泰巖宗安記
信長ファンの独り言。
茶々の生年
先日岐阜の講演を拝聴させて頂いた時に、この様な趣旨を質問された方がいた。

お市の方が嫁いだのは、淀殿の生年からいってもっと早いのではないか?
それを先生はご存知ですか?と。

あっさり「知りません」と答えられ笑いが起こった。
年をおっしゃて無かったので要領を得なかったが、茶々の生年については、井上安代さんの推定が的を得ているように考える。著書豊臣秀頼で発表された、その年は永禄十ニ年(1569年)である。
亨年を49歳ではなく、47歳を取られてる。
内容については、近著淀殿 福田千鶴著 P34をお読み頂きたい。

本能寺の変時、14歳。
信長は、政略の駒として考えなかったのでしょうか。
山口小弁
天正十年六月二日信長、信忠と共に討ち死にした前途有望なる若者が多くいた。
今回取り上げるのは、山口小弁。
公記では、二条御所で御討死にの衆にのみ名が見られる。

翁草には高遠城攻めにおいて、佐々清蔵と共に一番乗りを果たしたという。
また、京都の伏見出身で、賤敷ものの子なり、禿童に抱えられ、後に小姓と成る。
また小歌の上手とある。
そして当時十六歳という。しかし佐々と共に討ち死にの際、素肌にて死ぬのは恥ずかしいとして、
敵中へ突入して、敵を討ち、その屍から具足を取り、着してから切って出て討ち死にしたと言う。












と、ここで終わるのではなく、信雄分限帳に
山口小弁 の名が見え谷口先生の辞典にも子であろうか?と公記の誤りであろうかと述べられてる。
公記は大田の年老いてからの記述で、記憶違いや思い違いもあった様なので、もしかして逃げたのでしょうか?

宰相忠直公御給帳
六百石 山口小弁
と名乗りがあり、信雄改易後どの様な変遷か分からないが、越前へ招かれたようだ。
疑問は、なぜ小弁のまま?同名異人でしょうか?子でしょうか?
大沢某氏
雑記です。
暑いですね。
今日京都新聞に古い源氏物語の写本が見つかったとか。
秀吉が大沢某氏に与えたとか。題字は近衛信伊らしい。
で、誰ですかねこの大沢。
奈良の人らしいのですが、子孫が。
男に源氏物語って与えるものなんですかね。
尾張 織田一族 他
新人物往来社 谷口克広著 H20年
待望の新刊。気になるところを、飛ばし読みしたりして読み進めている。
信長の姉クラの億方に興味が湧いた際、信長以前の織田家を調べるのにうってつけだったのが、
名古屋市史であったが、谷口氏も参照されてるようだったが、いつも通り出典明示で分かり易く読み進められるものであるが、紙面の関係であると思うが、飛ばされているものもあった。
信清の兄弟に関しては、書いて頂きたかった。

それはさておき、丹波守の子、竹満丸が後に信雄の補佐役の津田掃部介一安と同一人物の可能性が高いの論考は、なるほどと思った。
津田が失脚後、後見に入ったのが丹波守の娘婿と思ってる安井将監なのだから、信長の人事もそれなりに理由があったようで興味深い。
信長の家系がどこから派生したかを、分かり易く出典明示で論考されていて、藤左衛門家との関係が良く分かる内容となっている。

安土城跡出土役瓦について 仲川靖著
安土城と徳富蘇峰 松下浩著
安土城郭調査研究所 紀要第13号 H20年3月

織田政権の支配の論理に関する一考察 神田千里著
東洋大学文学部紀要第55号 2002年3月

以上二点、読み進めてる論文。

池田六郎
絵本信長記の近江六角氏の援兵、尾張に至る
で、池田庄三郎が派遣され戦い後も、尾張に留まり信長の家臣となった。

信用し難いものとある。
しかしながら、妙心寺盛岳院過去帳の勝三郎の母、つまり信長乳母養徳院の母として
茂岳慶繁大姉 江州池田六郎何某室 逝年不詳十月六日 養徳院殿母公
とあり、池田は元々近江出身であった事を匂わせる記述となっている。

