泰巖宗安記
織田信長に魅せられた管理人が、信長に関するあらゆるものを(女性史を中心に)紹介して行きます。
続 安土城内にて
晴豊公記より
天正十年五月四日条
前略
上ろう・大御ちの人御出の人のよし候て、若君御座候、成水申、信長まかない候、
物所へ御出候、余友感所へ参也、

この若君を、橋本氏は三法師と論考されてるが、信忠の子が、安土にいることは不自然で、
信長の子の誰かというほうが自然ではないでしょうか。
そうすれば、その子は誰かと推定したくなるのが私なのだが(笑
ずばり、お鍋の子信吉(酌丸)と見ている。

そのヒントは、成水つまり鳴海助右衛門にある。
谷口先生の辞典でも、数行しかとどめないマイナーな家臣であるが、八風街道の歴史 深谷弘典著に永源寺の郷士小辰家文書に、その名が出てくる。
柴田勝定と連名で、鳴海助右衛門尉 長士 とある。
何と読むのだろうか?(笑)ながもとか?
鳴海は、母お鍋の生誕地?に通じていた人物と推定でき、その子酌丸の守役であったかも知れない。

追記
竹本千鶴女史の松井友感論に、晴豊公記の読み下しがあるが、ところどころ微妙
に違うようである。

今日はここまでで。

安土城内の女性達
武藤様のブログで、安土城伝二ノ丸が話題になってるが、
木戸氏は、ここをハレとケでいうと、ケ。
つまり、信長のプライベートな空間ではなかったかと論考されてる。

では、城内で起居したであろう信長の上臈衆(側室?)の実態はと言うと、
よく分からない。ただ一つ示唆を与えてくれるのは、晴豊公記(天正十年夏記)である。

四月廿三日に勧修寺晴豊が安土へ下った際、信長との橋渡しをしたであろう、
おくと、うちの若上ろう
という者が登場する。
このおくは、立花京子説。
これをおかかと読み下したのが、橋本説。
友人は、おぐら。つまりお鍋ではないかと述べられていた。

何れにしても、私は読み下せないので(笑)判断はつきかねるが、意外にも女性が活躍しているのが分かる。その後、宿へ帰った晴豊に「おく」よりたる有候、わか上ろう来たりおおさけ也。
とあり、何とも不思議であるが、城から出たわか上ろうは、晴豊たちと酒盛りをしたそうである。

続きはまたの日に。

豪姫 他
古田織部が出て来る、ドラマ、映画はと思った時、宮沢りえ主演映画を思い出し、
見なおしてみた。
その当時も、よく分からなかったが、やはり分からなかった(笑)
この映画、当時人気絶頂?であった宮沢りえ主演で、豪姫がタイトルになってるが、
最後のタイトルロールで、一番初めは、
古田織部 仲代達矢
であったので、本当は宮沢りえを借りた織部映画だったんだなと、今気付いた。
映像の華やかさは、すばらしいが、余計な描写(私から見て)が多く、物足りなさを感じた。

へうげもので、道端に咲くタンポポに、下馬してそれを見る織部が愛らしいが、
この映画でも、タンポポが出てくるのは、著者山田氏も、影響されているのだろうか。


現在放送されてる大河ドラマ篤姫と、見比べようと、翔ぶが如くを見なおす。
翔ぶが如くは、熱いですね(笑)男臭いですよね。
一番の名シーンだと私が思ってるのは、寺田屋で蟹江敬三が、上半身裸で薩摩藩士を命がけで説得するところなのだが、総集編でも採録されていて見れた。
それと見比べて、篤姫は女性主役と言うのもあって、アットホームなもので、これも時代が反映してるものなのでしょうか。利家とまつ以来、ホームドラマ化になってますね。
主役を食うぐらいの、登場を期待して、、、
粟田口 2
フロイス日本史より

前略
信長の名誉のため、明智の身体と首を彼が信長を殺し、他の首が置かれている場所に運んだ。(中略)彼はこのようにして実に惨めな最期を遂げた。しかも、かかる際、彼は異教徒の身分ある者が名誉のために行う切腹をするための時間すらも持ち得ず、貧しく賤しい百姓の手にかかり、不名誉きわまる死に方をしたのである。

