泰巖宗安記
織田信長に魅せられた管理人が、信長に関するあらゆるものを(女性史を中心に)紹介して行きます。
桜、
長い間、記事が書けませんでした。
京都の某、桜の名所も、朝と夕方を比べると、だんだんと咲いてきました。
地元のものとしては、観光客が大挙押し寄せて来て、大渋滞がおきる嫌な季節がやってきました。
他の隠れ桜名所は、まだ全然咲いてませんが、もう「隠れ」といえない程人が多くなってきてます。
今年も、身動き出来ない程渋滞すると思うと、、、。

さて、安土城跡の江藤山には毎年桜が咲きます。
観光客が、酒盛りしてるのを見ますが、あそこ元々墓地だったんですよね(笑
骨も出る事もあるとか、ないとか。

桜と言えば、九男信貞の家系で桜の絵しか描かなかった、女流画家織田瑟々という方があり、
毎年、今月末に東近江市西蓮寺で展覧会があるのですが、今年は案内がなかった、、、
毎年行きたいのですが、ナカナカこれが、上手くいかず。
道三敗死
第9回
当時も、そう言うクレームがあったらしいが、この大河画面が暗いんですよね。
マイビデオは、テープが悪かったので、寝室のシーンなんかは全く見えない(笑
先日、独眼竜政宗のDVDを借りて見たが、画像は鮮やかだった。
時代劇チャンネルに、翔ぶが如くが放映されていたらしいが、DVDも初めのうんちくや、風土記も省略されてる様なので、当時残しといて良かったと思っている。

慈海こと、後のロレンソ(稲川淳二)が、キリシタンになった経緯が挿入されてる。
自慢のひげを剃ってのロレンソ役。後にも、有名なシーンで出てくる。

喜六郎が、矢に当たり叔父信次が出奔し、信長が駈け付けたところから始まる。
供も連れず一人で行動した事を、信長が責めるのは公記どおり。
さて、道三役の芦田伸介。この方が、常在寺本の画像に容貌が一番似ているのは?
個人的には、道三役を色々見てきたが一番似合ってるように思うが、どうしょうか。
ひ弱そうな義龍(広岡瞬)が、弟二人を切り、道三その知らせが入る。
そして、その知らせが信長のもとにも知らされ、そして帰蝶も知る事になる。
寝所に戻った信長は、義龍の出生について帰蝶に暴露するのだが、
帰蝶は、聞かれる前に、守護土岐氏の女から奪い取ったと言ってしまう。
「我が父は、我が父は」と泣きながら、信長に道三の正当性を訴える帰蝶はなかなかの見せ場。

そして長良川での討ち死にシーンがあり、信長は間に合わなかったのであるが、そのシーンにおいて、有名な譲り渡し状からの引用の芦田伸介の語りは、秀逸だった。
ただ、と云うか鼻を削ぐ事はなかった。

信長風土記 もうひとりの父道三 岐阜市
濃姫の死去の時と場所をめぐって
郷土文化62−1 横山住雄著

この論考、去年の発表なのだが、あまり話題にならなかったのでしょうか?
一読して、驚き又、納得する事多く私は支持しますね。

さて先に結論を言いますと、東京お茶の水図書館蔵、「快川和尚法語」にある
雪溪宗梅大禅定尼 小祥忌塔
それに、天正元年十二月二十五日没とあるこの女性が、岐陽太守鐘愛の女性とある。
この岐陽太守は、信長を指す事は間違いなく、そうすればその女性とは濃姫しか考えられないだろうという論考である。
そこで、快川和尚が何故、濃姫の一周忌を挙行したかについては、以前著者が述べられた信長に嫁ぐ以前に、土岐頼純に嫁していたのではないかと言われた事が真実味が帯びてくる。
頼純の居城大桑城と、当時快川の住持していた南泉寺が同じ山県市内なのである。