で、この法名何処かで見た事があると思っていたら、信秀の母の戒名に似ている。
含笑院茂嶽涼繁 大永七年六月二十四日
慶と涼が違うだけである。月日は違うが、、、

信秀の母、いぬゐは、織田良頼の女と思われる。この、良頼の父は、良縁は第二次六角攻めに従軍しているようであるが、この辺りに信長母六角氏説の由縁があるのでは無いでしょうか?
いつか話題にもあがって、私も疑問に思っていた、安土城内に六角定頼を祀る江雲寺御殿を造営したのも、自分のルーツは六角氏であったとの認識があったのではと、考えられないでしょうか?
まあ、証拠はないですが。
信長母は続く。
大和武士
蘭奢待指図の第三段
今回は信長の家臣ではなく、大和の武士を奈良県史から拾ってみた。
向かって左
柴田殿 信長家臣
松永殿 大和信貴山城主。
不明
越智殿 当時の当主は家増、高取城主。その家増も天正五年8月24日没。
矢部殿 信長家臣
村上殿 不明
箸尾殿 為綱カ。信長が上洛した際順慶と共に上京。しかし順慶の河内出陣の留守に額田出兵する動きを見せたとあり、筒井氏は密接な関係ではなかった。指出では越智氏より、石高は上。
筒井と左右に分かれてる席順は○だが、越智より下座は?

その背後
蒔田与五郎
伊藤
高木鑓兵衛
近間
筒井作右衛門 筒井の項及び筒井一族など見たが該当者不明。村井の間違いカ。
中根市之丞 信長家臣
中尾源太郎 信長家臣
伊藤甚介
古市殿
岡殿 多聞院天正9年8月27日条岡弥二郎旧冬生涯ノアキ也。の弥二郎カ。

こちら側は、柴田を筆頭にした信長に臣従してるものの、心から従がってる国人では無さそうである。
柴田が、多聞山城代を変わるのもこの辺りが絡んでるのかも知れない。
全体的に見て筒井周辺の人物が多い様に感じる。
そして、筆者が述べられてる様に根本的な問題として室町殿御座は、もしかして義尋の事ではと鑑みてみたが、、、
また、不明なものについては今後の課題としたい。

信長に鰹を贈った 美濃の武将
高木権右衛門
文書に見る戦国時代の武将たち展 9月28日まで
岐阜県歴史資料館企画展

明日19日から3日間、信長をはじめ秀吉、家康、政宗の書状の実物展示されるようです。

美濃源氏フォーラムH20年行事案内を頂きました。
気になるところでは、 美濃源氏歴史講座で、9月20日
講師 明智憲三郎氏 明智光秀子孫 演題「私の本能寺の変研究」
これは、東京六本木講座。

10月4日(土)岐阜城ハイキング
岐阜市博物館、信長居館安登、発掘現場説明、岐阜城

岐阜長良講座
8月10日(日)講師土山公仁氏 演題 織田秀信と岐阜落城
11月2日(日)講師横山住雄氏 演題 快川国師の生涯

などがあるようです。

昨日も資料を送って頂き、山積みになってマス。
7月16日
先に紹介した神田氏の本も読み進まないうちに、また資料を頂きパラパラと読んでます。
また今日、知らない論文数点送って頂き嬉しい悲鳴をあげてましたら、待ってました谷口先生の本が発売したとの事。
こちらも気になるところです。

