信長廟

信長廟



安土城復元案様という、大変勉強になるブログにコメントさせて頂きました。
安土城伝二ノ丸にある、信長墓について自分の見解についてです。
 私は当初から、信長墓は現在のものではなく、木曽名所図会にあるように五輪塔だったと思ってます。
市橋の卵塔についても、大徳寺総見院の秀吉書状にある、御卵塔からの推測で、五輪塔ではなかったかと思っています。
 この形態になったのは、秋田さんの著書からの引用になりますが、天保年間だったと思っていました。しかし、一度白紙に戻してみて、現在の形を見た記録というのはないのかと、見てみたものの、そんなものは見当たりませんが、またそのことは述べてみたいと思います。

 この二重基壇上に、石(墓石?)を載せているスタイルは、名古屋総見院と同じものです。
名古屋総見院の現在はというと、二重基壇に、宝きょう印塔が載っています。(戦災で罹災したものは、横にある。)しかし、尾張名陽図会にみえる信長墓は五輪塔で、横に信長公五輪と付箋が貼ってあります。

名古屋とは同じとは思いませんが、この二重基壇、果たして天保年間のものかも怪しいのではないかと思い至ようになってきました。確かに、廻りにみられる石段や、石垣は信長回忌供養に作られたものには思いますが、何やら、近代になってからの気がしてなりません。しかし、これは素人の発想なので、ウラは取れてませんが。

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~ Comment ~

コメント、拝見させていただきました。
瑣末なことですがブログ「安土城復元案」内のブログ[摠見寺復元案]へのコメントですね。
「安土城復元案」さんには昔からお邪魔させていただいておりますが、k2さんのコメント見逃しておりました。
摠見寺についてはそれこそ門外漢なのでなにも申せません(謝

今回、千田さんの著書に指摘させていただいた「天主の次第」の問題点、天主の規模、柱数の謎については、以前、図付でコメントさせていただいたのですが、何故かその部分が過去のログからごっそり消えてしまっています(笑

牛一が建築に関してまったくの素人であったとは申せませんが、素人的な思考でそれらを検証すると見えてくるものがあるのですがね・・・・・
発想の転換でしょうか(笑

>摠見寺についてはそれこそ門外漢なのでなにも申せません(謝

信長廟(含め墓)問題ですね。
摠見寺についても同じですが。

k2さま
門外漢中の門外漢故、超基本的なつまらない質問をさせて頂きます。
以前お伝えしたように、何の因果か、安土山(あづちさん)、總見寺の図が掲載されている『木曽路名所図会』巻一の坤のみを所持しています。
その「安土山(あづちやまの)古城」の条には、「惣(ママ)見寺の山上にあり天守の後(跡?)(あと)に信長公の墳墓あり今に城中の石垣存せり」、「天守の址には惣(ママ)見院殿の古墳のみ建てり所々(しょしょ)に石壁礎石あり」などと説明があります。図を見ても「信長公墓」と記される五輪塔は、天守台のような場所の上に描かれていますが、これは、現在伝二ノ丸と呼ばれている場所なのでしょうか?
秋里籬島が編纂し、法橋中和が画を描いた名所図会は、当時の物が、今でも比較的安価に入手できる位に、世間に流布していた訳ですので、図に間違いが有れば、その指摘が残っていても良さそうなものだと思いますが…。
超初心者にもわかるようにご教示お願いいたします。

Tm様
コメントありがとうございます。
過去ログ見てみたかったです。
記録を無くされたか、自分の意見とは違うのでカットしたか?