以前ブログ記事でも触れたが、濃姫の生存を裏付けるもので
壷事件後、1572年8月イエズス会日本報告書での、キリシタンになった青年貴人が尾張の奥方の姉妹の旦那であった事から、この時点では生存していて間違いないであろう。
下京中出出入之帳の政様が、仮に濃姫であったとすれば、亡くなるほんの少し前に上洛した?ということになる。
その後が、何も類推ものすらないのでこの没年を見た時、なるほどと思ったが、いかがでしょうか?
付足しで、足利義昭に嫁いだ虎福女が、信長御台ヒソウでは無く信長ヒソウとなったのは、矢張り濃姫は亡くなっていて、信長が養育したという私の憶測は的を得ていたのでは。

年末に亡くなってるが、正月喪に服してる様子は無い。
が、この正月、そう例の薄濃の年なのです。
これは、どう解釈しようか?
他にも色々あるが、私も今読んだとこなのでまた落ち着いて考えたい。
小嶌日向守娘
豊明市史 資料編補一
川口氏先祖書系図
整理してましたら、やっと見付けた上記史料。
読み直して見ると、大変なものを見落としていた。
信長の実母ではないかと思っている、小嶋日向守信房の娘。
この系図では、伯母と出てくる。

川口久助宗勝の項に
母小嶌日向守女、為化粧田尾州岩塚村ヲ領ス、世人岩塚殿ト云、信長之伯母也、
天正十二年十一月三日卒、葬甚目寺、法名岩松院妙林

今まで分からなかった、没年など見落としていた。
これは送って頂いた方には、失礼な事をした。甚目寺の墓地を歩いたが、古い墓はなさそうだったので、遺失したか。

さて、この系図面白いのは、川口久助の業績が、信長公記に全く記されてないのは、
太田牛一と仲が悪かったから、意図的に記述されなかったとしている。
ある日に口論となって、太田が赤面したと出て来る(笑
本当なら、太田も意外な一面があったことになる。

話を戻して、信長の母?と言う説があるこの女性について、信雄分限帳に出て来る女性達の中に、岩塚を領してるものはいない。岩塚は、誰がかは、また調べてみたい。
徳川家康と三人の女
本日三月十五日(土)テレビ朝日系 PM九時〜
徳川家康 松平健 織田信長 中村敦夫

今日は平成二十年だというのに、未だに、、、という感じですね。
三十年前ぐらいの作品でも可笑しくない、内容でした。

徳姫が出て来ましたね。二人の姫を連れて。
若御台様と呼ばれてましたが、尾張御新造様と呼んで欲しかったですね。
独り言ですが(笑

信長が、酒井忠次を安土へ呼んで詰問するお馴染みのシーンがあるが、
古文書研究 第13号 1979年6月号 岡崎殿 奥野高広著
を読むと、十二ヶ条にも及んだ書状を安土へ届けたそうだが、酒井忠次は平伏しており
(「頭を上い」との声がかからぬ限りその態勢を崩せない)とあるが

概ねこのシーンでは、普通に目を合わせる程、頭を上げてる。
が、実際はどうなんでしょうかね。

それ以外は、概ね今まで通りの解釈でヒネリなしでしたね。
信長と三人の女、作ってもらえないですかね。
歴史街道 1992年4月増刊号
徹底比較 信長・秀吉・家康

所謂、三英傑の三人を特集した読み物である。
著名人の私は「この人が好き」では、
浅井慎平氏、いまここでは信長にしておこう
糸川英夫氏、不本意ながら答案を強制的に書くなら信長となろう
海江田万里氏、信長型のリーダーシップを備えた指導者が求 められてる
松本零士氏、老残をさらして守りに入った他の二人とは違う、真の英雄性を備えた人物なのである
などなど、あリ
その共通点と相違点では、筆跡や、趣味、食の好み、女性観まで比較し多彩な書き手によって論考されてる。

さて最後に、桐野様がお書きになられたシュミレーションゲームに挑戦。
あなたは信長型?秀吉型?家康型?
フムフム、注意書きで、これはあくまでゲームですので、あまり熱中しないことをお勧めします。
とある。

結果は、家康タイプ(笑
地味で堅実タイプらしい(笑 、仕事は目の前の与えられた仕事は律儀にきっちりとこなすタイプらしい
恋愛 では女性から見たら、これほど面白味に欠けるタイプはいない(爆)

