泰巖宗安記
織田信長に魅せられた管理人が、信長に関するあらゆるものを(女性史を中心に)紹介して行きます。
論文他
信長支配下における美濃門徒の動向
有力直参寺院安養寺を中心に 吉田義治著 花園史学 第28号 2007年11月

美濃と言えば居城でもある岐阜城のある所だが、以外にも浄土真宗の門徒が多く、その中でも安養寺の動向を論考したのが上記論文である。

織田信長の花押
その変形をめぐって 北西 弘著 大谷大学史学論究 第13号 2007年3月

奥野、中村両史の研究上のもので、花押の写真を入れて大変分かりやすい論考となっている。
点花押を中心にそえての項で、利休七哲を一人一人、点花押と解説をされていて、信長が点花押を用いた自論を展開されている。
特に面白いと思ったのが、点に対するイメージであの足半を生活感情の中から読み取れると論考されている。

信長が越えた峠 北峰弘士著 北摂の歴史
という論文があるらしい。これも読んでみたい。信濃はまだ手に入ってない。

秀吉の接待 ニ木謙一著
興味ある部分だけ、飛ばし読みした。
それは、毛利輝元が、御次御袋に音信している事を知っていたのだが、それは簡単に触れられているだけだった。
あと、聚楽第に於いて関白が女の子を抱いて現れたとの記述をニ木氏は豪姫とされていた。
しかしながら、福田千鶴著、淀殿ではこの女子を信雄の娘で、秀吉の養女となった小姫とされている。当時豪姫は数えで十一歳。抱いて歩き廻るには無理とされている。
私も福田千鶴女史の説に賛同します。


織田信長と明智光秀との出会い
と言っても、二人が出会ったのではなく、私が二人に初めて見たのはドラマでも、本でもなく国鉄亀岡駅のプラットホームにあった、亀岡祭りのマネキンであった(笑

田舎であった亀岡に行った時、(信長の名すら知らない時期)子供心にマネキンに興味を惹かれ親に、あれは誰と聞いた事があったような記憶がある。

信長の横で光秀が座っていた様な、、、

あれから十数年、亀岡もベットタウンが進んで、国道9号線沿いに店も増え驚くべき変わりようだ。光秀軍議をしたという、野条も大型スーパーが出来、昔の面影はない。

狂乱と冷徹のカリスマ 他
桐野様の連載、早いもので四回目。
ブログで触れられてましたが、見る方いないんですかね?
確かに、後ろのほうで分かりにくいですが。
信長ファンも減っているんですかね、桐野様の記事もすっかり信長がなく寂しいかぎりです。

さて、ぱらっと見ただけですが赤塚、萱野、村木と書かれていましたが、今回は先回より読み応えがありました。
しかしながら、駆け足すぎないかなと。
そう言っても、回は限られてるので仕方ないのかも知れませんが。

今回の赤塚合戦で三の山について、三王山と論考されてる事に注目。
この三の山がどこかというのは、昔からの疑問であったが自分で調べたことがなかったので、次に名古屋へ行った際には是非訪れてみて、鳴海との距離感など感じてみたい。


秀吉の接待 毛利輝元上洛日記を読み解く 二木謙一著
信長時代ではないが、新刊。
これから読みはじめる。

浅井三代 宮島新一著
こちらは、買うのは今日は躊躇った。しかし、宮島氏の論考気になる。

信濃の最新号に信長公〜という論文があるらしい。
今年から、某図書館何故か置かなくなって見れない。
何とか手に入れなければ。内容が気になる。

桐野様ブログコメントで、九十九髪が五島美術館蔵と間違った事を書いてしまってた。
静嘉堂の間違いでした。反省。

上京驢庵邸
織田信長が上洛した際の宿所として真っ先に思い浮かぶのは本能寺である。
が、それ以外では妙覚寺、相国寺、清水寺、東寺、知恩院などである。
それについて岡田正人氏の歴読誌での一覧表に詳しい。
一覧表を見ると意外にも本能寺は少なく、妙覚寺が多い事が分かる。

