え妙覚寺ニ館ス。という?
で、本能寺の変時、その場を逃れ、天正十一年正月に土佐に行ったという。
数え年八歳で出陣し、妙覚寺にいたのも変な話だし、何故土佐へ?という疑問もある。現代に通じる系図であるが、信長の妾が載る系図は珍しく、貴重なものだが、何ともいえない系図である。この系図が正しいなら、天正二年生まれなので、九男信貞と同年になるので、十男?ということになる。
信忠
信雄
信孝
秀勝
信房
信秀
信高
信吉
信貞
信親
信好
長次
となる。
秋です、観光客が大挙京都にやってくる秋です。
週末早くも京都市内は、渋滞、渋滞。紅葉の季節が少しずれ込んでるようだが、隠れた信長史跡が上記寺院です。
南禅寺塔頭である上記寺院は、信長がしばし、滞在したことがあるようである。
雍州府志 巻八
聴松院
前略
信長公、しばらくこの院に寓せらる。蒲生氏郷、藤堂高虎等も、また、寓居す。高虎設くるところの書院、今に到りて存す。
信長が滞在したのは、いつであったのだろうか?
信長公記 巻十二 天正七年
廿一日、東山御鷹つかはされ、廿八日、又東山御鷹野。
この一週間、聴松院に滞在したのではないであろうか。
現在聴松院は、湯豆腐を庭を見ながら食べられるところであるが、信長も食べたのでしょうか?隣の順正ほど混んでないので、信長ファンで湯豆腐を希望される方は、こちらにどうぞ。
週末早くも京都市内は、渋滞、渋滞。紅葉の季節が少しずれ込んでるようだが、隠れた信長史跡が上記寺院です。
南禅寺塔頭である上記寺院は、信長がしばし、滞在したことがあるようである。
雍州府志 巻八
聴松院
前略
信長公、しばらくこの院に寓せらる。蒲生氏郷、藤堂高虎等も、また、寓居す。高虎設くるところの書院、今に到りて存す。
信長が滞在したのは、いつであったのだろうか?
信長公記 巻十二 天正七年
廿一日、東山御鷹つかはされ、廿八日、又東山御鷹野。
この一週間、聴松院に滞在したのではないであろうか。
現在聴松院は、湯豆腐を庭を見ながら食べられるところであるが、信長も食べたのでしょうか?隣の順正ほど混んでないので、信長ファンで湯豆腐を希望される方は、こちらにどうぞ。
この前頂いた資料によると、高桐院様から頂いた資料、織田八ヶ所から寄付があったとあったが、一つ謎が解けた。
この織田家からの寄付は、養華院つまり信長寵妾の為にしたのではなく、その時の住持との関係からの寄付だったことが解った。
養華院、未だに良く解らない人物である。
ちなみに、その織田家では養華院の呼び名は御台になっている。
養華院という寮舎は、小寺という表現になっている。総見院内にあったと思われるが、現織田家墓所の西側に多分あったと思われる。
総見院の現状は、創建時から残っているのは表門他、数点しか残されておらず、本堂は元々は僧堂であったものを改築したものであるので、信長の菩提寺としては少し寂しい。しかし、あの残ってなさも、想像が膨らんで良いと思っている。
現住が、昭和の半ばに入寺するまでは、現織田家墓所へ行く道は、松林であったようで、今の墓地が並んでいる雰囲気とは激変している。
私が二回目に総見院を訪れた際(この頃は一般公開していなかった)お願いして、信長木像を拝見させて頂いた感動は、何十年経ったいまでも忘れられない思い出です。
その時頂いた、非買品の「信長公と総見院」は、私の秘蔵品の一つである。
この織田家からの寄付は、養華院つまり信長寵妾の為にしたのではなく、その時の住持との関係からの寄付だったことが解った。
養華院、未だに良く解らない人物である。
ちなみに、その織田家では養華院の呼び名は御台になっている。
養華院という寮舎は、小寺という表現になっている。総見院内にあったと思われるが、現織田家墓所の西側に多分あったと思われる。