そちらのほうは、分からないので、こちらで再度教えて頂ければ助かります。

武江様
木曽名所図会には、天守にあったとあり、近江国名所城跡記には本丸あったとあり、諸資料によって一致していないのが現状です。
 しかしながら、現在伝二ノ丸に現存するところと、廃城後百年後に作成された一番古い絵図である貞亨古図には、朱色で御廟とあるのをもって、はじめから、ここにあったと推測されています。
 それを、見直してみると疑問に思うことが多々でてきたということです。

また、あらためて書きたいと思いますが、信長を神と祀ったあるいは、盆山肯定派からみれば、江戸時代を通じて、信長墓が五輪塔であったのは具合が悪いのでしょう。

御礼

k2さま
初心者にも分かり易いです。有難う御座います。
名所図会の画の方は、どういう状況で描いたのか判りませんが、大まかな位置関係を描いておいて、清書する際に写し間違えたのかも知れませんね。
安土城も、いろいろ面白そうでヤバイです(笑)。
とりあえず、「信長の城」買ってみようかな…。

武江様
やっぱり写し間違いかも?と思われましたか。
そういう意見もあります。
 近江国名所城跡記には、本丸の跡といふところに総見院殿贈大相国一品泰巌大居士の石碑あり。とあり、現在のものではなく、五輪塔台座の刻印と類推できますので、写し間違いではないと思います。

墓所

 私も近代のものだと思います。江戸期だったらこんな形は作らないと思います。仰るように、五輪塔か宝篋印塔あたりでしょう。
 現在の形は恐らく神道祭祀が強くなっていく影響か、とも思われます。なにせ「建勲大神」ですから…。

あっ!もしかすると、書き方が拙くて正しく伝わらなかったかも知れませんが、写し間違いというのは、お墓の形では無く、お墓の建つ位置という事です。
あの画を現地を見る事無く描く事は出来ないと思いますし、目にしていれば、お墓の形は、描き写す際にも脳裏にあるはずで、間違う事は無いと思います。

南心様
コメントありがとうございます。
心強いかぎりです。うらを取るのは難しそうですが。

武江様
失礼しました。
現在と比較して、参道(城道)をみても、あってないところがみうけられますし。

「天主の次第」の考察

間が空いてしまってすいません。
まぁ結論から述べると、今回、千田さんが拘られた「天主の次第」のいう「石くらの上、広さ北南へ廿間、西東へ十七間」とは、一階の柱数の「弐百四本」から太田牛一が算出した<架空>の数値であろうということです。

そもそも『安土日記』には問題の一階(石くらの上)の広さも、二階、三階の柱数の柱数も記されておらず、一階の柱数とされる「弐百四本」も、本来は全体に係わる数値であるというのが故・宮上氏の見解であり、そのうえで二階、三階の柱数は「天主の次第」で牛一が付け加えた根拠のないものであるというのが氏の主張でした
しかしながら、敢えて建築としての「不合理さ」を排除せずに検証したとき、以下のような点が指摘できます。

図なしで説明するのは難しいのですが、まず「天主の次第」で一階の柱数とされる204本からは、柱列規模での※12×17が求められます。
そのうえで、部屋の内にも1間おきに柱が立つことになりますがそれを無視し、周囲に1間幅の入り側(縁)を取った※10×15を身舎とし、そこに広さの記されている各部屋(※北ノ方御土蔵を除く)を当てはめていくと、東西方向の柱列を12に南北方向の柱列を17とした場合、ほぼ記載の順番通りに全く過不足なく収めることができます。
しかも、『安土日記』の記述でそれを行った場合、四畳の余りが生じるのですが、「天主の次第」ではまさにその分の部屋が多く記載されています
そのことからは、「石くらの上、広さ北南へ廿間、西東へ十七間」の「廿間」は「十二間」の誤記であり、なおかつ柱列規模での「12×17」を柱間の規模として表記したものであって、また、「北(カラ)南へ、西(カラ)東へ」の表記も、本来は「北(ト)南ハ、西(ト)東ハ」の誤りであったのであろうことが想定されます。

次にそうした想定のもと、一階身舎の※10×15を二階外周の規模とすると、柱の数は150本になりますが、そこから上下階への通し柱(※本柱長さ八間)として身舎の四隅の柱を除くと146本となり、「天主の次第」の「百四十六本」に一致します。