京都は、祇園祭りで大変だそうですが、私はあまり被ってないので影響ないのですが、
この蒸し暑さ、何とかならないものでしょうか。

篤姫は、流石に一話見逃したら、繋がらなくなってきました。
いつのまにか、義母の本寿院が敵方?になっていた事が驚きでしたね。
まあ、あの高畑さんという女優さんの配役から読めてましたが。
そろそろ、和宮の登場ですね。
フジでは、そんな和宮あり?の安達祐美でしたが、どんな姫様キャラなのでしょうか?
楽しみですね。
そんな事はさておき、茶々のDVDがレンタル開始になったんですが、まだ見れてません。
見に行けなかったので、早く見たいのですが。
雑記です
何かと話題になる常用漢字改訂。
俺という字が話題だと言う。子供に教えて良いのかが、その論点だという。

本郷 2000年11月 時代劇を読む 吉宗の「おれ」 藤田覚著

によると、吉宗の話し言葉が伝わっているようだ。
例えば、内容は割愛させていただいて
「先刻のはおれがわるかった、其片が申す所、もっともなり、ゆるせ
「年は寄たれ共、この橋を踏み折るは、おれもまだ頼もしい」

筆者は、完全な話し言葉にはなっていないが、かなりそれに近い表現で書かれている。
もちろん、吉宗がそのように話したかどうかも確証はない。
しかし、自身のことを「おれは」とか「おれが」とか言うなど、吉宗の肉声が聞こえてくるような気がする
空耳か。と、述べられている。
俺、はそんなに言葉尻を取られる言葉なんですかね?

信長は自分の事を何て呼んでたんでしょうね?
本能寺の変時に、「余」と言う南蛮資料もありますが、俺も若い頃は似合ってるような気がするが。

追伸
私信です、アンディフグの墓は、大徳寺芳春院(前田家の菩提寺)のようですね。
山口甚助
マイナーな人物だが、気になる人物。
一般的には、家康の伊賀越えの際に宇治田原でその一行を歓待した事で有名。
また、宇治橋の架設の奉行としても名が上げられようか。
一次資料では言継卿記に武家足軽衆として
山口甚助、同子、同古田左介

甚介の名と、古田の前名に注目したい。甚助は秀景、左介は景安。
この景と言う字は、ヘンキではあるまいか?

それはさておき、同子であるがこれを、秀次の家老となった山口玄蕃だと思っていたが、違うと思われる 資料がある。遊行三十一祖京畿御修行記に、宇治へ行った際山口甚助が手引きした記述の後、彼子息小坂表で討ち死にした仙清雲宗の追善する臨時踊が有った事を記している。
これは、天正四年五月三日原田直政と共に討ち死にした中に甚助の子もいたとものと思われる。
公記にも二段は原田備中、大和・山城衆同心致しとある。
甚助が従軍したかどうかは、不詳。
寛政譜では、甚助の子として玄蕃の名が無いのは西軍に属した為でしょう。

甚介は元々宇治田原の領主では無く、擁州府誌には城州葛野郡下山田(京都市西京区)の領主とある。義昭の元をいつ放れたかは不明ながら、信長に仕えた際の所領替えと思われる。
京都誠心院に甚介と玄蕃の画像があったようだが、現在は無いと言う。
また、中村武生さんのブログでも記事になってましたが、あまり歴史に熱心では無いようで、山口一族の墓石が一ヶ所にされていて、石碑も建てていらっしゃるのだが、横向きに並べてある墓石があり、また隙間が小さくて、彫ってあるものが読めないんですよね。

向かって右から
1、花屋妙運禅定尼 元亀元年四月廿二日
2、読めない
3、秋伸宗○禅定門
4、山口玄蕃頭
5、山口玄蕃後室
6、不明
泣く子も黙るかずさ殿之衆
上賀茂のもり・やしろ・まつり 大山喬平監修 思文閣出版 2006年6月10日

これに面白い事が載っている。
天正年間徳政令を発した。その徳政令が上賀茂神社にどの様な影響を与えたかを、伝えてくれる覚え書きがある。岡本保望という氏人が惣中への貢献を書き上げたものである。

