泰巖宗安記
織田信長に魅せられた管理人が、信長に関するあらゆるものを(女性史を中心に)紹介して行きます。
狂乱と冷徹の軍事カリスマ
歴読誌 連載第7回目になりました。
頭が桶狭間モードだったので、興味深く拝見。
尾張・三河国境紛争史、鳴海・大高両城をめぐる対峙戦、諸説に見る今川方の作戦目的、水野氏封じ込めを狙う、信長、決戦を決意に分けて論考されてる。

信長記の大研究でも触れられてる、天理本との比較をやはり述べられてる。
他に類例のない天理本の面白さは、桶狭間でも光を放っている。

桶狭間は何故起ったのかの問いに、橋場日明氏の海上交通確保をめざしており、経済基盤に打撃を与えるのが目的だったとの説を紹介されてる。
また、桐野様は水野氏を桶狭間における重要な人物と受けとめていらっしゃるようだ。
公記(陽明本)の記述だけでは、計り知れない桶狭間。
詳細は、本文を読んで頂くとして、決戦を秘す信長と決戦を望む豪気な信長を、
桐野様の切り口で論考されてるのは、信長ファンとして拍手を送りたい。
次回は、桶狭間の後編こちらも楽しみである。

指摘としまして、誤植だと思いますがP279の地図品野城のところ、
信長郡× 信長軍○
P280の鷲津砦
織田秀俊× 織田秀敏○ ではないでしょうか。

次号は絵本信長記 の特集との事。
昔織田信長 その激越なる生涯の挿絵で見た事がある。
詳細が拝見できるので、来月が楽しみである。
また、信長研究最前線の論考多数も用意されてる。
中でも、「信長記」研究の現在と題して、金子拓氏が論考される。
興味深い論文を執筆されてる、金子氏の論考要注目である。


都名所図会
安永9年(1780)に町人吉野屋為八が計画・刊行した京都の地誌。
この地誌は竹原春朝斎の俯瞰図を多様した挿絵が評判を呼んだもので、当時の京都がどの様なものであったか分かる貴重な情報でもある。

さて、ここで取り上げるのは本能寺である。
現在地、寺町の本能寺がどの様な景観であったかが分かる。
織田信長墓は、どう紹介されているかと言うと
織田信長公の塔(本堂の東にあり。天正十年六月二日、当寺旧地において明智光秀がために自殺す。
委しくは「信長記」に見えたり。

俯瞰図を見ると現在とは少し違って、本堂と墓の間に祖師堂と開山堂が見える。
本堂も現在とは違って、小さかったのでしょうか?
本堂の北に廊下続きで、方丈が見える。
この方丈の前の門は聚楽城よりここに移すとあり、興味深い。
現在はないので残念である。

さて、この記事を取り上げたのは信長墳と、称される信長墓の創建年である。
図を見ると、現在の墓塔と同じ様に見え、安永年間にはこの墓形であったのが確認できる。
しかしながら、天正年間まで遡れるかどうかは甚だ疑問で、先日のシンポで河内氏は、天正十年と刻まれてるから、という主旨を述べられていたが、如何なものでしょうか?
これに反論するものとして、東近江市羽田神社に残る、織田三五郎(有楽斎の孫)が安土城の信長廟に寄進した灯篭が残っている。
この灯篭天正十年の文字があるが、三五郎は生まれていないので成立年として成り立たない。

また、この墓の横に信長公と彫られているのも気になる。


他に指摘するものとして、現在横にある戦没者合同墓も図には見当たらず、桐野様ブログに紹介されてる、嶋津氏の墓も図には載っていない。

追記
全国寺院名鑑によると、維新騒乱で元治元年木屋町の薩摩屋敷を砲撃する長州軍の目標となり全焼、学問所も廃仏棄釈で廃校。更に境内地の上地などで衰えて行った。
大正八年から再建に着手、昭和三年に落慶入仏式を挙行。
屋代将曹と信長公記
富山史壇 第104号 1991年3月 越中史壇会
本能寺の変で、討ち死にした矢代勝介が、越中出身の屋代勝俊ではないかと論考される論文である。
谷口先生の辞典でも触れられてるが、関東祇候との公記の記述と矛盾している。

甫庵信長記に、明智軍から汝は他に異なり、退けかしと云ふ者もありけれども、あざ笑って尋常に討ち死にとある。
年数は低いが、信長に殉じた矢代勝介。
逃げた者もあるなか、賞賛してやまない人物である。
この矢代がいたとされる、厩があの発掘調査場所辺りと思っていたが、違う可能性も考えられるよう思えてきた。今後の調査に期待したい。