それのみか、三七殿は、身体に首を合わせた後、裸にして、万人に見せるため、街はずれの往来が激しい一街道で十字架に懸けるように命じた。

光秀の遺体は、本能寺で晒された後、信孝によって晒されたらしい。
このフロイスの記述が、粟田口を指すことは間違いなさそうだ。
光秀も、2日兼見と会談したこの場所で、10数日後この様な姿になろうとは、思わなかったでしょう。

現在、粟田口は、インクライン(琵琶湖疎水)と、蹴上浄水場に挟まれた三条通りは、面影は皆無と言って良いほど消し去っている。
京への出入り口、粟田口もう少し拘って、書いてみたい。
粟田口
へうげもので知った、ノ貫が気になり少し調べた。
古田左介が、落とし穴に落ちるのが、おかしくて頭から離れない(笑

これは、利休が実際に落ちた逸話を採用したようだ。
で、善輔の出典は「近世畸人伝」というのは分かった。
同一人物かどうかは?であるが。
ノ貫(へちかん)が山科に住んでいたその場所だが、この粟田口を境に、宇治郡山科になるところから、現在の山科区とは考えなくて良い様に思った。
そうすれば、同一人物かも知れない。
ところで、これを調べてると現在白川沿いにある、明智光秀首塚は、もっと東の東・西小物座町にあったとあり(京町艦)、光秀が磔にされたのは、もっと東だったのかと理解した。

戦乱の日本史他
先に紹介した、天下布武万年筆が貰えるというのは、全巻予約でした、、、
190円の効果か、その本屋の残りは少なかった。
ぱらっと、立ち読み。
写真に写ってた、青山歴史文学館前織田信長銅像だけ目を惹いた。
信長と塩川と森乱丸の三人の銅像があるそうです。

これは、信長公記 巻十二 四月十八日
塩川伯嗜守へ銀子百枚遣わされ候。
御使森乱、中西権兵衛相副へ下さる。

からの人選だろう。何故中西権兵衛を銅像にいれないのか?
桐野さんブログでの、薩摩留学生の件ではないが、青山短期大学塩川学長に要望してみようか(笑) 何故中西権兵衛をいれないのかと(笑)

冗談はさておき、この中西権兵衛。
お次秀勝の菩提寺瑞林院過去帳にその名があり

一入浄心居士 慶長十七年十月廿六日 中西権兵衛尉

とある。谷口先生の辞典で生没年不詳だが、同姓別人は、この時に考えられないでしょうから、この年に亡くなり、知恩寺に葬られたのでしょう。
安土 総見寺 再建案に学生の知恵を
信長建立 焼失の本堂 今秋にコンペ開催 2008年1月18日 京都新聞

織田信長が安土城内に建立し、廃城後も残っていたが、1854年に火災で焼失し、現在は礎石だけが残っている。同寺の住職が滋賀県立大学の布野修司教授に依頼し、本堂再建に向けてコンペを行うことにした。
布野教授によると、参加できるのは建築を学ぶ学生を主体とするチームで、大学教員や建築家、大工棟梁など専門家の指導を受けることが条件となる。などなど。

三月には現地で説明会を開き、十一月二十ニ日に同町内で、住職はじめ城郭調査研究所の近藤滋所長や建築学の専門家ら七人でつくる委員で審査する。最優秀賞には賞金八十万円を贈る予定。だそうです。

総見寺は現在臨済宗妙心寺派だが、当時は真言宗だったようです。
三重塔は、石部の真言宗長寿寺からの移築らしいのだが、その本堂と総見寺跡に残る礎石と合うらしい。概ねその本堂にどう、二階部分を(盆山があった場所?)描くかですね。
今年の岐阜発掘と共に、要注目です。
正親町天皇の譲位に関する一史料
日本歴史 2006年2月号 堀新著

晴豊公記(天正十年)の紙背に、東坊条盛長からの書状の紹介である。
日付け不詳ながら、内容的に天正九年に批定するこの文書、禁裏小番であった盛長が、下御所当番を勤仕した後、勧修寺邸へ赴いて譲位に関する「諸家 勅答之様子」を伺いたいという内容である。
譲位は、天皇側が望んでいたことは、疑い余地なしと論ずる著者は、それについて触れられ、甲斐から安土へ帰国した信長の許へ使者が派遣された。
信長の返事の内容は、「めてたし、〜〜」というもので、譲位の経費負担を信長が了承したのであろうと述べられている。しかし、四月一日突然「金神」という不可解な理由で延引となった事情は、史料上明かではないそうである。
ただ、四月十八日徳大寺公維が兼見に「御譲位之記」を借用しており、継続していたことを指摘されている。
この小論を紹介したのは、最後の堀氏の見解が私は一番朝廷との関係を簡潔に述べられてると思う。

