聚楽第南堀

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情報が遅く、現説は日曜で終わってまして(知っていたら行けたのですが・・)今日見に行きましたら、もう埋め戻してました。
 気になってました、寂光院と誓願寺について湯本先生の書かれた寺誌稿を確認してきまして、寂光院の建礼門院像の、淀殿がモデルだったというものは、ありませんでした。湯本先生は淀君と書かれていたのは、時代が反映したものか・・寂光院の書かれたものも、少なく裏は取れませんでしたが、秀頼の画像を所持されているようです。

誓願寺は、松の丸殿が寄進したものの詳細が知りたかったのですが、載ってませんでした。
結構大ざっぱなものでした。信長が寄進したものもあったようです。

寺院明細帳で妙心寺長興院と雑華院も確認したところ、金子さんの本どおり、明治の初めまで織田の三人の画像があったようです。いつか残りの二人の画像も世に出てきてほしいものです。
雑華院は八人の画像を所持とあって誰かは書いてません。三の丸殿、稲葉忠次郎、その夫人、牧村の二人とあと誰でしょうか?

光秀が落選したので・・・近畿歴覧記に光秀の前身について、延暦寺の僧説というのが載ってます。
現代でこそ、何故か信長と対比して述べられることが多いですが、江戸時代はそうでもなかったかもしれません。
 それは、あの本徳寺の明智光秀画像の、容貌が起因している気がしてなりません。
先日藤本先生の講演後、少しお話を伺うことができたのですが、藤本先生の武田信玄画像についての論考は有名ですが、あの高野山成慶院本は「信玄面だったから」というのが割と受け入れられたのではというのが、光秀像にも言えるのではないかという気がしないでもありません。
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