阿弥陀寺には、残念ながら単独の墓はない。
法名は春慶。過去帳にも御馬乗の記述あり。
山口左馬頭弘定
某氏へ私信。
信長姉安養院(犬山殿)の墓所大徳寺大慈院に墓があるようです。
また、話題になりました筒井親子の墓も同所にあったようです。
甚介とどうかは、また次の機会に。

追記
大慈院
梅林院殿心月宗安大禅定門 元和九年九月六日
過去帳には慶長廿年五月六日になっている。
戦国時代の本能寺と織田信長 他
2008年5月25日(日) 現地巡検とシンポジウム
現地巡検は、去年行われた本能寺跡発掘調査三ヶ所を周り、南蛮寺、妙覚寺跡など廻る。
三ヶ所中、年末のTV特番の場所以外はマンションが建築中でした。
堀が出てきた場所のマンションは、ネバーランド六角 五彩院2LDK3980万〜3LDK5450万〜
多彩なバリエーションである(チラシより)高いですね、やはり町中は。と、チラシをとって見てるのは、
私一人で、皆さんは説明を熱心に聞いていらっしゃいました。

シンポジウムは、一時半から五時二十分まであり長くはありましたが、聞きごたえがありました。
某有名な先生の後ろに座りまして、熱心にメモをとっていらっしゃり、何て書いてあるかと覗いてみますと、達筆すぎて読めませんでした。
冗談はさておき、河内将芳氏による文献史料からみた中世の本能寺では細かい字で、分かりやすくレジメで説明されてました。京都での信長の宿所変遷は、表にされてるのは今までなかったとおっしゃられてましたが、歴読誌の岡田氏の小論はご存知ないようでした。
二条御所と織田信忠の解釈は斬新だったのではないでしょうか。

吉川氏の報告は、自分の手で携わっただけあり、その場にいる様な臨場感があった。
本堂云々は、さておきI氏の批判をされてました。
仁木氏のコメントも、I氏の論考を受けて、反論を展開されており、また三鬼氏のコメントも、I氏のみならず某作家など批判されてました。
批判ばかり書きましたが、細かい事はさておき、私が好きな?話として、中国製の巻物の端が出てきたそうで、もしかすると信長が持込んだ茶道具の一部か?と笑いがおきたが真意のほどは不明である。
この様な話しは、やはり足を運ばねば聞けないので、行って正解でした。

以上(モウ終わりかYO)K2報告でした。

某氏へ超私信
智鉄丸載ってませんでした。安土城は絵本太閤記でした。
京都と織田を結ぶ人
信長上洛期における明院良政
ぐんしょ 62 渋谷大樹著

信長家臣でも、初期に消えたいった人物の小論。
没年すら分かってない。武井夕庵しかり、松井友感しかり、謎が多い人物がもりだくさんの
信長家臣。

右筆だけでなく政務にも携わる側面を紹介されてる。
また仲介役としての側面もあり、有名な言継卿記に頻繁に出てきている。
公家衆の対信長交渉の一事例として、公家の知行について各自日記を調えておくよう指示したところ、三十人あまりが応じ、万里小路の分が届かなかったという内容があり、複数の相手でも良政を通じてる事が分かる。

文化人としての素養として、和歌も嗜んでいる事も紹介されている。
上洛以前から、紹巴と親交していたという。
大雲院
織田信忠の菩提寺。
元々、旧二条御所にあったものが寺町の創生とともに移転。
現高島屋付近にあった。
管理人が歴史に目覚めた頃、広大な墓地がまだ完全に移転する前でした。
屋上から見る、墓地の風景は何となく覚えている。
信長信忠の墓より有名なのが、石川五右衛門の墓がある事である。
三十三回忌に貞安が建立したものという。
貞安の人となりが、分かる。

この墓、バクチにご利益があるといい、墓石を削って持ち帰るものが多く、削れている箇所が
見受けられる。

現大雲院は、建物が新しくて、いささか拍子抜けする。
秀頼が寄進した?鐘楼などあるが、何といっても寺宝の多さが目を見張るものがある。
また、本堂に織田信忠の木像が安置されているが、表情はあまりかわいくない(笑
阿弥陀寺の木像は、人気があるが、こちらは不人気のようです。