織田権力と天皇の関係を、威圧による「意のままに動く天皇」とする対立構造ではなく、両者が相互補完的に公武結合王権を構成するという視点から見直すことが必要ではないであろうか。その主導権は信長にあったことは言うまでもない。


天皇が本能寺の変の黒幕とは考えられないですね。
信長文書をよむ 信長発給文書理解の手法
先日の安土での博物館講座。
講師の高木さんによる無料の講義。
冒頭に昨今の歴史テレビ番組の制作者からの問い合わせの話がでる。
その話を聞くかぎり、初めから信長の虚像ができており、その資料を求めての問い合わせがあるそうだが、その資料は概ねフロイスの日本史。
使い方次第で、どの様にでも可能ではあるが、、、
誕生日も、テレビ番組では5月12日となってますね、、、

はじめにで、述べられてる様に、発給文書から見れば、信長は世間に通用していた様式をきちんと守る人物で、相手への礼儀や秩序を尊重するとある。
よく言われる、中世の秩序を壊す、、、信長ではあるが、文書からはそのようではない。
また、文書の形も旧来のものを踏襲している。
それに引きかえ、秀吉は文書の形態を変えてしまい、徳川幕府もそれを踏襲したようで、信長より秀吉のほうが、秩序を壊した魔王(笑)であったようだ。

講座に使われた文書は、徳川家康宛信長文書
(釈文)
就岩村城落
居、書中披見
珍重候、秋山事
引寄、今日掛
磔候、其外籠城
者共、不残刎首、
近来之散鬱積、
次遠駿境目
城之事、以○○
承可随之、但東
西南北隙明候条、
吉良辺鷹野
節可到直談哉、
重而可承候、猶
小栗大六ニ申渉候、
謹言、

十一月廿八日 信長(黒印)

徳川○○○

内容は、天正三年(1575)家康からの書状に対する返信。
秋山を引き寄せ(岐阜へ)磔にし、その他籠城したもの残らず首を刎ね、近年の鬱積を散じた。
吉良の鷹狩りに行く際、直接話をしましょう。小栗大六に詳しい事は言っておきます。
簡単に言えばこうでしょうか。
信長公記では、籠城したものを焼き殺しなされ候。とあるが、文書では違うようだ。

注 小栗大六は、家康の家臣。

おわりに
自筆文書が極端に少なく 地位や勢力の変化により発給文書も変わる。
旧来の秩序、システムを効果的に利用した人物と締めくくられている。
京都も、雪が降ったり止んだり。
つもりはしないが、一日そんな日だった。北部は、積もってるだろう。
そこで困った。朽木にある「信長の隠れ岩」のありかがやっと分かったのに、
積雪で行けない。無理して行くものでもないので、春になったら訪れてみようか。
そういえば、信長の腰かけ岩にも行かなくては、、、



信長と安土城
開館15周年記念 第35回企画展
収蔵品で語る戦国の歴史 平成20年1月19〜3月30日 於安土考古博物館

開館から、今まで購入した収蔵品を中心に展示されており、展示室全てに収まりきらないので、展示替えを行うそうである。
いずれも、貴重なものでこれだけのものを一同に見れることは、まれでしょう。
今日は、博物館講座「信長文書を読む」を拝聴。

昨今の歴史番組の制作者からの、問い合わせの裏話から始まり、徳川家康宛文書の読み下しを、分かり易く解説。二時間弱があっというまに終わった。

素っ気ないが、以上レポでした。
みーな
特集 浅井家をめぐる女性たち
先日滋賀図書館で見かけた長浜の地方誌らしきものですが、
安土で購入。読みものですが、面白いと思い購入。
巻頭エッセイは、「淀さまとの夢問答」福田千鶴女氏。
去年「淀殿」を執筆されたかたですが、淀殿に対する思いが伝わってくる
内容になってる。

このエッセイで、淀殿のことを「淀さま」とおっしゃられている。
私の女性史の師匠とも言うべき方は、淀殿のことは、「御茶様」と誓願寺奉加帳から言っていた。やはり、女性が女性史を描かれる方には、思い入れが私とは違うようだ。