桐野さんも、歴史だけでなくこの様なものもお書きになるとは、流石です。
鬼の栖
何の脈絡もなく、平成4年大河ドラマ信長を見なおして見た。
もう、あれから十四年前になるんですね(遠い目)
大河ドラマから、その年のブ−ムになるのが常だが、信長ブームはそれ以前からあった。
また、意外だが信長が、主役の大河はこれが初めて。
キャストは、信長にその当時の最年少であった緒形直人。
初め信長出演が決まった時、父緒形拳も演じた秀吉と思ったそうで、信長と決まった時「俺が?」と思ったそうだ。確かに当時、史上最弱の信長と言われたが、見直して見るとこれがなかなか。

一回からでは無いところが、許して頂いて(笑
第八回「鬼の栖」から
叔父信光が坂井孫三郎に殺された事に不信を抱いた、叔父信次と林道勝が清須城を訪れた所から始まる。この大河では、驚く事に信長が裏で手を引いて暗殺したという設定になっている。
その事に、信次は訝るが、空白となった那古野城代には林が任されることになった。

その頃、帰蝶の元に美濃の道三から、一通の書状が届く。いつもと違う気弱な内容に、帰蝶は不安がる。父道三と子義龍が実の親子ではない事を、夫信長には言えない帰蝶であった。
そして、稲葉山城内にて、とうとう義龍が道三に向かって実の父は土岐頼芸と宣言するのである。
そこで、道三がこの回の題でもある、義龍の心にも栖んだ鬼を見た思いがしたのである。
そして重要なシーン(笑 信長が鷹狩りの途中生駒屋敷に立ち寄るのである。
武功夜話で、散々叩かれた問題であるが、果たして信長が現江南市の生駒屋敷に通ったのは、可能なのだろうか?という問題は、さておき高木美保演じる「しの」こと生駒家宗の娘が、茶の接待をするのである。しかし、もう彼女には夫がいる身であった。帰城した信長は、寝所の帰蝶の元に行き、「そちの顔が見たかった」と分かり易いオチとなっている。

私の中では、生駒の娘と言えば、この高木美保さんが思い浮かぶ。
江南市にある生駒家宗娘の埋葬墓の横にある桜の木があるのだが
この高木さんがその当時名付けられた「吉乃桜」の説明板と共に並んで建っている。
いまだ桜の季節には、訪れた事は無いが一度満開の吉乃桜を見てみたいものです。
戦国武将を育てた禅僧たち
小和田哲男著 新潮選書 2007年12月
第六章 信長「天下布武」の陰に二人の禅僧
策彦周良と沢彦宗恩を取り上げたのは、どの方も同じ見解なのでしょう。
策彦が、信長に中国の影響を与えた事は良く聞く。
南化玄興が、安土山記で、安土山を泰山になぞらえている事を指摘しているが、信長の道号
「泰巖」が、ここからの引用ではと思うのだが、どうでしょうか。

さて、沢彦に関して故滝喜義氏が天下布武のルーツを探る(歴史海流)1996年8月号に於いて享年は82歳という事を永泉寺記録から紹介されている事を書かれている。
1506年生まれとなり、父信秀より5歳上という事になる。
信長という名の選定に、信秀が沢彦に相談するには妥当な差ではないでしょうか。
信長は高いところが好き?
信長が辿った道を、訪ねると高いところが多い。
それは、戦略上見晴らしの良いところを選んで陣したのであろうが、逆に敵方から見て、脅威を与えるのに効果的であったろう事は、充分想像に難くない。
見上げた敵方の本陣に、永楽銭の旗が建った時、戦う相手は戦意を喪失したのでは?
例えば、
槇島城攻め←柳山
二条城攻め←知恩院
池田城攻め←五月山

私が、本当に呆れたのが?浅井攻めの際、始めは手前で標高も低い虎御前山。
ここでは、見下ろせない。
そこで、信長は小谷城を見下ろす、大嶽を落とす事を決意し、それを実行に移すのであるが、現地へ行くとこの裏手から良く攻め落とせたものだと感嘆した。
そして、呆れたと言うのは小谷山の裏へ回ると信長が陣した山田山が前方に見えてくる。
その標高541。あの高い大嶽が494なので、想像つくと思うが、本当にあの山に?と思う程の高さの山である。
その後、谷口先生の著書「織田信長合戦全録」の冒頭を飾った有名な朝倉追撃戦が始まる。
虎御前山に残る、嫡男奇妙は父の背中をどう見送ったのでしょうか?