ニュー桶狭間
冬の講座 H13年2〜3月 名古屋緑生涯学習センター
郷土史研究家 梶野 渡氏

今日は、5月19日、桶狭間の戦いがあった日ですね。
京都も雨。といっても、楠木が倒れるほどではないですが(笑
昨日、渡辺謙主演「織田信長」と、大河ドラマ緒方直人主演「信長」、
中村錦之助「織田信長」、など見てみた。
最近桶狭間の知識が増え、今までと違った新鮮な気持ちで面白い。

よく云われてる、桶狭間は江戸時代観光地化していったが、東海道から離れており、
古戦場は、桶狭間から桶狭間山の北の山、さらに北の松原、田楽窪、舘狭間、田楽狭間へと
変遷を繰り返した事を、呼称の推移を表を使って分かりやすく説明されてる。

かぎや様のHPもそうですが、私はもうひとつ地名と場所がピンとこないので、まだまだ理解するのは
むずかしいです。

桑名蛤
久波奈名所図会 (上巻)
伝説云、永禄年中信長公北伊勢発行の時蛤を献上せりと云。
夫より続いて時々の城主へ貢献す。

信長のおもてなし 江後辿子著
を読み直してみる。
残念ながら、蛤の項に桑名の名はなし。
桶狭間の信長史跡
桶狭間の戦いにおける、信長の関連史跡が有名ではないが何点か見受けられる。
今川義元の関連史跡は、よく写真で見られるが、である。

そこで、いくつか拾いだしてみると。
一、扇川
前略 先年信長公桶狭間御陣之節此川之流を御尋被成候時扇川と答候得は
先幸よしと御喜悦被遊候由申伝候
一、手越縄手
信長公桶狭間御合戦之時善照寺より此道へ御懸り御遊所の名御尋候得は手越と答申候
に付出陣之吉事と被仰青指一〆匁被下則御案内申候其百姓半四郎と申候由

以上 鳴海旧記 なるみ叢書 第三冊

鎌研
名古屋市緑区鳴海町鎌研
一説によると、信長が桶狭間への進軍之途中、鎌を研いでいた農夫に場所を尋ねたところとされ
「鎌研」の地名が伝承されているという。旧東海道が手越川をまたぐところに鎌研橋がかかっている。
(豊明市史 資料編補二)

長翁寺
信長の持仏を弟の有楽斎が貰い受けこの寺に祀った織田薬師如来がある。
(鳴海宿マップ)

まだ、あるかも知れませんが拾いだしてみた。
明後 日は、桶狭間の戦いのあった五月十九日ですね。
再放送
篤姫の再放送。
大久保のセリフ。
駿河の下田を、伊豆の下田と変わってましたね。
いち早く、変えた所を見るとやはり間違いであったようですね。
吹き替えは、簡単に出来るようですね。(独り言)
岩塚郷
豊明市史にある、小嶌日向守の娘。
岩塚殿と称したとあったので、調べてみると。
岩塚城は、守護斯波氏の家臣、吉田内記守氏入道長英で、その子元氏は信長に仕え、
永禄十一年(1568年)勢州大河内城で戦死。
その子九郎左衛門は信雄に仕えたとある。(尾陽雑記)

信雄分限帳の成立時期と岩塚殿の没年が近いので、岩塚をその時領していたのは、
これでは誰か分からない。
ここからも、やはり詳細はつかめない。


この岩塚は、信長が幼年期手習いをした凌雲寺の南に当たる。(中村区)
信長の母説として、美濃土田(どた)説と清洲土田(つちだ)説。
そして美濃薮田小嶋日向守信房女説がある。

面白いのは、凌雲寺近辺を領してた稲葉地城主津田豊後守敏元の室が、
信長の母の姉、土田政久の女であることなのである。
また、豊後守の子玄蕃允信平が谷口先生の辞典によると叔父で後見人と認められる
ようなのは、母の縁かも知れない。

信長の母が、土田氏なのか小嶋氏なのか判然としないが、美濃土田(可児市)説は、信秀の勢力範囲からは、かけ離れているように思われるので、この辺りを領していた一族と考えるほうが、自然のように思う。
桶狭間奇襲の謎
NHK歴史への招待 27

桶狭間と言えば、信長の名を天下に轟かせた戦いで、ドラマでの名場面の一つである。
管理人は、昔古戦場跡へ行ったきりで、本を読む事もなくいましたが、
先日久しぶりに、その辺りを廻ってみて、本を読むだけでは分からない距離感が、
少しだけですが、つかめた。
しかし、まだかぎや様のブログの内容を理解するまでには、ほど遠い。
桶狭間は、色々な方も書かれているので、ポツポツ読んで来月の桐野様の狂乱〜を
楽しみにしよう。