しかし、この表に抜けているのが驢庵邸である。

信長公記 巻三
三月五日御上洛。上京驢庵に至って御奇宿。畿内・隣国の面々等、三州より家康公御在洛。
門前に市をなす事なり。

公記にも記されているのに、何故か触れられていない。
さて、この屋敷に何故信長は泊まったのだろうか?
それは、この屋敷は上京市街の真ん中にありながら、その庭には「山里」と称する一角があり、二階の亭や茶の湯座敷は目を見張るものであったという。
山里と言えば、大坂城や名護屋城が有名だが、安土城内にも似た様なものがあったのでは無いでしょうか?この屋敷を参考にしたのでは?
信長はこの屋敷を風聞で知り、宿を希望した事は想像に難くない。
公記では何日宿泊したかは分からないが、
半井驢庵にとって大変な数日間であった事が想像できる。

参照 洛中洛外 環境文化の中世史 高橋康夫著
長坂街道と鷹ヶ峰 中世の道
京都紫野・鷹ヶ峰の地域文化学 仏教大学紫野校地学術調査報告書より
福島克彦著

前に記事にした中村武生氏の著書で興味を覚えた、長坂口について何かないかと調べていたらこの書を見つけた。京から、丹波そして若狭に行く為にはこの長坂口を通って行くのだが、、

現在は、この道ではなく高雄を経由して行く国道162号線を使うのは、車を使うようになってからのことであり、それまではこの長坂街道が使われていたようだ。
先日の大雪の日、反対側からだが、中川から杉坂そして京見峠を抜けて、鷹ヶ峰と通ってみた。(中川というのは、高雄と周山の間ぐらいに当たる)

この論文は、信長以前の歴史についても論考されてる。
信長と関係あるのは、秀吉の有名な大徳寺での葬儀の際、葬礼をこの長坂口の南蓮台野で行うのであるが、秀吉は、お次と共にここまでの葬礼の列に参加したという。

この記事の特筆すべきは?と言いますか、私が二条城と桃山城以外で、京都の城で初めて知ったのが、京見峠の上にある堂ノ庭城跡があるからです。
といっても、当時はこの名すら知らず、ただ明智光秀が建てたものであるというのを聞いただけなのだが、、。この城とは言っても、50メートル四方に収まるような小規模な城であり、光秀が築いたというのも、怪しいらしい。

京都の散策される方でも、こんな辺鄙な所まで足を延ばされる事はないでしょうが、見晴らしは最高です。
大光寺
先日紹介した総見寺の鐘。
間違いなく、吹田市岸辺の大光寺に現存している。
阪急正雀駅から数分の場所にある。
国道からは、一方通行の逆行きの為、中々たどり着けなかった。
鐘は正門横にあり、安土総見寺の鐘であった事を記してあった。

ものは、わりと小さくよく見てみると、、、相国一品泰巖など見てとれる。
この鐘、総見寺が後に、取り戻そうと話にこられた事があったとか。


また、場所が違うが安土城二の丸前にあった石灯篭は現在滋賀県東近江市羽田神社に現存する。有楽斎の孫三五郎長好が寄進したものである。
本殿裏にあり、以前訪れた際宮司さんが長々と説明して下さった。
瑞龍寺過去帳
とうとう手にいれました瑞龍寺過去帳コピー。
永姫母、正覚院について論争した経緯も有り、一度確認したかった。

少し字が違っているとこもあり興味深かった。
正覚院が、寺伝で濃姫ではないかという事も聞いたことがあった。
しかしながらそれは無いように思った。
それは、例えば永姫は利長の簾内とあり、まつは、利家の簾内、とある。
濃姫なら、信長公の簾内となる筈だが、玉泉院殿母儀とあり、濃姫説は難しいでしょう。