他この冊子、顔写真入りで、いつも名前は論文等で拝見しても、お顔を見ることはない。
この本は載っているので、貴重である。
信長関係も、あったのでしょうか。

日比野長者阯
起町史 下巻
道三の隠れ小屋だったと云われるコピー見付かった(笑)
日比野長者址、又絹屋址ともいわれる小屋は、清須からの古道に添っている。
付近に豪家なく、隙見する為に来たのではなく、到着の仮宿として、当家を用いたのではないかと論じられ、それを偶然見たとなっている。

この日比野氏は、後年一里塚の南方へ移転し、その子孫は現在一宮氏に移住している。
へうげもの 5
古田織部主役のこのマンガ、かなり面白い。
こちらも、ツボをおさえた、ギャグとも何とも言えない笑いがあり、
楽しませてくれる。
この号に、ノ貫(へちかん)と呼ばれる謎の数奇者が登場する。
山科に居住し、古田左介と一騒動起こすのであるが、
この人物のモデルは、善輔(ゼンポ)のことでしょう。

山科ではなく、東山粟田口の近く、粟田神社の東の辺りに、世をすねて住んでいた。
変人に、ドが付くほど変わり者で、オンボロ小屋に炉を設け、いつも

手取釜と名付ける、鉄ビンをかけていた。
湯沸かしはもちろん、ご飯を炊くのもこの手取釜だった。

京都から近江に抜けるこの要路は、旅人が往来していたのを、誰彼なく、茶をすすめ、世間話をし、旅人を楽しませていたのが、話題になり、定職を持たない彼は、ひょうひょうと人のほどこしをうけてまわったという。
この噂を聞いた秀吉が、それを持ってきて茶をたてよという命令が千利休によってもたらせられると、善輔は怒り、取り上げられると思ったか、粉々に砕いてしまった。
利休は、事のまま秀吉に真相を述べると、
「善輔とやらこそ本当の茶道人だ。彼の命を召し上げようとした自分こそ、恥ずべき考えだった」
と、述べ秀吉は元のイメージに残ってる手取釜を二つ作らせ、一つは善輔へ、一つは自分のものとしたという。善輔がいつ死んだか分からないが、その釜は、近くにあった良恩寺に残されてる。直径20センチ、高さ17センチで、蓋にはナスビの葉模様がある風流な鉄ビンである。

後日談で、細川玄旨がその手取釜をもうひとつ作って欲しいと、鋳物師に命じたところ、秀吉様から、二つとの注文だからと断り、恥じ入ったという逸話が残っている。

参照 京都秘められた史跡
安土城の大手道は無かった
登城道と御成道 木戸雅寿著
財団法人滋賀県文化財保護協会 2007年3月紀要 刊行20周年記念号

上記論文、題名だけ見るとえっ、と思われるかも知れないが、用語の使い方の事である。
また、先の記事で述べた様に、木戸氏は、安土山のことは、安土山だけで理解し解決して行く方法を取るべきと、再度提唱されている。

また繰り返しになるが、天主と殿主の違いについての区別について論考されていて、本稿では、伝二の丸に、殿主?と推定されているようである。つまり、ハレとケで云うケの部分であると思われるが、そうすると、兼見と対面したのは、この伝二の丸でしょうか?

さて、本稿の一番の見所は、最新成果への反映であろうが、南正面に現れた門前広場を木戸氏は、分かり易く図入りでされている。
大手口前調査で、現駐車場で見付かった石塁から、現県道までを天皇が通るであろう道を示され、堀を越える木橋か、土橋があったのではないかと論考されている。
そうすれば、南正面は今までの想像とは違う形となり風景として一変する。

木戸氏は、行幸肯定派で前にシンポで聞いた三浦氏とは意見が違う。まだまだ、活発な論議を期待している。
北小路大膳大夫像
トラックバックがよくわからないので、スミマセン。
桐野様のさつま人国誌で話題の近衛信尹。
関白職を秀吉と争い、薩摩へ流された人物だが、詳細は先に紹介した谷口先生の著作や、桐野様のブログに詳しいが、配流されるまでの事になるが、面白いものがある。

上記画像賛を信尹がしているのだがその内容が面白い。

北小路大膳大夫影の由候へとも、
毛頭、不ニ相似 候、
さてもとんなる顔哉、
引きやふりたく候へとも、こらえ候者也、
天正十八年・七朔、与作書 之。

北小路俊直(1530〜1586)近衛の家臣で、死後四年後に賛したものである。
賛文は、いささか乱暴で、公卿としては異例な行動をした信尹らしいところがあるが、却って目下の者に対する愛情がこもっていると見ることも出来ようと論考されてる。
(参照 日本肖像画史 成瀬不二雄著 H16.7)