ところで、上記本はNHKの歴史番組の本。
今でいう、その時歴史が動いたの昭和版。

何故この本を紹介したかと言うと、この本に相原を横切ったのだろうか、
の文章に写真を載せてるのだが、中古車屋の看板にゴリラが写ってる。
何でゴリラを載せるのか?と思っていたのだが、
この前なにげなく走ってましたら、このゴリラが目に入ってきた(笑
まさか、ゴリラの看板が、平成も20年になるのにお目にかかれるなんて。

失礼しました。独り言です(爆
信長居館跡発掘
岐阜での発掘調査。
5地区22ヶ所で行われるもよう。

昨年度、庭園と見られる石敷きが見つかった三重塔付近及び
茶室か蔵とみられる建物の礎石と火災跡が見つかったけやきだに。
居館本体のある可能性が高い、明治大帝像前。
冠木門南東部。

これらを、19日から来年3月中旬まで行われる。

安土城跡の二十年発掘が終わり、寂しく思ってましたが、今年はこちらの発掘が目を離せません。
特に、居館本体。
果たして、どの様な規模のものが出土するのでしょうか?
けやきだにへ向かう道は、安土城本丸の様に、階段で登って行く作りなのでしょうか?
はたまた、独立した四重の建物なのでしょうか?
要注目です。
矢部 家定
信長の近習。谷口先生にいう第三世代。
信長の親衛隊で、少し触れていらっしゃるが、変後秀吉に仕えるが、パッとしないようで、
武士なのに、竹を切り。釘として売っていたと、愛すべきキャラクターの人物。
信雄もそうだが、何か影の有る人物に興味を覚える。
この矢部、没年は不明のようであるが、面白い資料を見つけた。

久波奈名所図会 (上巻)
これによると、矢部は伊勢出身で、父は矢部右馬允主繁。
兄が某で、享禄三年出生、慶長十四年八月四月七日、八十四歳で没。
その弟が善七郎。永禄十年八月廿三始めて信長公に謁した。

神戸に於いて信長公野菊の花を採って、与えた事から家の紋所とする。

慶長十六年君恩を慕ひ、京都紫野大徳寺の内にて自殺す。
法号松円院殿といふ。五月朔日の事なり。

この様なものを見つけた。谷口先生の辞典でも没年不詳なので、驚くべき記述。
兄の年から見ると、思っていたより年長者に思える。
また、自殺した年も、思ったより後年のようである。
地誌なので、何とも言えないが、他に記述がないようなので、貴重なものと言える。
追記
慶長十六年とはどんな年だったか調べると、前月に秀頼が上洛して二条城へ家康に会見しているのである。これに何らかの関与していたのであろうか。
篤姫 他
原田泰造演じる大久保が、
駿河の下田って言ってませんでした?
やってしまいましたか、NHK。

下田は、伊豆ではなかったでしょうか?

ところで、フジの大奥を見直すと、本編の終わりに

このドラマはフィクションですって、流れるんですよね。
これは、これでやさしい作りになっていた(笑


篤姫が、魚を食す際、一箸つけるとかたずけるというところのみ、フジと同じでしたね。
残念なのは、まるが出て来ないところでしょうか(分かる方だけ笑って下さい)

先週見れませんでしたが、あまり進んでいない様なので、私には優しい回でした。

さて、今日でブログ一周年です。
たくさんの方に訪問して頂きました。
また、コアでレアな記事を出来る限り、書いてまいりたいです。
聖応寺
梁田出羽守の墓所、上記お寺へお参り。
織田信長三十六功臣で、浅野清氏が論考されていて、写真も掲載されている。
しかし、本当の目的は意外だが信長の位牌を安置されている。
おそがけに行ったので、目前にて拝見出来なかったが、住職から面白い話が聞けた。

梁田の子孫は、新潟にいらっしゃるらしい。字は違ってるようだが。
沓掛城は、あの城跡ではなく、この寺の裏手だと言われてたのには驚いた。
そういえば、三王山他陣城を見て回った後だったので、確かに、沓掛城は平城みたいですし、
そうかなと、思って調べようと思ったのですが、時間切れでした。
他、平野小法師他、住職と話が食い違う事もあったが、(色々書けませんが)楽しいひと時でした。