問題は三階の柱数であり、二階身舎の規模を※8×13に想定し三階外周の規模とするとその柱の数は104本であり、通し柱の分を除いた数は100本で「天主の次第」の「九十三本」に一致しません。
しかし注目すべきは二階西側の縁が二段になっていたという点であり、そのことから二階の身舎は先の※8×13より東西方向で柱1列分小さかったであろうことが想定されます。
ただその場合の※7×13でも柱数は91本であり、通し柱の分を除くと87本でやはり一致しませんが、南北方向に柱1列分小さい※8×12で計算すると都合92本で1本差となり、極めて近い値が得られます。「三」は「二」の誤記だと考えられます。
先に一階での方向記載の誤りを指摘していましたが、そのことによる混乱が原因だと考えられます。

以上の点は、建築史の専門家からみれば常道を逸した考察であり賛同を得るのは難しいかも知れませんが、その分野の先人である土屋純一氏や古川重春氏の復元案ですら現在のレベルからすれば問題の多いものであり、ましてや牛一にそれを求めるべくもないというのが自分の考えです。
つまり、『安土日記』にはなく「天主の次第」で追加されている記載事項は、著者である牛一の復元考察に基ずくものであり誤りも多く、天主の復元考察においては余り意味をなさないものであろうというのが結論です。

大きすぎる平面規模の記載については、少なからず牛一は実在した安土城天主(の外観)を見ているハズだという反論もあるかも知れませんが、その後に建てられた巨大な天守群の存在に、亡君・信長のそれをことさら大きく喧伝しようという意識が牛一にあったのではないかとも思います。

訂正

すいません、訂正です。

「安土城復元案」の掲示板で過去のそれが見れました。
それにより、自身の記憶にも誤りがあり、訂正すべき点があります。
過去ログ [ 0001 ]でのNo.190になります。

まず、一階の入側の幅として想定したのは二間であり、したがって身屋の規模は 柱列で8×13になります。
先考ではそれを三階の外周規模とし、そこから身屋四隅の柱が三階外周まで立ち上がっていたものと考え、二階、三階の柱数を数えるうえで除外することとしました。
そのうえで、『安土日記』と「天主の次第」では前者にあった「御縁六てう敷」がなくなり、新たに「奥四てう敷」に差し替えられている理由を説明しました。
そのため、二階の規模は一階の12×17と三階の8×13の中間として10×15を想定しています。

また当時は三階の柱数について、8×12での計算を単純なミスとして考えておりましたが、後に先述のように、二階の二段広縁との関係を考えるようになっています。
したがって、投稿した図にも修正すべき点があります。

いずれにせよ、「天主の次第」は牛一がミスにミスを重ねた考察の産物であるというのが結論ですが、図らずも自分がそれをやってしまいました(笑

ttp://www1.asitaka.com/bbs/wforum.cgi?pastlog=0001&no=190&act=past&mode=allread#190

Tm様
過去ログ先に見つけてました(笑
全然ついていけないのですが、牛一がミスをしたという意見ですが、そこだけは慎重に考察する必要があるかと思います。
 けっして、否定するものではありませんので。

牛一の暗号

正直いうと自分でも「思い込み過ぎでは」と思っていたりもします(笑

>牛一がミスをしたという意見ですが、そこだけは慎重に考察する必要があるかと思います。

もしかしたら牛一もその不合理さを分かっていて、敢えて「廿間に十七間」としたのかも知れませんし、「ミス」も意図的なものであったのかも知れません。
一階については間取りまでほぼ完璧?に再現しておきながらその規模を誤るかという疑問がありますし、それ以前に、その様な試みは現代人のそれではないかという思いもあります。

さながら、『ダ・ヴィンチ・コード』か『信長の棺』かと。

しかしながら、「廿間に十七間」だと後の江戸城天守をも上回る規模であり、それぞれの柱数も相応しいのですが、記録されている部屋だけでは余剰空間が大きすぎるという問題もあり、やはり「天主の次第」のそれは信ずべきものではなく、天主本体はそれほど大きなものでなかったと思います。
ある意味、家康晩年の駿府城天守はそれを再現したものではないかとも思っています。淀城天守もありますし、そしてある意味、姫路城天守なんかも。
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