総見院の現状は、創建時から残っているのは表門他、数点しか残されておらず、本堂は元々は僧堂であったものを改築したものであるので、信長の菩提寺としては少し寂しい。しかし、あの残ってなさも、想像が膨らんで良いと思っている。
現住が、昭和の半ばに入寺するまでは、現織田家墓所へ行く道は、松林であったようで、今の墓地が並んでいる雰囲気とは激変している。
私が二回目に総見院を訪れた際(この頃は一般公開していなかった)お願いして、信長木像を拝見させて頂いた感動は、何十年経ったいまでも忘れられない思い出です。
その時頂いた、非買品の「信長公と総見院」は、私の秘蔵品の一つである。
谷口研語著 中公新書
本能寺の変の黒幕と何かと話題にのぼる、近衛前久であるが、その説を取り上げる方に是非お読み頂きたいのが上記書です。
有名な、武田攻めの際、信長が前久に対し木曾から帰れと言ったと甲陽軍艦にあるそうだが、この書によれば、東海道を同行していることが確認出来る。
その時、三河国満性寺が宿舎に当てられたようで、その折同寺にある鎌倉時代の木造聖徳太子像や平安時代の伝太子筆阿弥陀経などがあり、それを知った前久は、それを信長に話て聞かせ、そのうち内々に二人でそれを聴聞する機会をもつことにしていたというエピソードを載せている。
また、京都を出奔した龍山こと、近衛前久は家康を頼り、遠江に下向。
天正十一年六月二日浜松の龍禅寺において、信長の追善供養を行い、南無阿弥陀仏の六字名号を句の頭に置いた追善和歌六首を詠んでいる。
その六字和歌は現在
1、織田信長画像 報恩寺本 画像賛
2、大雲院蔵 掛け軸
3、総見寺蔵 掛け軸
として残されており、もう少し多く流布していたものであろうか。
もうひとつエピソードを紹介したいのは、信長から前久に与えた「長船吉光」の刀を秀吉が見たがっている、つまり欲しがっているとの知らせを受けた龍山は、始は断ったが、泣く泣く差し出したようである。
その他、上杉、嶋津等との関わりも興味深く、お薦め本の一つ。
本能寺の変の黒幕と何かと話題にのぼる、近衛前久であるが、その説を取り上げる方に是非お読み頂きたいのが上記書です。
有名な、武田攻めの際、信長が前久に対し木曾から帰れと言ったと甲陽軍艦にあるそうだが、この書によれば、東海道を同行していることが確認出来る。
その時、三河国満性寺が宿舎に当てられたようで、その折同寺にある鎌倉時代の木造聖徳太子像や平安時代の伝太子筆阿弥陀経などがあり、それを知った前久は、それを信長に話て聞かせ、そのうち内々に二人でそれを聴聞する機会をもつことにしていたというエピソードを載せている。
また、京都を出奔した龍山こと、近衛前久は家康を頼り、遠江に下向。
天正十一年六月二日浜松の龍禅寺において、信長の追善供養を行い、南無阿弥陀仏の六字名号を句の頭に置いた追善和歌六首を詠んでいる。
その六字和歌は現在
1、織田信長画像 報恩寺本 画像賛
2、大雲院蔵 掛け軸
3、総見寺蔵 掛け軸
として残されており、もう少し多く流布していたものであろうか。
もうひとつエピソードを紹介したいのは、信長から前久に与えた「長船吉光」の刀を秀吉が見たがっている、つまり欲しがっているとの知らせを受けた龍山は、始は断ったが、泣く泣く差し出したようである。
その他、上杉、嶋津等との関わりも興味深く、お薦め本の一つ。
この号に、信長が塙直政に与えた甲冑か
と題されてる、記事が載っている。中村甲刀修史館、現井伊美術館の調査で判明し、京都新聞にも、二度掲載され話題を集めた。
直政の子孫、宗悦が蔵してたことが箱書きから解る。