確かに、この像主禿てるので、気持ちは分からなくは無いが(笑 愛きょうある顔
の様に思うが。
桐野様指摘の様に、この頃には、精神的に不安定であった傍証かも知れない。
伊束法師と意足居士
小説の火天の城を正月から、ぽつぽつと読み進めている。
さすがマニアックな著者、ツボを心得ている(笑
安土城の築城を描くこの小説。主人公は岡部親子。

何がツボかというと、築城に際して伊束法師を陰陽師として登場させ、天主台下で呪法させているのだ、なんと。

小和田先生の著作に出ていて、この人物の詳細が分からない。
尾張名所図会に、上記意足居士が同じ読みなので、そうかなと思っていたがよくわからない。

意足居士は、神戸伯耆守の一族で、光明寺の住僧で、軍学を好み、兵書を暗記す。
家康が、信長と対面したおり側に侍っていた。
八幡太郎の伝を得ているのを、平氏である信長は授かり得ず、源氏の家康に与えたという。

陰陽師は、有名な暦の問題で誰かは分からないがいたようだが、誰かは分からない。
伊束法師も何か、ご存知の方コメント下さい。
雑記
沢彦宗恩の岐阜命名は、安土創業録が出典らしい。
蓬佐文庫所蔵だそうで、江戸時代半ばの成立らしい。
角川の信長公記も、沢彦の名を注釈していなく、旧名に復したとある。

ネットで検索して見ると、岐阜県古文書研究会会長 佐藤哲雄氏が、策彦ではと論考されている。また、幕府大棟梁平内家秘伝書「匠名」には嵯峨の策彦に命じて、安土城の天主の事を殿主と名付けたとある。一度見て見たいものです。

新説 戦乱の日本史
創刊第1号 新説長篠の戦い 織田信長 鉄砲隊の三段撃ちはあったのか?
連載は、井澤元彦氏と松平定知。

22日発売で、創刊記念特別定価は190円

内容はともかく(笑 全巻予約受付中お申し込みの方全員に

特製 天下布武 万年筆プレゼント だそうだ。

全巻予約しないと貰えないのでしょうか?うーん欲しいけど、、、
亀山城の築城と社寺の破壊
亀岡市史 (中巻)
第2章 明智光秀と亀山城 の第3節

「丹陽軍記」の記述に従えば、亀山城を築くことは何分にも急を要すること故に、穴太寺を始め近隣の社殿、仏閣の建築もその敷石に至る迄、新たに築く亀山城の材料として亀山に集めたという。

しかし、それをそのまま信ずる分けにはいかないと述べ、「南桑田郡誌」に収録された社寺で、天正年中明智の兵火で焼失したという社伝が三、寺伝が十三あると言う。

社伝や寺伝は、天正年間から百数年後に出来たもので、また市内の古文書と寺宝も伝来が乏しく、且建築物の近世を遡るものが殆どないが、上述のような事があったのではと匂わすことが出来る。
例えば瑞岩寺の寺伝
僧文虎の時明智光秀丹波を領するや本寺本堂を破却してこれを亀山城の造営に用いたり
とあり、南桑田郡誌と符節するものであって、前掲丹陽軍記の記述が、全くの虚構でない事が証明できる。

これらを見て分かる事は、光秀が丹波に於いて行った事は、近江に於ける信長がした事の模倣であることが分かる。安土城築城の際、佐々木氏の菩提寺慈恩寺、江雲寺を破却した様に、光秀も亀山城築城の際同様の手口であったようだ。

光秀は、一般のイメージとは違い、藤本先生指摘通り信長とウマが合う様な人物だったことが分かるのではないでしょうか。
小林千草先生 近著
「おんなことばはどこに消えたか?」
原本信長記の世界の著者小林千草先生の著作で興味を惹いたので、少し読んで見たが、信長関連は、ないようだが、冒頭から面白い。

若者言葉で「違う」ということを「ちげーよ」と使うことが多いという。
ちなみに、私は使わないが、、、

元々、違うは、「たがう」から派生した言葉らしく、「違う」と言葉が出て来た時、現代の我々が「ちげーよ」に感じるほど、違和感を持つ言葉であったそうで、、、

などなど、流石学者さんの書かれるものは、違うなと思われるような面白さとなってます。
そういえば、原本信長記の世界は結局買ってないな(汗
フロイス日本史
本能寺の変・山崎合戦
前略
明智は夜明けになって坂本城に向かって歩き、そこで再起するつもりであり、ほとんどひとりで進んだが、(中略)翌日になると、ただちに、掠奪と斬首の勢いがすさまじく、