それによると、正伝寺ずいせん軒より頼まれた大津伝十郎が、債権の回収にやって来た時のエピソードである。伝十郎が伊予守ところへやって来たのを岡本が追い返えしたのがそれであるが、その時
保望は「亭主は留守で、女房衆ばかりで、子供も寝ていて、火も暗きところに押しかけるのはいかが」と啖呵を切った。そこで伝十郎は帰ってしまった。
大津の人柄を感じる事ができる。そして、この岡本が残してくれたのが題にある、その当時人々が信長をどの様に見ていたかを、伝えるモノとして興味深い一文である。


この時分ハ、皆々子供迄なき申候ニ、かずさ殿之衆と申候ヘハ、子供なきやみ申候ほと、こわかり申候
信長母 その一
塩尻巻之四十一

信長公天文三年甲牛五月廿七日生まれ 尾州生まれる
母ハ六角高頼女實政頼之女也

森家先代実録
名古屋因幡守の事
一 名古屋因幡守ハ、生国尾州、父ハ織田備後守信秀室の兄弟也、故ニ信長公モ浅井備前守長政室モ
因幡守ハ従弟也、後略

これによると、信秀室つまり信長母は、名古屋氏という解釈も成り立つ。

片原一色村誌(一宮市史)
上田氏傳
織田信長公ノ母公上田氏。名不詳。
生地 中島郡片原一色村。
生卒 不詳
事蹟 前略 上田氏ノ女、織田弾正忠信秀ニ勝幡ニ嫁シ、天文三年正月、信長公ヲ名古屋城ニ誕生ス

塩尻からの解釈でしょうか?詳細は不明。

勢州録
信長母御大母ト号シ、美濃国藪田小嶋日向守信房女也

管理人の一押し、小嶋女説。

寛政譜他
土田下総守政久女。

江戸時代織田家では、可児の土田氏との見解であったようだ。
しかしながら、お次秀勝と小吉秀勝を混同したり、小姫と佐々加賀室が別人であった事も分からなかったようだから、この系図自体信憑性が低いように感じる。


尺限廻番衆
雑記です
朝日新聞6月17日夕刊
本能寺「三コウ」やっぱり虚構?
愛好家が検証
1、1706年伝信録には記述なし
2、1762年名人碁伝算砂が本能寺を訪れた事のみ
3、1849年爛柯堂棋話になって突然三コウの話が出てくる。
信長公記にも記述のないのはおかしい、また伝信録にある算砂に出したとされる朱印状は偽書と指摘する香川氏に三鬼清一郎氏も疑わしいと、語る。

京都新聞7月4日夕刊
旧本能寺跡の発掘調査で琥珀製の掛け軸の軸端が出土した事が分かった。
当時をしのばす光沢を放ってる。焼けた痕跡はなかった。
吉川代表は「信長が集め、茶室を飾った名品の一つかもしれない」と話してる。

これは、先のシンポで記事にも取り上げたもの。
京都新聞も、小出しに出てきますね。一面のカラーで記事にしてるのはイイ。

先日岐阜での茶話で話題になった林亀之助。
話題の人物福島正則分限帳では千八百石
与力6人を持つ有力家臣のようですね。

中根家文書 上
岡崎市史料叢書 編集 中根家文書編集委員会 H14年3月発行

生没年不詳である、信長の弟中根信照
あまりいい逸話が残ってない不肖の弟。
上記文書に中根氏族譜と題して系図が載せられてる

それによると、中根信照は初信照和泉守 後越中守 後平右衛門
系図の名乗りは、忠實とある。
実織田備後守信秀十男で、家康が養父である正秋に子がない為嗣とするとある
慶長十五年十月十八日卒 六十五 法名観月院殿覚窓浄安居士
1610年没で逆算すると、1546年生まれとなり、有楽斎より一つ上で系図上は合っている。
この系図で注目すべきは、某 中根市之助が信照の子ではなく、養父正秋の弟として載っている。
天正十六(ママ)年六月二日二条城に於いて戦死、洛陽阿弥陀寺に石塔を建てる。