ただ、永姫母はもう一説あるが個人的にはこちらを支持している。
斎藤道三書状
桐野様の歴読誌連載の信長 狂乱と冷徹の軍事カリスマでは、現在舅斎藤道三が討ち死にしたところ迄、進んでいる。
この回でも紹介されている、有名な織田玄蕃充殿宛。
三郎殿様(信長)を慮って書いた道三の心情が分かるものであり、桐野様も、正徳寺会見の前の書状であることから、早い段階で気にしていたことを示していた、と論考されている。

それより前と思われる書状を紹介する。

大阪青山歴史文学館蔵 斎藤道三書状 天文廿一年頃

雖未申承候、以事之次、令
啓候、家来之者、那古野ヘ
往還付而、種々御馳走之
由候、誠不寄存知子細快
然候、自今巳後、切々可申
述事本望候、随而弓廿張
進之候、聊爾之儀候、恐々謹言
四月七日 道三(花押)
佐々隼人佐殿
御宿所

井口と那古野の間を佐々の居城比良城があるのだが、家臣が往来するに辺り便宜をはかってくれた事に対する礼状である。この時道三は、弓20張贈っている。
信長との連絡を取り合っていたことを示す資料である。

武将感状記にある、寝所を抜け出し云々は一次史料からは考えられないですね。
赤沢加賀守
信長公記首巻に登場する赤沢加賀。
その居城については、以前書いたが、その人物についてはよく分らなかった。
それが分かる記述を見つけた。
信長に対して、鷹を進上しようとしたところ、天下を取ってからと返答した信長に、京都で笑いものにした赤沢だが、信長は本当に上洛を果たした。
赤沢加賀守は驚いたに違いない。案の定、光秀の丹波攻略の際、反抗したようである。

赤沢加賀守義政領之同郡穴太村長谷山ニ要害ヲ構へ、今長谷山ノ近辺領所詳ナラズ。天正年中明智日向守光秀ニ攻落サレ牢籠ノ身トナル。慶長八年十一月十日南掛村ニ於テ病死
(南掛村東懸村地頭並百姓代々記 正徳2年6月 石田伝左衛門長良著)

信長、秀吉、家康時代を生き抜いた事が分かり意外であった。
もう少し早く亡くなってると思っていた。どの様な気持ちで時代を見て晩年を過ごしたのでしょうか。


月溪妙円禅定尼
古溪宗陳の法語録(蒲庵稿)にある上記女性の三十三回忌。
施主は難波に居住したとあるが、本女性については、例えば茶道文化研究や、大徳寺禅語録、古溪宗陳(竹貫元勝著)など特定には至っていない。
年次は、天正十二年仲夏廿九日。三十三回忌と言うことは、天文廿年に没。

この年に亡くなった方で思い浮かぶのは、濃姫の母小見の方。
美濃国諸旧記にある、天文二十年三月十一日卒。

年は合ってるが、日は合わない。濃姫が天正十二年難波に住んだというのも可笑しな話ですが、、、
濃姫の足跡を求める事は、難しいですね。
戦国時代のお城は面白い
里山、遺跡のコラボ事業講演会
H20年3月9日13時から16時まで

於文化交流施設やまびこ館ホール

千田嘉博氏「戦国時代のお城は面白い 山城とくふう」
石田敏氏「織田信長の朽木越と城館ネット」

上記講演会が朽木であるようです。3月であれば雪も大丈夫でしょうか。
織田信長の隠れ岩に行って見たいので、休みが取れればいいのですが、、、
下京中出入之帳
元亀四年六月十八日 (群書類従から)

濃姫の養子になったか、どうかは軍記ものに出てくる記述であり信憑性に関して低いと言わざるを得ないでしょう。これを裏付けるものではないかと私は思っているのが上記資料。