まだ、三好攻めの駒ヶ谷や、伊賀攻めの後に登った国見山など未征服なので、いつか訪れてみたい。
武田討伐凱旋旅行
武田勝頼を滅ぼした信長は、東海道を辿り安土へと向かった。
その行程は信長公記に詳しい。それを列挙して見ると
4月12日本栖
かみのが原(富士宮市) 御小姓衆、何れもみだりに御馬をめされられ御くるひなされ
井手野
人穴 御見物
上井手の丸山 くはしく御尋ねなされ
白糸の滝
浮島が原 (沼津市) 御馬暫くめさせられ
4月13日大宮(浅間神社)
富士川 乗りこさせられ
神原 御茶屋構へ、一献進上候なり
吹上げの松
六本松
和歌の宮 子細、御尋ねなされ
興国寺、吉原、三枚橋、かちょうめん、天神川、深沢城
神原の浜辺
清見が関
田子の浦
三保が崎 御心をつけられ
三保の松原
久能の城(静岡市)
4月14日
江尻城
駿府府中の町 町口に御茶屋立て置き、一献進上申さる
今川氏の古跡
千本桜 くはしく尋ね聞こしめし
安部川 こさせられ
持舟(用宗城)
丸子城
宇津谷峠の入口に館 坂口に御屋形を立て、一献進上候なり
偽之橋 誠に卒渡したる偽之橋とて、名所あり
花沢城
堂目の虚空蔵 能く〜尋ねきかされ候て
4月15日
田中城御泊り
後略

ここまで、自分が昔辿った道程を列挙して見た。
調べて見ると、この記述は、信長が行ったところは少なく、見た及び尋ねた所が大半を占める。
なかでも、確実に行った所は人穴である。
この場所、地図見ながら行ったが、農道が多く交錯しており迷いに迷って、ようやく辿りついた思い出がある。階段を下りて行くと、温度が変わりヒヤッとするほど、寒くなる。
懐中電灯を持っていなかったので、奥には入って行かなかったが、真っ暗な奥から人の声がしたので、勇気のある方は、どうぞ。また、白糸の滝は、看板が立っており、観光客も多く賑わっていた。

ここから、浅間神社まで、下り坂となっていて信長と御小姓衆が先を競って駆けたのではと思わせる様な道程だった。静岡市に入ると、有名な秀吉の羽織茶屋のある家を立ち寄る。
その前の道など、狭い道だったのは意外であった。
堂目の虚空蔵は、その羽織のある山を抜けると、海側に見える小さなツリーの様な山で、現在麓の弘徳院に有るが、拝観不可であった。

最後に、旧上九一色村に、信長の腰かけ石というのがあるそうなのですが、ご存知の方コメント下さい。
戦国時代のお城は面白い
H20年3月9日(日)於やまびこ館 ホール
初朽木。元村なので寒村だと思ったが、思ったより田舎ではなかった。
講演1、戦国時代のお城は面白い 千田嘉博氏
お名前は、かねがね知っていたが初めて拝聴。
城跡から桶狭間の戦いを再評価する 愛知県桑下城の調査を冒頭に述べられた。
不勉強で、知らなかったが去年発掘調査があったとの事。
場所は、瀬戸市。那古野、守山の延長線にある城で、桶狭間の前年に、信長が攻めたが、攻め落とせず当年一月に城を攻め落とし、その勢いで、鳴海、大高の両城を包囲したところから、義元が出陣することになったと発端を述べられた。また、その後の家康との同盟により、桑下城の堀は埋め戻され、この城の動向から、新しい解釈が可能にナル。
なるほど、と思わせると共に、お話されるのが上手で聞き易かった。

面白かったのが、城の構造による主従関係を述べられてる所で、席順でもそれが分かるとパネルを使って説明された。
天正記の秀吉に謁見した、毛利輝元の席次、伊賀の国人の城構造の後、お勤めの奈良大学での、席順を紹介され、学長の左右にズラッと並んだのを見て、学長はそんなに権限は無い様だ?とおっしゃられた時は笑いがおこった。