信長が殺された場所へは、初回分としてだけで一千以上の首級がもたらされた。

(中略)
その二日後、一部の司祭は信長が殺された場所を通ったが、人々が縄に吊り下げた供養のための三十以上の首を、まるで羊か犬の首を運搬するように、なんの感情も表さずに持ち歩いているのに出会った。このようにして、(それらの)数は増して行き、

短期間に二千を超えるまでになった。


本能寺の変後の、本能寺跡は想像を絶する光景であったことが分かる。
御礼
先日の本能寺の堀、拍手5 を頂きましてありがとうございます。
どなたがクリックして頂いたか分かりませんが、やはり本能寺話が信長の関心事を一番なんですかね。

本能寺跡の北東辺りに、まだ新しい住宅街が出来ているのを意外に思ったのですが、ここを建てる前に、発掘調査はしなかったんですかね?

旧本能寺跡の碑、同じ場所にあるが、塀が変わったので少し装いが変わった。
けれども、実は本能寺跡は、背を向けていたとは、昔は思わなかったな。



大河ドラマ
独り言です。

大河ドラマが、史実ではない。事実と違う。と、怒ってクレームの電話をされる方も

いらっしゃるようですね。

某年の大河で、子孫の方のクレームで切腹シーンがカットされたと聞いたこともあります。

また、秀吉の時、近江八幡市から、まだ始まってもいないのに、悪く描かないでと要望書を出し

たとは、新聞に載っていたのを読んだことがあった。

色々な思いが皆さんあるんですね。

今年の大河は、幕末で私は、大まかな流れは知ってるが、詳しくは知らない。

テレビだけ見てると、そうなのか。とか、ほんまかいな?とか思いながら拝聴している。

今年は、桐野様のブログ記事を復習しながら見ようと思ってる。

先日の天と地とを見比べても、NHKの作るもののほうが良い様に思うのですが、、、


毘沙門天?
昨日大河ドラマ篤姫が初回ということもあり、桐野様のブログも盛り上がる中、陰になりそうであった松岡君主演の天と地と。

なんとなく、だらだらと拝見。

最後に役名と出演者が流れるお馴染みのところで。







毘沙門天 北大路欽也





少し笑ってしまった。そういえば、出てたな。
本能寺の堀
本能寺と信長 藤井学著

先日の天下統一、信長・秀吉・家康で本能寺の堀が見つかり、信長が城郭風に改築したと、VTRで、K・K氏が述べられていたが、堀は信長が掘らせたのでしょうか?

上記本を読み返すと、元々この地を買い上げた本能寺は、数年前天文法華の乱で、焼き討ちされた場所と違う、西洞院四条坊門つまり本能寺の変の舞台となった場所を、沢村某氏から買うことになる。
また応仁の乱の際、周防の大内政弘の軍勢がこの土地に城郭を構えたことがあり、また、浦上則宗がこの城郭を拠点としたことがるそうだ。
つまり本能寺は、自衛の為に城郭であったこの土地を買った。
そして、その城郭風であった本能寺に目を付けたのが信長であった。

手直しをしたかも知れないが、元々堀はあったものと見て良いのではないでしょうか。
沢彦
火坂雅志著
衝撃の歴史長編
本能寺の変を仕掛けた男
信長の師僧、知られざる名参謀・沢彦は信長に天下布武の真の意味を説き続けた。
と帯びにある小説を、パラパラと読了。

来年の大河直江の原作者である火坂氏であるが、直江に関して知識がない私は、何とも言えないが、少し不安が残る、感想でした。
従来から、信長には軍師も、フィクサーもいないと言われていたが、その所をどの様に描くかが、興味あり読んで見たが、今川義元における雪斎。のようにべったり信長に付き添っていたのには、やり過ぎでは?と思った。信長公記何一つ出てこないのに?
養華院こと濃姫と関係するは、朝廷から光秀に密勅は出るは、と、驚きの展開には、びっくりした。
天下布武のことも述べられていたが、竹貫氏は出典なしと述べられていたが、作者は述べている。本当なのだろうか?
政秀寺が、那古野に創建し、小牧築城とともに小木に移ったというのは、連載した時に誰かに指摘されたのでしょうか?義昭の城と二条御新造とごっちゃになっているのは、別物と知らないだけでしょうか?