有名な上京焼き打ちの際、被災を免れた下京の献金リスト。
この筆頭に出てくるのが、
銀拾貫七百五拾匁 殿様
同壱貫弐百九拾匁但金三まいふん 政様

中略

同弐百目ししら拾端 政様
同百目 同 御きみやう様

この政様が、=濃姫。正室を指すのでしょうか?
この政様が、養子にしていた御きみょう様(信忠)と共に上洛をしていたのでは?と思うがいかに。献金の筆頭は、
銀弐百拾五匁 妙覚寺
そう、道三の子が入ったと言われる妙覚寺というのも濃姫の影ガあるような無いような。

ところが、大日本史料の名は、
政様のところは、殿様となっているので真意は不明であるが、濃姫であって欲しいと思ってい
る。

安土城20年計画発掘終了
織田創様ブログにて、知りましたこの記事。(ありがとうございます)

早いもので、あれから二十年経ったんですね。
色々ありました。毎年変わり行く安土城跡の姿に、ますます興味が惹かれ、
近い場所にあるところから、新聞記事が出ると、いち早く見に行ったものです。
天主台発掘調査現説は、多くの人で賑わっていたのが、つい此間の様な気がします。

最近は、この前も書きましたが、本当にこの様な形が良いのか疑問を持つようになりました。
大手道右側の石塁も、高く積み上げた復元をされましたが、その当時から批判があったように記憶します。

庭園を見つけられなかったのは、馬場平方面は諸事情で発掘できなかった事を指すのでしょうね。武村前大蔵大臣が、八日市市長で安土城を守る会の代表であった頃は上手く行っていたようですが。

ネット上も散見されますが、総見寺に対して的外れな批判をされてる方が見受けられます。
やめろとは思いませんが、、、、
と言いましても詳細にわたって記事にできないのが総見寺なのです。



茂賀山城他
織田信長がうんどんを、ご相伴した記録がある、小林家伝記。
その城の所在について、少し疑わしく思っていたが本当にあった(笑)
場所は、彦根市賀田山、JR河瀬駅南の亀山小学校裏山に当たる。
山崎源太左衛門の山崎城跡の東、少し小さな山が見える所がそれに当たる。

茂賀山城跡とある碑でもあるかと探したが、無かった。
マイナーも、マイナーな信長関連史跡である。
登山道があり、登って見ると何となく削平した跡の様な、そうでもない様な感じだった。
現在、亀山小の椎茸育成場となっていて、監視カメラ有りとの看板があり、不審者と思われるかも知れないと思い、早々に退散した、皆さんは行かれないと思いますが(笑)訪れる時はご注意を。

帰り、去年発掘調査現説があった場所を覗いて帰った。
その辺り、石を積み復元しているようだった。何か、やり過ぎに見えるのは私だけでしょうか。
狂乱と冷徹の軍事カリスマ
軍事カリスマの原点 桐野作人様著
歴読誌の連載第3回目。
帰蝶の入輿、信秀の死、信長を支えた道三との同盟、守護代家老衆の下克上、
守護代家の滅亡と信長の清洲入城、信長の危機ー弾正忠家の勢力変化

と分けて、論考されていて、いつもの事ながら出典を書いて頂いての論考は有りがたい。
信長が道三との縁組みによって、また正徳寺会見によって、信長という人物を見込まれ、全面支援を取り付けた事が大きいはずと論考されてる。
帰蝶が入輿されてない、と云う説を掲げる方も、いらっしゃるようだが、されてないならばこの様な事も有り得ないと感じる。そして、道三の死により後ろ建てを無くした信長が窮地に陥ったまでで終っている。稲生原の戦いの発端を道三の死がきっかけとされた方は、今までいらっしゃたろうか?