もうひとつの講演は、別に、、、ということで。
信長の隠れ岩
行って来ました、朽木。
結論から言いますと、分かりませんでした。
行くまでは、雪は全然大丈夫でしたが、山の中は、かなり雪が残っており、人の足跡よりキツネか、鹿か分からない動物の足跡ばかりが目立っていた。
時には膝まで埋まりながら、何とか西山城跡の入り口まで登ったが、ここでどうやって行くか道が分からない。足跡なし、雪はもっと深く、諦めた。
下から登ろうとも考えたが、これも雪で入り口が分からない。
やはり3月では早かったようだ。

さて、何故信長の隠れ岩伝説が、ここ朽木に残っているのか分かった。
それは、総見寺に残るあの信長の皮ズボン(社会の窓がついている)
は、ここ朽木で、元綱の家臣長谷川惣兵衛が信長を迎えた場所が三ツ石という場所で、隠れ岩はその東斜面に当たる。
信長は、朽木元綱の動向を計れない為、手前で、息を潜めて返事を待ったという事なのでしょうか?
長谷川家の古文書によると、市場の圓満堂で休息し、御茶と御菓子を接待したところ、上記皮袴と銀箸を下したとある。
注、三ツ石から数百メートル朽木よりにあり、ありがたい事に、看板が有る。



歴史街道
1990年 2月特別増刊号
織田信長 その強さと美しさ

本能寺の変で信長はどういう最期を遂げたのでしょうか?
切腹したのか?はたまた焼死したのか?煙にまかれたのでしょうか?

この本に映画「風雲児織田信長」で信長役を演じられた萬屋(中村)錦之介さんが
信長と私に於いて、信長への熱き思いと題し小稿を寄せられてる。

その最後に
私は京都へ行きますと、時間の許すかぎり大徳寺の総見院にある信長公の墓に、
秀吉が朝鮮から持ち帰った石でつくられた井戸から水を汲み、何度も何度も水をかけます。
火の海の中で果てた信長への私の供養の仕方なのですが、後略

信長役でこの様な心温まる、文章を書かれる方が現在にいらっしゃるでしょうか。


円乗坊
本能寺が、信長の時代というか天正十年頃どうだったか?
について、円乗坊という本能寺の僧と思われる鍵を握っているのではないかと。
藤井学氏の、本能寺と信長で分かり易く論考されてる。
本能寺に僧がいなかったというのは、フロイスの日本史に出てくるもの。
伝承で、本能寺の焼け跡からこの円乗坊が名物を堀り出したとの話があり、
駈け付けたのか?はたまた、居あわせたかがその証となるが。

ただ、本能寺は現在でも、信長時代以前の文書を保管しており、これを火災が全焼していない証拠と見るのか?追い出されたので、別の場所で保管していたのかが問題なのだが、、、




摂津国人塩川氏に関する一考察
市史研究紀要 たからつか第22号 H17年11月 渡邊大門著

信忠の室出身と言われる塩川氏。
何か、ヒントがありそうかと読んでみた。
ところが、信忠に関してはスル−でした。
面白いと思ったのは、著者は塩川氏に関して系図は存在しないと断言されている。
私は未見だが、青山大学の塩川氏は子孫を名乗っておられ、系図もお持ちだそうで、
信忠の室は、寿々(すず)と書いてあるらしい。

陰徳太平記に、縁戚云々とあるので塩川と何らかの関連があるとは思うが、三法師の母を=と捉えるのは、否定している。

どちらにしても、自分の興味とは少しずれていた。

本能寺跡
雪姫様の情報により、今谷明氏による論文が発表されるとのこと。
日文研が近く発行する「王権と都市」に載るらしい。
冊子か、本か分からないが是非手に入れたい。
記事を読むと、狭い範囲であったのは先の新聞記事で分かっていた。
あとは、公記との整合性をどこまで論考されるかが楽しみです(例えば厩と本堂との位置等)