有名人を重ねて登場させているのは、大河ドラマっぽいが、来年は、どの様な大河になろうか今から楽しみです。
天下統一・三武将スペシャル 信長、秀吉、家康
2008年1月4日Nテレビ系
見ました、爆笑問題司会の上記番組。
この手の番組の良い所は、現物が見れる所であるが、果たしてヨーロッパまで、フロイスの日本史の本をとりに行かなくてもと、つっこんでみたい所もあったが。
さて先に記事にした、本能寺発掘調査は、この番組が入ってたのですね。おかげで、詳細が知れて、良かったですが。埋蔵文化財研究所のあの方は、二条御所の発掘調査の時、直接質問させて頂いたことがあるが、その時は、ゴットハンド事件の後で、質問の答えも「捏造の謗りを受けるから云々」と、憶測で答えられることがなく、流石と思ったが、今回の本能寺に火薬がとか、轟音の話にも、可能性があるとの答えには、見ていて笑ってしまった。

本能寺復元模型を監修された藤井尚夫氏は、映像として初めて拝見した。
あれは、新人物の増刊号の記事と同じでしょう。
備中岡山とか、誕生日が五月十二日とか、叔父守光とか、細かい突っ込みは、置いといて新発見である伝織田信長甲冑(井伊美術館蔵)目を奪われた。
伝来を知りたいものです。

VTRの出演者は、T・K女氏が出てれば、ほぼオールスターキャストであったのですが。

続 道三の隠れ家他
前に記事にした、右から左へ受け流す(笑)道三の小屋云々が分からないと書いたが、尾西市史に載っていた。日比野長者址とか、絹屋址と呼んでいたという。

絹屋の二階から、見ていたという伝説があった(起町史 下巻 1955年)
やっとスッキリした。と思ったら、尾西市史写真編に、信長鎧掛け松の古写真が掲載されていた。浄慶寺では、絵しか残っていなかったので、写真で見れたのは貴重であったが、昭和11年に落雷で焼失とある。
寺にあったのは、二代目でしょうか?写真と絵は似ているように思うが、いかに?
二の宮山
信長公記 首巻
奇特なる御巧これあり。と評される小牧城への移転。
信長は初め、二の宮山へ移転を言いだしたが、その後小牧山へと変更した所、近くて便利なので、スムーズにことが行ったというエピソードである。

この二の宮山へ一度行って見たいと思い、先日初登山。
道無き道を登る破目にと覚悟して行ったが、予想に反して登山道があった。
二の宮山は、本宮山といい、麓の大県神社の奥の院という感じの所だった。
途中電波塔があり、四駆であれば車でも可能である。
濃尾平野を一望できる眺望は最高であるが、岐阜方面は残念ながら木が遮って見えないのが残念であった。
登山道から周りを見ながら登ったが、ここに移転をと言われた家臣の動揺が、肌に感じられる程、切り開くには困難であったろうと思った。
何故信長は、ここに築城を考えたのであろうか。それは、美濃斎藤氏は稲葉山、近江京極氏上平寺城、浅井氏の小谷城、六角氏の観音寺城と、高い山を居城としているのに対して、平城を居城している信長は、早く移転したいと思っていたと、何処かで触れられていたのを、読んだことがある。

もうひとつ私見ですが、この二の宮山は、沢彦の寺永泉寺の裏山?と言いますか、その東側にあり、信長がこの寺に通っていたなら、この山は、信長の遊び場であったかも知れない。
狩りや、お狂いをする、赤武者集団がこの辺りを闊歩していたかもと一人、想像して見た。

最後に、大河ドラマ信長や、武田信玄で、信長が山へ鷹狩りに出かけているが、演出した方は、濃尾平野の何処を想定して、山の上を?と思っていたが、二の宮山へ登ってみて、ここがそうかと(笑)私の頭の中で、納得してみた。
謹賀新年
皆様おめでとうございます。
ブログを始めて、半年あまり経ちましたが、色んな目新しい情報等頂きまして、始めて良かったと思っております。今年も、岐阜での発掘調査の経過も気になりますし、今月半ばに、安土で「信長と安土城」の企画展もあります。
今年も、良い史料との出会いがあるように祈っております。