最後に嫡男信長、二男勘十郎信勝とされたのは、母が同じという意味ででしょうか。
次男秀俊論争と、信長が三男かどうかも判然としないので、信勝は四男かむずかしいところですね。
蒲生氏郷忌
本日は、信長娘婿氏郷の命日。
毎年大徳寺黄梅院にて、法要が行われている。
墓は、自身の菩提寺であった塔頭から移した際の裏話として
甕に遺骨が入っていて、盃と刀が一緒に入っていた。
頭骸骨は大きなもので、案外顔は大きかったようだ。

もうひとつ、京大の方が毒殺されたかどうか、遺骨から調べて見ましょうかとの裏話も聞けた事があった。住職の話は兎も角、本堂には新しい信長の位牌も安置されている。

京都名家墳墓録、(明治刊行)によれば、その時代でも氏郷の墓がどれなのか分からなかったらしい。墓下に眠ってる遺骨は、本当に氏郷のものか疑問をもってる。
子秀行や、その他縁戚のものが同じ所に葬られてるが、行方不明なので可能性はあると思ってる。
三ノ丸殿 2
本日が三ノ丸殿の命日。
墓参できないが、花園妙心寺に向かって合掌。

韶陽院跡とは、現在庭園の跡と墓地のみになっており、広い妙心寺の中で
ポッカリ穴が空いた空間となっている。
場所は、およそ境内の東北、蟠桃院の東側、桂春院の西側である。

その桂春院に、秀信の弟秀則の墓がある。
津田宗爾という名で、寺門の前に名が見える。


信孝の誕生日
信長三男、三七郎信孝は永禄元年(1558年)四月四日熱田宮司岡本氏の家で出生したと言われている。
しかしながら、岡本氏とは信孝の家老となり、信孝没後は秀吉に仕えた岡本宗憲は熱田出身ではなく、西篠村、今の大治町出身のようである。
何故この様な伝説が生まれたのであろうか?
そのヒントは、その誕生日にあったと思っている。

それは源頼朝が、熱田宮司の家で四月八日に誕生したことを知り、神戸録及び伊勢の軍記等に見られる上記記事は、それからの引用と思うのですが、いかがでしょうか?

水野忠胤改易事件
官女密通事件は、それで終わらない。
公家達の死罪を望んだ天皇であったが、幕府の介入によりそれが実現しなかった。
家康はこの事件に関して、大いに悩んだに違いない。
それは、上記水野忠胤邸での刃傷事件が江戸で起こったのであったからだ。
同時期、江戸と京都に於いて、信長娘婿が絡んだ事件が起こった分けであるが、家康は身内である水野(母方の血筋)の処分が甘いと、公家への示しがつかなかったと考えたのであろうか、忠胤に切腹を申し付けることになる。

もうお分かりであろうが、水野忠胤正室は、お鍋の方の一人娘振姫である。
振姫は、子を残して何故か水野家を去り実家に戻ったようである。
それは、母鍋のいる京であろうと思われるが、裏付けはない。
再嫁先は、江戸幕府二代将軍秀忠の御台、お江与の先々夫の佐治一成。
その背景も分かりかねるが、このように信長没後、信長に関わった女性達は、あまり幸せな晩年を過ごしてないことが分かる。
官女密通事件
猪熊事件とも云われる大スキャンダル事件。
悪く言えば、時の天皇後陽成天皇の女を公家が手を出したのであるが、
それが公家も、女も一人だけではなかったから驚きの事件で、太田牛一も「今度之公家双紙」と題して一本書き上げてる。
その公家の一人に信長の娘婿が含まれている。
徳大寺実久である。何故かは以下推測であることをお断りしておく。

実は、その二年前妻、信長の女を亡くしているのである。
三ノ丸殿と同じく、韶陽院に葬られたが、どれが墓石か判明しない。
位牌も雑華院にあるが、三ノ丸殿の半分ぐらいの大きさで、二条家と徳大寺家の差でしょうか。

妻に先立たれた実久は、同じく拘わった花山院忠長(実弟)に誘われたのではないかと。
弟の誘いにしぶしぶついていったのではなかろうか。
それは、その処置が忠長は遠流に対し、実久は官位を解かれただけで許されたという。
三ノ丸殿
明後日2月5日が三ノ丸殿の命日。
生年不詳、1603年没。墓所は、自身が建立した韶陽院跡。
歴史読本2003年5月号に写真が掲載されているが、
それ以前に私が戒名から判読し発見した。