この年ならば、小姓として信長の側に侍っても可笑しくない年齢といえよう。
しかしながら、何故家康の家臣の子が信長の元へ出仕したか不明である。
正秋が三方ヶ原で討ち死にしたのが契機となったか。



米百俵
高畠家(お鍋の方)と縁戚清水太郎兵衛家文書

ご無沙汰を謝し、米百俵を送って貰ったお礼に、今は東征中で
近く上洛の節お出会いする
四月 信長(天下布武朱印)
野洲郡 清水小太郎

元首相小泉さんも、話してました米百俵。
これは、貰ったものですが、、、、
東大寺龍松院筒井寛秀氏所蔵「蘭奢待切取指図」をめぐって
金子拓著 2004〜2007年度科学研究費補助金・基盤研究(A)研究成果報告書 2008年3月24日

先に紹介した蘭奢待に関する、指図の研究書。題を出しても構わないとの事で再投稿。
執筆者は、注目している金子氏。

蘭奢待切り取りに関しては、先の歴読誌織田信長絵本でも触れられていたが、対立していたのではなく、事はすんなり進んでいたのが分かる。
ただ、東大寺は受諾したものの来春とたかをくくっていたものの、すぐに奈良へ下向するという事がわかり、東大寺側もこの風聞に仰天したとは、せっかちな信長らしくて面白い。

背後に侍る小姓衆について、再検討してみると、小姓のメンバーについては本能寺の変の討ち死の衆でしか、名を見受けられないものもいる。
中尾や、中根などは反対側で小姓ではなかったんでしょうか?はたまた、年齢による区分けだったんでしょうか?そういえば、矢部は堂々と前に席が設けられている。
これは、桑名の史料にあるように年配であった証なのだろうか。
小姓衆四人の○○丸、飯川文松、小川愛平とあるがこの○○丸を公記から拾う事はできない。
乱丸はまだ早いでしょうし、小倉松寿がもしかしたら松寿丸かも知れない。
また、中根市之丞は信長弟信照の子と言われてるが、小姓として信長の元へ侍っていたならば、信照は信長の直近の弟ではないかと年齢の逆算から推定できる。
これらの様に、色々考えさせられる面白い資料である。

この指図自体信長の座を室町殿とあるので、著者の言われるように、二次資料と云われるのも分かる。しかし、時代が下がるのならば何故この様なマイナーな人物を選んだのでしょうか?
まだ惟任の姓を名のっていなかった光秀が、惟任と名のっているならば小姓も有名な森乱丸が出てきてもいいだろうと、言いたくなる。

昔、日本テレビ系で追跡という番組があり(故青島幸雄、高見知佳司会)蘭奢待特集があった。
信長が切り取った破片を求めてで、愛知県一宮市真清田神社に残る関氏が信長から拝領したものが残ってる。しかし、箱だけで中身は残ってなかった(笑
しかし、某香道の家元(失念した)には残ってるようだ。
また、蘭奢待ほどの伽羅は原産地である?国でもなかなか取れないらしい。
信長の休み石
森蘭丸考 兼山町歴史研究同行会編 H4年5月より
天正十年武田攻めの際、金山城から久々利館に向かう際に信長が腰掛けた石があるよう

当時、可成寺が建っていた寺が峰から、およそ三十メートルほど北へ下がった尾根にこの時信長が腰掛けて休んだと伝えられる長さ凡そ三メートル余、天場の幅凡そ一メートル余の長方形の腰掛けるのに格好の石がある。
村人はこの石を「信長の休石」と名付けているばかりか、その辺りを休石洞と呼んで今日に伝えてる。