この話がこの間、話題にのぼり、読みかえしてみると一面は桐野さんの現在記事にされている、司馬遼太郎 21世紀に贈る言葉であった。
この雑誌のインタ−ネットでの人気作品ベスト10は
1、竜馬がゆく
2、坂の上の雲
3、燃えよ剣
4、峠
5、国盗り物語
6、項羽と劉邦
7、新史 太閤記
8、梟の城
9、最後の将軍
10、菜の花の沖
国盗り物語の後編信長のところだけ昔買って、本棚に残ってる。
と題されてる、記事が載っている。中村甲刀修史館、現井伊美術館の調査で判明し、京都新聞にも、二度掲載され話題を集めた。
直政の子孫、宗悦が蔵してたことが箱書きから解る。
この話がこの間、話題にのぼり、読みかえしてみると一面は桐野さんの現在記事にされている、司馬遼太郎 21世紀に贈る言葉であった。
この雑誌のインタ−ネットでの人気作品ベスト10は
1、竜馬がゆく
2、坂の上の雲
3、燃えよ剣
4、峠
5、国盗り物語
6、項羽と劉邦
7、新史 太閤記
8、梟の城
9、最後の将軍
10、菜の花の沖
国盗り物語の後編信長のところだけ昔買って、本棚に残ってる。
小椋一葉著 1994年
先日の安土でも話題になった、秀次の三好家への養子に入った時期をめぐって、桐野さんの本能寺の変後と藤田達生氏と時期が違うのであるが、そのことについて、上記著作を思いだしたので読みかえして見る。
信長の侍女とか、信長夫人の侍女とか云われるお通であるが、前夫塩川志摩は、三好康長の家臣だったらしく池田城を秀次が賜った際付き従ったようで、その為摂津周辺にお通伝承が多いという。
その年次不明?の書状に出てくる塩儀は、この塩川志摩であろうか。
お通の夫である、塩川志摩は三好の家臣であるのに秀吉が天正七年の段階で、信長の頭越に、三好家臣に指示するであろうか?
もう少し資料を捜してみたいのですが、この辺りで限界です。
桐野さんの指摘通り、私は変後に養子入りが妥当ではないかと。
あの書状も、あの辺り一体を支配した秀次の、摂津での初見文書ではないでしょうか。お通は、その後塩川志摩と離縁し、渡瀬羽林に再嫁した。
先日の安土でも話題になった、秀次の三好家への養子に入った時期をめぐって、桐野さんの本能寺の変後と藤田達生氏と時期が違うのであるが、そのことについて、上記著作を思いだしたので読みかえして見る。
信長の侍女とか、信長夫人の侍女とか云われるお通であるが、前夫塩川志摩は、三好康長の家臣だったらしく池田城を秀次が賜った際付き従ったようで、その為摂津周辺にお通伝承が多いという。
その年次不明?の書状に出てくる塩儀は、この塩川志摩であろうか。
お通の夫である、塩川志摩は三好の家臣であるのに秀吉が天正七年の段階で、信長の頭越に、三好家臣に指示するであろうか?
もう少し資料を捜してみたいのですが、この辺りで限界です。
桐野さんの指摘通り、私は変後に養子入りが妥当ではないかと。
あの書状も、あの辺り一体を支配した秀次の、摂津での初見文書ではないでしょうか。お通は、その後塩川志摩と離縁し、渡瀬羽林に再嫁した。
今日の大河、龍華様の記事どおりシルエットだけの信長でしたが、思ったより勘介は、暗躍しませんでしたね。
来週で、狩野永徳展も終わり。最終日、もう一度訪れる予定。
織田創様の記事で思いだしました、岐阜歴史博物館での斎藤正印軒の息子の展覧会をしている模様。23日現説に絡めて久しぶりに岐阜へ行こうか思案中。
来月鳶ヶ巣山砦への散策会へ参加予定。今から楽しみでもあり、体力を温存しておかなければ。
信長の腰かけ石の情報を得ました。機会を見付けて訪れてみたい。
勿論、座ってみたい。
映画、茶々の前売りが好調だとのこと。あれから一度もライトアップなしだが、もう夜の撮影はしてないのだろうか?
