三ノ丸殿考

三ノ丸殿考

服部英雄著、秀吉本によると柴田勝家の息子に嫁いでいたのは、後の三ノ丸殿であったと論考されていた。
フロイス日本史からの解釈らしいが、疑問である。
柴田の息子の件、この前の情報交換会でもとかく話題になるが不明という他ない。
三ノ丸殿の生年が不明ながら、母が信忠の乳母であること、及び嫁いで行った順番でいくなら、天正元年前後生まれが一番遅く考えられるが、やや早すぎるように感じる。
 
また、お市が信長生前に柴田に嫁いだという記録もあるという。
茶々が、これに当たるのではと思っていたが、現在では保留で。
高野山に柴田を供養したという記録があるのだが、没年月日が違うことを指摘してたが、高野山の供養記録はやや曖昧なところがあるので、勝家でも問題なさそうということで今は思っている。

問題意識として、天正十八年時点(鶴松誕生の前年)で三ノ丸殿も摩阿姫もまだ子供を産む年齢には達っしていなかったとみるべきで、確かに何十人側室が居て晩年子を成したのは、茶々だけだったのは確かであるが。
しかし、この時点では側室は果たして何人であったかは不明。茶々以外考えられるのは龍子ぐらいでしょうか。
これについては、小林千草先生の見解に大いに同意した。

それと、秀吉が織田の血に強い憧れを抱いていたというのは、よく聞くことですが、それで茶々を選んだというのは間違い。
それなら信長の娘を側室すればいいのであって、浅井長政の娘を選んだのは別の理由でしょう。
上記のとおり、三ノ丸殿の年齢はもう少し若くて、茶々が秀吉の元にあがる時に、年頃の娘はいなかった。

しかし、信長の娘で五徳(未亡人)という手もある。
長久手の戦い後、大坂に人質に入ったようだが、小姫の変わりに戻ったのか、また別の件で出たのかは不明。
 このあたりは、私の中でも纏めきれてないが、服部氏の見解は同意できない。
また秀吉没後、キリシタンになり、子を産み亡くなったのは摩阿姫であって、服部氏は知らなかったようですが。
 

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~ Comment ~

はじめまして。
いつも柱の影からこっそりと読ませて頂いています。

三の丸殿はとても興味がある女性です。
信長の娘で唯一秀吉の側室になり若くして亡くなられたせいか私の中では気の毒というか可哀相な女性という印象があります。

確か姉の夫である蒲生氏郷が養父だったと思うのですが、秀吉の側室にする為に養女にしたのなら氏郷はちゃっかりしてますね。

これからもブログを楽しみにしております。

No title

おりえ様
はじめまして。
いつも見て頂いているとのこと。恐縮です。

三の丸殿に興味があるとはうれしいです。
氏郷の養父説ですが、これも謎です。出典が分かりません。氏郷の妹で三条殿(とら)の後身が三の丸殿なら、すっきりするのですが。

またお出でください。
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