雍州府志 巻八
かつて霊陽院義昭公本国寺にありし時、織田信長公なきを瞰ひ、
三好の一族、大いにこれを囲む。信長公、急に洛に入る。
ここにおいて、三好軍退き、営中、恙無し。
その後、信長公、二条城を築き、相共にこれに移る。今、高倉二条の北を
天主町といふ。二条城、この処にありしか。
義昭の将軍御城を何故、二条城というのか。
これにはこれにヒントがある様に思った。
江戸時代でも、将軍御城が何処にあったか分からなかったようだ。
(信長公記に載っているのだが?)
そこで、天主町が二条にあるところから派生していったのではと推論して見た。
かつて霊陽院義昭公本国寺にありし時、織田信長公なきを瞰ひ、
三好の一族、大いにこれを囲む。信長公、急に洛に入る。
ここにおいて、三好軍退き、営中、恙無し。
その後、信長公、二条城を築き、相共にこれに移る。今、高倉二条の北を
天主町といふ。二条城、この処にありしか。
義昭の将軍御城を何故、二条城というのか。
これにはこれにヒントがある様に思った。
江戸時代でも、将軍御城が何処にあったか分からなかったようだ。
(信長公記に載っているのだが?)
そこで、天主町が二条にあるところから派生していったのではと推論して見た。
この記事へのコメント
k2さんどうも。
義昭の御城については、太田牛一の『信長(公)記』にも「二条の古き御構、堀をひろげさせられ」と記されており、かなり早い時点から一部にそうした認識がもたれていたことが窺われます。
御城が破却されて後、二条御新造を始めとし、聚楽第や二条城などの造営が繰返されるなかで、本来在った正確な位置が忘れられ、漠然と「二条城」と呼ばれるようになったのではないかと推察されます。
ただその一方で、『信長(公)記』を読めば義昭の御城と二条御新造が別の場所に造営されたものであることは分かる筈なのに、これまで多くの小説などで混同されてきたのは、やはり「二条」の名が冠せられてきたことによる影響なのでしょうね。
義昭の御城については、太田牛一の『信長(公)記』にも「二条の古き御構、堀をひろげさせられ」と記されており、かなり早い時点から一部にそうした認識がもたれていたことが窺われます。
御城が破却されて後、二条御新造を始めとし、聚楽第や二条城などの造営が繰返されるなかで、本来在った正確な位置が忘れられ、漠然と「二条城」と呼ばれるようになったのではないかと推察されます。
ただその一方で、『信長(公)記』を読めば義昭の御城と二条御新造が別の場所に造営されたものであることは分かる筈なのに、これまで多くの小説などで混同されてきたのは、やはり「二条」の名が冠せられてきたことによる影響なのでしょうね。
2007/10/15(月) 16:57:40 | URL | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
Tm殿
面白いことに、義昭の御城の北にも、近衛の屋敷があったようで、そのことも混同する遠因になったように感じます。
面白いことに、義昭の御城の北にも、近衛の屋敷があったようで、そのことも混同する遠因になったように感じます。
2007/10/15(月) 22:15:02 | URL | k2 #-[ 編集]