あと。私が気になってるのが、果たして本当に信長時代のものか、再建本能寺か?はたまた織部の屋敷かと少し斜め読みしたい。
と言うのも、旧二条御所発掘でも短い年数で、二条家、二条御新造、大雲院と建物が目まぐるしく変わり、果たしてこれがどの時代のものかハッキリしないとおっしゃられていた(これが捏造云々の話)

今回の発掘調査では、それ以前江戸時代での地層がどのようだったかは、発表されてないようなのでその辺りもあれば謎は氷解するのですが。
出雲のお国
NHK金曜時代劇
主演 お国 菊川玲 山九郎 堺雅人
堺雅人つながりで(笑)お国の紹介。このドラマの興味は、山九郎なのだが、これは名護屋山三郎のことである。元氏郷の家臣で後津山森家へ仕官したらしいのだが、
その間、京でお国と知り合ったらしい。
このドラマは、そうではなくもっと前に、大村由巳のお抱えの役者としてお国と出会う設定となっている。

この名護屋山三郎は、後に九右衛門尉と名乗る。
墓所は、大徳寺高桐院。
お国とともに同じ様な墓塔が数十基並んでる内の一つである。

が、本墓は同じ大徳寺総見院。そう、織田信長墓の向かって右の一番大きな五輪塔である。
これは、総見院を輪番制で管理していた高桐院清巖和尚の養母(養雲院)が九右衛門の母であった縁によるようだ。
戒名 梅林院殿久巖宗遠禅定門 慶長八年四月十日没
篤姫 大河ドラマ
大河ドラマの感想をば、少し。
お一が、篤姫になりお姫様教育を受けて将軍御台所への道を歩んで行くのであるが、
女性も、幼名と使い分けていたのなら、五徳も永姫も、鶴姫も幼名があったのでしょうか?
そうすれば、男子の幼名如く、爆笑のオンパレードだったのかも知れない。

今回将軍世嗣家祥の、雨降りでの水遣りという素っ頓狂な行動で終わったわけですが、先に斉彬が、
馬鹿では無いのではと言う趣旨を言っていた。
それを視聴者に解らせる為に、将軍のご遺体の前にいる家祥が、ネジを巻けばよいと。
これは、家臣に将軍とはロボット(家臣がネジで巻いて動かすもの)だという凄い遠まわしのイヤミを言ったのである(考え過ぎかな?)

この堺雅人さん、新選組での山南とは打って変わってこの様な演技も不自然なく演じてられ今後の怪演が楽しみです。
信長と織田軍団
新・歴史群像シリーズ11
戦国を席捲した天下布武の軍容

久しぶりにこのサイズの本を購入。このての本、過去の焼き直しや、写真などの使い回しが多かったので、あまり手を出さなかったが今回はそうでもなさそうなので買って見た。
まだ、ぽつぽつ(いつでもそうだが)読みはじめてる。
はじめに気になったのが、橋場氏の幻の信雄政権。
少し前まで、信雄の女性関係を追いかけていたので、どの様に描かれているか気になった。
信雄の検地が、太閤検地より緻密だった事のあらわれであるとのこと。
犬山市史に、信雄の検地について読んだ事があるが、なるほどなとその時思ったが、それを裏付けた事になり少し驚いた。ここでも、織田家家督云々を述べられている。

桐野様の神戸信孝四国方面軍とその与力
では、著書誰が信長を殺したのかでも述べられて事の延長線とも言うべき論考となってるようだ。
三好への養子、花押の変遷を桐野様の持論を展開されている。
この論考で福蔵寺の信孝の首塚が掲載されてる。
これは、あったのですね。無いって言われたのですが、、、
検視でもあった大塚俄左衛門が、神戸城では受けいれてもらえなかったので、関町のこの地まで持ち返ったものなのだが。最近、母坂氏の故郷とも云われる、鍛冶坂城がもう少し先にあるので、何故そこまで行かなかったのだろうかと疑問に思っている。
福蔵寺には金色の立派な信孝の位牌が祀られており、奥様は明智光秀菩提寺から嫁がれたそうで、不思議な縁ですねと話が弾んだのは、もう数十年前(笑)

まだ読み終わってないが、気になればまた記事にしてみたい。