過去記事にも、拍手して頂いてる方が、いらっしゃるようで、感謝。
よかったら、ひとことでもコメント頂ければうれしいです。
来週で、狩野永徳展も終わり。最終日、もう一度訪れる予定。
織田創様の記事で思いだしました、岐阜歴史博物館での斎藤正印軒の息子の展覧会をしている模様。23日現説に絡めて久しぶりに岐阜へ行こうか思案中。
来月鳶ヶ巣山砦への散策会へ参加予定。今から楽しみでもあり、体力を温存しておかなければ。
信長の腰かけ石の情報を得ました。機会を見付けて訪れてみたい。
勿論、座ってみたい。
映画、茶々の前売りが好調だとのこと。あれから一度もライトアップなしだが、もう夜の撮影はしてないのだろうか?
過去記事にも、拍手して頂いてる方が、いらっしゃるようで、感謝。
よかったら、ひとことでもコメント頂ければうれしいです。
滋賀県安土城考古博物館開館15周年記念講演会
脇田修氏の講演を拝聴しに参りました。
少し眠気にも襲われながらも?しっかり聞き入ってまいりました。
レジメで、気になっていた
老後の楽しみがない(蜂屋頼隆)
出典がなかったのですが、武士は若い頃は働くが老後はゆっくり余生を楽しむという現代にも通じることを、蜂屋は言っていたのかと思うと面白く思うが、本人は老後と言えるまで生きていませんね、、、
あと、堺の御台御料所で、脇田先生は、御台=濃姫の名義にしているとの説を採られてるのは、先の記事堀先生の論文から知っていましたが、今でもそのようですね。
講演終了後、横で聞いていただけでしたが、大変勉強になる話も伺えましたし、有意義な一日なりました、お疲れ様でした。
脇田修氏の講演を拝聴しに参りました。
少し眠気にも襲われながらも?しっかり聞き入ってまいりました。
レジメで、気になっていた
老後の楽しみがない(蜂屋頼隆)
出典がなかったのですが、武士は若い頃は働くが老後はゆっくり余生を楽しむという現代にも通じることを、蜂屋は言っていたのかと思うと面白く思うが、本人は老後と言えるまで生きていませんね、、、
あと、堺の御台御料所で、脇田先生は、御台=濃姫の名義にしているとの説を採られてるのは、先の記事堀先生の論文から知っていましたが、今でもそのようですね。
講演終了後、横で聞いていただけでしたが、大変勉強になる話も伺えましたし、有意義な一日なりました、お疲れ様でした。
江後迪子著 吉川弘文館
上記本を題名に惹かれ購入。題とは違い、全文信長という訳ではなかった。
天正十年徳川家康の接待の品について、詳しく論考されている。
おやっと思ったのが、その一年前に同じく家康を安土で接待した?史料があると紹介されてる。
慶応義塾大学魚菜文庫(旧石泰文庫)にある「御献立集」にあるという。
それ以外では、中世の生まれた日本料理の基礎を出典明示で紹介されている。誤字であろうか、妙覚寺を妙光寺となっているのは残念であった。
武功夜話一 前野家文書 吉田蒼生雄全訳
偽書と言われ出して久しいが、今まで読んだことがなかったが、古本屋で安く手に入ることができ、また、書評手紙としおりがそのまま入っていたので、前の持ち主は買って本棚の肥やしになっていたみたいですね。
武功夜話の興味あるところは、生駒家宗の娘、吉乃の個所だけなのだが、また記事にしてみたい。
上記本を題名に惹かれ購入。題とは違い、全文信長という訳ではなかった。
天正十年徳川家康の接待の品について、詳しく論考されている。
おやっと思ったのが、その一年前に同じく家康を安土で接待した?史料があると紹介されてる。