豊明市史所収
天徳寺殿一品前右相府泰岩常安大居士

めずらしく、総見院ではない位牌である。
成満寺
桐野様のリンク先、中村武生氏ブログで紹介されていたお寺。
歴史記事だけで無く、私事まで書かれてましてよく訪問させていただいてます。
上記お寺は、岡田有紀子さんの墓所です。
私はファンではありませんでしたが、衝撃的な出来事でした。
近くに行ったので、お参りさせて頂きましたが、表門横に由緒書きが、

祖父江弾正正成(信長家臣)姉川の戦いで打ち死とか出てきたり、開基した青木氏が領主織田三七郎に従わずとか?出ていてそちらも、興味深かった。
岡田有紀子さんのお墓は、たくさんの花がお供えされていました。

この事件が載っているフォーカス(懐かしい)があるのですが、その写真以上に衝撃的な写真だったのが、130年前の日本はこうだったで、さらし首の写真があったからで
その写真は、横浜、吉田橋でさらされた元谷田部藩士清水清次。
他、ヒュースケンの遺体写真、生麦事件の被害者リチャードソンなどが載っていた。
大河まっただなかの、タイムリーなものを思いだした。

メモ
信長ラーメン
清須市西田中蓮池110
名古屋一宮線(清洲城の東側の通り)キリンビールを、北へ行ったアンデルセンを右折。
数百メートル走って一つ目の信号を左折。
右側に見えます。
埋蔵文化財調査報告書30 三王山遺跡(第1〜5次)
1999年3月26日発行 編集 名古屋市見晴台考古資料館

現在千句塚公園になっている三王山の発掘調査報告書。
名古屋市史指摘の堀を考える

調査区北端から神社境内地にかけて五段にわたって人工的に造成した可能性が高まったとある。
この造成は、城郭における「切岸」遺構と同種のものと考えられる(千田嘉博氏のご教示)

緒畑神社の由来書(大正から昭和に書かれたもの)には桶狭間の戦いに際し、鳴海城とともに「三王山砦」が焼失したといたという内容で、信用するには躊躇するが、4次発掘で柱穴列は、由来の記述とは時期が異なるものの、各ピットが埋土に焼土を多く含んでいた事が関連していて気になると論考されてる。

まとめると、これらは信長の時代より前の時代のものであるようなのだが、丹下砦は古屋敷と記述があるのに、三ノ山は何も記されてないところを見ると、赤塚の戦いの際は何もなかったのでは、ないでしょうか?
赤塚合戦と現地巡検
H15年6月29日 会場 緒畑稲荷神社(名古屋市緑区三王山)
講師 木全秀視氏(瑞穂区郷土史跡研究会会長)

三ノ山について、桐野様ブログにて、私も不勉強なコメントをしてしまいました。
現地へ行った際、緑区図書館にて上記レジメを入手しました。
今なら、必ず参加したいのですが、残念ながら五年前。

これをふまえて、三の山と赤塚の位置関係を体感。
赤塚の北、西側はかなり高さがあり、眺望は最高。
東の赤塚側は、眺望が残念ながら利かない。
赤塚側から見ても、同じで利かない。
私見では、谷を隔てて対峙した様に思われる。

上記レジメの著者木全氏は、三王山の南からなら、眺望が開けている。
山口らは成海神社の西側の道を進撃しないと、三王山から見えない。
と、指摘されてる。そう意外に三王山は広かったですね。

そこで、狂乱と冷徹のカリスマを読み直してみる。
三王山への大胆な陣取りは、的を得ていると感じたと共に、こんな場所を山口側が確保していなかった事のほうが、間が抜けてたんではと感じた。そして、二時間で、退却する心積もりだったというのも、うなずける。レジメに明治の地図があり、住宅が密集してない、当時の地図を見ても、背後に桜中村城と戸部城が気になったでしょうし、桐野様指摘通りでは無いでしょうか。
気になったのが、上鑓と下鑓ですが、高所と低所とされてますが、私は素人考えで鑓の向いている方向かなと思ったのですが。確かに明治の地形図を見ると、三王山から一旦南へ下がって、
赤塚のほうへ向かう道が見られます。
この道を辿ったのであれば、低所から攻め上がった事になります。
三の山
私が初めて三の山を知ったのが、織田信長のすべてに掲載されてる、
信長合戦辞典の赤塚の合戦の項。
自分で調べる事もせず、そのままにしてましたが、桐野様連載の歴読誌にて、
興味が再燃し初めました。
かぎや様のブログで、ご指摘の砦であったとの事(名古屋市史)
それも含めて、自分の目で確認してきたいと思います。

