大河感想

大河感想

第一回八重の桜を見た。
ブログをはじめて五年くらい経ちますが、毎年色々な感想を、ブログなど見てまわってますが、何故か一回目の感想の評価が、毎年高いのは何故だろうか(笑
あれだけ前半の評判の高かった、風林火山も後半はぐだぐだでした。清盛は、はじめからケチを付かれましたし、江は七歳を上野樹里が演じて批判を浴びましたが、今回は一昨年の批判を鑑み、子役から始めたのでしょうか。
 段々、批判が上回っていくのが大河の感想のように感じますが、今回はどうでしょうか。

 会津といえば、二十年前ぐらいに年末時代劇で、白虎隊とどうしも比較してしまう。
 その時、兄さんは出ていたが、八重は出てませんでした。そんなに、著名ではなかったいうことでしょうか。
風間杜夫の、松平容保が印象的でしたが、今回風間さん出てまして、ややこしいですね(笑
 
今年の大河に関連して、八重さんの墓所に、某有名人の子の墓があると推測しているのですが、機会があれば掃苔してみたです。
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~ Comment ~

k2さま
お台場は、すでに完成してましたね(苦笑)。
初回の印象は、確かに続きを見てみたくなる内容でした。幸松丸の家訓も出てきたし。取り敢えず前言撤回です。そして、私も、堀内孝雄の歌を思い出していましたが(笑)、ネットで調べると、既にあの放送から30年近く経っていて、先年亡くなった田中好子さんが八重“子”役で出ていたようです。
越前関係については、いろいろ有りますが、夏の陣直後に、忠直が勝姫に宛てて送った書状の内容が判りました。昨秋福井市の歴博で、大坂の陣の越前勢vs真田勢に関する展示が有り、図録を取り寄せました。その中に「きせん宛忠直書状」が有ります。「福井市史」に現代語訳のみ載っていて、「きせん」なる女性に宛て、戦果の報告をし、勝姫の様子を尋ねる内容とされていたもので、図録でも「きせん」という女性に宛てたもの、とされています。しかし、図録で初めて原文を目にして、きせんは、勝姫付の女房で、その名を借りて、勝姫に対して書いたとしか読めないように感じ、福井市歴博の学芸員の方に問い合わせた所、実質的に勝姫宛と考えて間違いないとの回答を頂きました。
その内容ですが、「北ノ荘城の奥向きは何事も有りませんか、心配しています。上様(秀忠)が陣を解き次第、すぐに帰って手柄話を詳しく聞かせてあげましょう。」といったもので、この時期、忠直と勝姫の仲が、とても良好であった事が伺えるものです。
それと忠直の身長は、大坂の陣で実際に身に付けていたとされる甲冑から、170センチ前後と、家康・秀忠より十数センチ高かったようで、外見からも将軍家を脅かす雰囲気のある存在だったかも知れません。
他にも、佐々成政旧臣で、越前騒動で成敗された久世但馬の事や、この時対立した岡部自休は、大姥局と関係あるのか、といった事など、本当にいろいろ有るのですが、考えが纏まるには至っていないので、いずれお伝えします。結城秀康が、癖の有る家臣を集め過ぎた、というのは間違い無いようです。

訂正

k2さま
昨年にも年の数え間違いが有りましたが…。
「白虎隊」の放送年’86と今回の放送年の間27年と数えていましたが、前者大晦日、後者年始なので、実質25年でした。
今年の目標は、年を数え間違えない事にしようと思います(笑)。

武江様
白虎隊にも出てましたか。
まだ出てきてない、黒木メイサ役のほうは、印象に残っていたのですが。
堀内孝雄のは、名曲ですね。

越前の家臣については、山県の孫もいるようです。
少なからず興味はあります。是非またコメント待ってます。

笹治大膳

k2さま
山県正景の庶子である上村左兵衛の子、笹治大膳と、その兄山県内匠がいて、山県内匠の方は、大坂の陣の自分への賞恩が無い事に、忠直代に数度不服を申し立て(それでも“暴君”忠直に処分されていません)、忠昌代にも不足を言って御暇を出され、この兄の家は断絶したそうです。
他にも、依田信蕃の子の加藤宗月、本多 重次の子で「お仙泣かすな馬肥やせ」の仙千代こと本多成重、信康の介錯をした天方山城守などなど、多士済々、まとまりの悪そうな越前藩であったようです。

山口

武江様
熱いですね、山県。
また、家臣団も、大坂浪人衆とあまり変わらないかも知れませんね。
山口小弁で何かご存じでしたら、ご教示ください。

k2さま
秀康の代に御馬廻で800石の山口軍兵衛という人物が居ます。忠直給帳に載る山口姓は山口小弁(600石)の他に明らかに軍兵衛と関係有りそうな軍八(200石)の二人ですが、二人の石高を合わせて、軍兵衛の石高になるという事は、息子二人が相続したのではないか、という推測も成り立つとは思います。山口軍兵衛の出身地は上野となっていて、秀康の給帳に載る山口姓は、この人物だけです。
今のところ、手元にある史料から得られる情報は、これ位です。

武江様
ありがとうございます。
同名の別人でしたか、すっきりしました。
二条御所で、信忠に殉じていますが、信雄分限帳に名が見えるので、その後身かと思ってました。

おぉっとー!
一人見落としてました~!
秀康給帳、御番与衆に600石で尾張出身の山口小太郎という人物が居ます。小弁の600石は、こちらの相続かも知れません。小弁の名も小太郎から次いだという可能性もありますね。同名の別人があまり無さそうな名ですし。
折角すっきりしていたのに、申し訳有りません。とにかく秀康は、結城時代に軍資金に窮していた反動か、越前に移ってからは、大金はたいて名のある武将を集めまくっています。

k2さま
度々済みません。
過去の記事拝見しました。「翁草」の記載なのですね。伏見の出という事で。「翁草」には、忠直卿の乱行譚も記載が有ります。以前お伝えしたかも知れませんが、その内容は、江戸初期の仮名草紙「聚楽物語」の秀次の乱行譚の登場人物を入れ替えただけのもので、話を簡略化さえしています。「聚楽物語」は寛永刊行のみのようですので、その内容が、いつの間にか変容し、忠直の所業として京の人々に言い伝えられていたのを、神沢杜口がそのまま収録した可能性もあります。
山口小弁に関しても、京で聞いた話をそのまま収録したのではないかと思われ、伏見の出、というのは、あまり当てにならないかも知れません。
私が興味を持っている忠直家臣に、小山田多門がいます。忠直の乱行を唆した佞臣とされ、忠直卿配流と同時に、家族共々館林に配流の後、上杉の米沢藩に移された人物ですが、多門についても、秀康の代に見える小山田監物と同一人物とする話と、その子であるとする話の二通りあったりしますので、山口小太郎と山口小弁が同一人物、という可能性も否定できません。様々なパターンが考えられますので、真実は掴めないような気もしますが…。
因みに、小山田多門は、剣術・槍術などに長けた人物だったそうで、真天流なる流派の開祖とされ、この流派は、その息子により会津藩にも伝えられたという事です。

山口

武江様
度々ありがとうございます。
伏見出身も、分限帳にみえる小弁が同一人かも真実は掴めなさそうですね。伏見説も、多分違うのでしょうね。
 
忠直の家臣も、その様な視点でみるとなかなか面白いですね。
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