慶応義塾大学魚菜文庫(旧石泰文庫)にある「御献立集」にあるという。
それ以外では、中世の生まれた日本料理の基礎を出典明示で紹介されている。誤字であろうか、妙覚寺を妙光寺となっているのは残念であった。
武功夜話一 前野家文書 吉田蒼生雄全訳
偽書と言われ出して久しいが、今まで読んだことがなかったが、古本屋で安く手に入ることができ、また、書評手紙としおりがそのまま入っていたので、前の持ち主は買って本棚の肥やしになっていたみたいですね。
武功夜話の興味あるところは、生駒家宗の娘、吉乃の個所だけなのだが、また記事にしてみたい。
近江地方史研究 小島道裕著
天主タヲレで被災した人物はいないかと考えていた時上記論文に、その様な人物がいたのではと思いだした。
安土浄巖院過去帳に、天正10年(1582)の項に
「在西童子 五月一一日 木村源吾殿子」
惜しい(笑)、日付けは近いが、年代が合わない(泣)
木村次郎左衛門は、安土城の普請奉行に任じられている他、勢多橋の普請にも派遣されてもいる。 信長から近江の諸職人を統轄する権限を信長から与えられていたようだ。
木村の唯一の文書が紹介されているが(野洲共有文書)野洲市場に対し、橋懸けと出水時の川渡しに対する代償として、国役・郡役の免除を安堵した内容の折紙であるが、九月廿六日に出されているのだが、年代は未詳だが、天正六年に批定できないであろうか。
木村次郎左衛門とは、何者なのかとの指摘に信長が諸大名らに上洛を命じた中に、木村の名が見えることから、国を代表すべき人物と見なされていたことが分かる。
そして本能寺の変時、安土二の丸留守衆であったが、蒲生賢秀が上臈衆を日野城に避難したことは有名だが、木村に関しては公記は何も語ってないが、家譜には百々橋於いて討ち死にとある。
負けることを分かっていたので、蒲生賢秀が語ったように焼くに忍びなかった城には籠もらなかったのが真相のようだ。
また、木村氏自体ここ安土の常楽寺が本拠地であったので、逃げる場所もなく安土に殉じることは必然だったと上記論文は締め括られてる。
天主タヲレで被災した人物はいないかと考えていた時上記論文に、その様な人物がいたのではと思いだした。
安土浄巖院過去帳に、天正10年(1582)の項に
「在西童子 五月一一日 木村源吾殿子」
惜しい(笑)、日付けは近いが、年代が合わない(泣)
木村次郎左衛門は、安土城の普請奉行に任じられている他、勢多橋の普請にも派遣されてもいる。 信長から近江の諸職人を統轄する権限を信長から与えられていたようだ。
木村の唯一の文書が紹介されているが(野洲共有文書)野洲市場に対し、橋懸けと出水時の川渡しに対する代償として、国役・郡役の免除を安堵した内容の折紙であるが、九月廿六日に出されているのだが、年代は未詳だが、天正六年に批定できないであろうか。
木村次郎左衛門とは、何者なのかとの指摘に信長が諸大名らに上洛を命じた中に、木村の名が見えることから、国を代表すべき人物と見なされていたことが分かる。
そして本能寺の変時、安土二の丸留守衆であったが、蒲生賢秀が上臈衆を日野城に避難したことは有名だが、木村に関しては公記は何も語ってないが、家譜には百々橋於いて討ち死にとある。
負けることを分かっていたので、蒲生賢秀が語ったように焼くに忍びなかった城には籠もらなかったのが真相のようだ。
また、木村氏自体ここ安土の常楽寺が本拠地であったので、逃げる場所もなく安土に殉じることは必然だったと上記論文は締め括られてる。