合戦において、専門知識が無いので、ここに信長が来たのか、、、、
しみじみ、、、で終わるかも知れませんが(笑

数ある信長の合戦で、現場に行ってないのが、
この赤塚と雑賀なのだが。
赤塚。楽しみな場所である。
星芒
長沢 奏子著 砂子屋書房 2000年4月 発行

神戸同族会の会員、長沢さんの小説。
織田信長の三男、三七郎信孝とその女子について書かれた短編集。
その内容の出典は、系図纂要のようである。
信孝の娘が、信長の庶長子信正の子信衡に嫁ぐなどを描いた作品である。

この小説の後に、三七信孝の母について論考されてる。
長沢さんによると、信孝の家老であった岡本氏は熱田神宮の神官や、宮司ではなく、
代々御簾師であり、当主は儀助というもので、良勝は兄か弟であろうと思われると論考されてる。

樋口仁左衛門信胤
聞きなれない人物だと思いますが、信長の子である。
本能寺の変時、二歳なので生年は1581年生まれとなる。
十一男と言われる、信好より年下かどうか分からない。
信好は、秀吉の家臣となっていて、母も秀吉の庇護を受けたと思われるが、
樋口信胤は、母と共に越中に逃れたと言う。
幼名は、徳丸。母は樋口源兵衛長達の女 。
祖父長達は、成政に仕えるが、没落後、戦死。
母方の氏、樋口を名乗り仁左衛門と名乗る。

と言う事で、K2編、信長の男子系図。

村井重勝(織田信正)
織田信忠
北畠信雄
神戸信孝
津田信房
羽柴秀勝
織田信秀
織田信高
織田信吉
織田信貞
織田信好
織田長次
生駒直勝
五藤信親
樋口信胤

今後も増えるようであれば追加していきたい。
G.Wです
皆様、拙ブログにお出で頂きましてありがとうございます。
貴重な連休に本を読んだり、論文を読み直したリしてみては如何でしょうか?

さて管理人は、記事にしようと今論文二点を再読してますが、上手く書けません。
しかしながら、この二点ともお薦め論文です。

織田信長と絹衣相論 関連史料の整理と検討
堀新著 共立女子大学文芸学部紀要 第五十一集抜刷 2005年1月

拙ブログでは何回か取り上げた堀氏の論文。
この様な事にも、信長が関わっていた、意外な一面が分かる論文である。

信長への三職推任・贈官位の再検討
桐野作人著 歴史評論 歴史科学協議会編集 NO.665 2005年9月号

随分前に送って頂いた桐野様の論文。
橋本説への反論は衝撃でした。
この論文も、これだけで理解するのは難しく、先行論文等頭に入れて理解しないと
書けませんので、ご容赦を。

メモ 小嶋民部少輔全然進んでません。
永禄七年、織田信長、尾張を統一する
井口友治著 歴史研究 臨時増刊 在野史論第二集 新人物往来社

1、永禄二年統一説への疑問
と、題して岩倉城の破却をもって尾張を統一した色々な著作への疑問である。
桶狭間の戦いでも、兵数が統一していた割二少ない事に疑問を投げかけている。

2、犬山城の織田信清
著者はその家老であった、黒田城主和田新介と、お久地城主中嶋豊後守との
トライアングル。
つまり、その支配地を結んで見ると広大なものになる。
これは、公記にも記されているが桶狭間以降の尾張で信長が戦っている証左である。

3、永禄七年(1564)尾張統一
公記にある、犬山両おとな御忠節の事
は、信清が信長に従属したと考え、信長への謀反と解した。

まとめ
著者は、犬山攻めと同時に東美濃攻略にも触れ、永禄七年を尾張統一だけではなく、飛躍の年であったと結んでいる。

徳大寺 実久
信長の娘、月明院が没した後実久は後妻を迎えた。
井伊直政の息女で、家康の四男忠吉の妻だった女性で、
忠吉没後実家に戻っていた後の事のようである。

その婚姻時期は、分からないが一人女子を産む。
長じて和田飛騨守に嫁した。

実久は元和二年十一月二十六日、三十四歳で没した。
法名は晴雲院月峯秀松
墓所は十念寺(阿弥陀寺の南の寺である)

初めましてさんのコメントに答えたもので、その後を記しましたが、
この後妻へは、大変気を使う相手ではなかったと思われます。