公記(角川文庫より)を見てみると
三月八日、信長公、岐阜より犬山迄御成り。九日金山御泊り。十日高野御陣取。

とあり、ここを通った可能性は高い。久々利では舞台跡の伝説も有り、武田攻めでは数多い伝説を残したといえる。
加藤弥三郎と岩室
宣教師の見た信長の岐阜
H20年7月5日(土) 講演者 高木洋氏
現在進行中である、岐阜での発掘調査が気になる講演。
拝聴にいったが、ボソボソ話されるので、すっかり半分以上寝てしまいました(笑
高木氏に関しては、岐阜市歴史博物館の館長でもあり、館の紀要17
ルイスフロイスの岐阜来訪 1569年7月12日付書簡(アルカラ版)全訳
を持っていたので、この紀要が骨子だったよう。
原文をパネルにて、誰かなどを説明されてましたが、岐阜の方は発言が積極的ですね。

さて、原文で何か重要な事をおっしゃってましたが、記憶がないので割愛させて頂いて(笑
スライドで発掘調査の写真を説明されてましたが、現在のではなく、昔のが多かった。
まだ、直近では新発見はなさそうである。
NHK 歴史番組
現在その時歴史が動いたと言う題であるが、その前はニッポンときめき歴史館とか、
堂々日本史とか、大昔なら歴史への招待等時代が変わっても名を変え、楽しませてくれる。
この番組、ゲストのコメントや、直近の学説等も取り上げる事もあり興味を覚えるが、実際にお目にかかれる事のない、資料や遺品が登場する事があり貴重なものである。
また、立花京子さんや竹本千鶴さんや名前は見た事があっても、動画では拝見できる事はないので
ああこんな感じの方かと、分かる事ができる。
さて、ある課題からマイビデオを見直して見た。
道三と信長(その時)
甲陽軍艦から、戦略は父信秀より道三を真似たというのを見て思いだした。
兵法を習った平田三位の寺(密巌寺)に、信長御台が寄進した鏡があった事を。
平田が、道三に影響されたか、元々美濃出身だったのだろうか。

本能寺の変(堂々日本史) 前編、後編
桶狭間、長篠の戦い、(その時)
等見直して見た課題は、みつからなかった。

戦国史研究 第55号
昨日購入した冊子。
何で欲しかったのか忘れていたが、見て思い出した。
尾崎晋司著 今川領国下の分限帳と給人検地
において、三河の小嶋源一郎という人物が出てくるのだが、この人物と、小嶋民部との関連が気に
なっていたが、この論文自体には、勿論ヒントはない。
しかし、民部の名と、この小嶋氏の共通点はある。
また、じっくり考えてみよう。だから小嶋民部からなかなか抜け出せない。

信長関連の論文では
永禄九年の畿内和平と信長の上洛 和泉国松浦氏の動向から 「史敏」4
というのが見受けられる。
神田氏の本など
雑記です。
昨日2回見れなかった大河を久しぶりに見ましたが、何とか分かる範囲でつながりました。
小松帯刀が、篤姫を慮る台詞を述べてましたが、分かる。
分かるよ、篤姫に自分を重ねて見ている視聴者(女性)の視点からみて、結婚していても
自分の事を見てて欲しい願望が、ここに花を咲かせたようだ。
しかし、小松ファンは面白くないでしょうね。
まだ、山口久光は再登場してないですね。待ちましょう、楽しみに。

やっと、神田千里氏の著作を購入しました。
最新刊は、複刊だったようで、昨年出されたものと迷いましたが、複刊のほうを買いました。
ポツポツ読み進むつもりです。

本能寺の変の前日に、対局したという本因坊算砂のいわゆる「サンコウ」に付いて、新説が出たもよう。
また、新聞記事手に入れて見てから、記事にする予定。

7月5日岐阜県立図書館で「宣教師の見た信長の岐阜」と題して岐阜市歴史博物館長が講演をされるもよう。要注目、発掘成果も、分かるようです。