その寺跡、私には少し縁があった場所なのだが、それが後年三ノ丸殿の建立した寺跡だと分かった時は、少し驚いた。
三ノ丸殿は、信忠乳母慈徳院を生母とする信長の娘である。
後、秀吉の側室となり伏見城三ノ丸に起居したところから、三ノ丸殿と呼ばれた。
秀吉没後、二条昭実の室となったが、俄かに没した。
嵯峨二尊院に二条昭実の墓捜しに行った際、ご厚意で過去帳を拝見させて頂くことができた。
そこに
若君 葉上院 慶長八年二月五日
と三ノ丸殿と没年を同じくする子の記述を見つけ、産後の肥立ちが悪く亡くなったことが分かった。後に出版された、上記歴読で跡部氏がそれを裏付ける論考をされていて嬉しく思ったことがあった。

明治の廃仏棄釈で寺は廃れ、僧堂として使われたが、後に尾張へ寺基を移したと妙心寺史にあったのを、どこに行ったのか長年の謎であったが、これは一宮市丹羽に寺名を変えて現存していることが分かった。その名は東光寺。小さな寺であったが、入り口の碑に
韶陽院とあるだけで、こちらには何も残っていない。
三ノ丸殿の有名な画像と、立派なお位牌は雑華院に残されている。
6年前、400回忌に法要はされますかと問い合わせると、どうぞお越し下さいと返事があり、当日雑華院にお参りさせて頂いた。
雑華院と蟠桃院住職そして私だけの寂しい法要ではあったが、非公開寺院の趣き、静寂さと合わせて、安らかなご冥福をお祈りした。

安土城はお鍋の方が退城した後、三法師と共に母慈徳院が入城したことは、以前に述べた。
そこに三ノ丸殿が一緒にいたであろうかは、三ノ丸殿が亡くなった際、秀信(三法師 )が供養したことが知られ、同居したであろうと思われる。その場所は不明ながら、主郭部は延焼しているところと、貞亨古図の秋田城介信忠の場所ではないかと憶測している。
信忠の屋敷では無く、城介息(じょうのすけむすこ)と称された三法師の屋敷の伝承ではなかったかと思うのだが、いかがでしょうか?

伝承だが、この屋敷後に近江八幡城に移され、秀次の母ともの寄進により、京都本国寺の本堂になったと寺伝にある。しかし、江戸時代火災で焼失したという。


北の方
信長正室濃姫が本能寺の変時、生存していた証として、
総見院殿追善記、惟任謀反記、本能寺記等に出てくる北の方。
正室を指す用語から、斎藤氏(濃姫)であると岡田氏も論考されてる。

そのあたりの記述が
前略
安土には此の由をつ伝へ聞き、宿直の番衆をはじめ、前夫人、後夫人、北の方、西対、
東南の局に、妾古後達、奴婢、雑人に至るまで、徒裸足にて散り散りに北げ走る。

その後の記述も、美辞麗句になってる所を見ると著者大村由己が、中国の古典を引用したのではと、話題になったことがあるが、中国に詳しい武藤様何かご存知ではないでしょうか?

また、大徳寺の葬礼時、信長の位牌を持った相公第八男御長丸だが、これを八男酌丸(信吉)と幼名と違うところから、十男信好(長丸)を当てることが多く見られる。
しかし、東大史料にある小倉氏采地折紙寫并雑記に、
信吉 少名 酌 長丸 織田武蔵守 剃髪後号道ト
とあり、信吉も長丸説を取っている。

お鍋がこの葬儀に使われた、野辺位牌を貰い受け、崇福寺に収めた所を見ると、信吉と断定してもおかしくないでしょう。