泰巖宗安記
信長ファンの独り言。
信長 本能寺 京の拠点?
京都新聞 夕刊 2007年10月20日
一面に取り上げたこの新聞記事、旧本能寺跡の第三弾とも言うべき今回の記事。七月に行われた調査で出てきた堀の延長に、小川通りを越えることがなかったとの見解が述べられ、境内の東北部、四分の一を正方形で囲んでいたのではないかと言う、見解を述べられている。
発掘調査をした、関西文化財調査会(上京区、吉川義彦代表)は、フロイスの記述、僧侶を追い出しての記述から、「僧侶のいない寺に本堂は必要ない。本堂を壊し、その資材を利用して占拠した可能性もある」と推測されているようだ、、、、
また、今谷明教授は、堀により、信長は境内に僧侶が立ち入れない空間を作ったのだろう。堀の復元で、信長にとっての本能寺が、軍事的というより、天皇や公家を迎える儀礼的な空間だった性格が明かになったと述べられてる、、、、

信長公記を読み返して見ると。
前略 透をあらせず、御殿へ乗入り、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。御厩より 後略

本庄惣右衛門覚書を見てみると
取った首を堂の下に投げ入れ、とか、殿舎に入ったが、蚊帳が吊ってあるだけだったと記してある。これも本堂のことでしょう。

本堂があったことは間違いないでしょう。また、公記すら見てない方が、発掘されているのでしょうか?と思いたくなる。
また天皇を本能寺に迎える、、、とは?あの狭い空間にと思うのですが。

数年前、この旧本能寺跡を案内した際、法華宗の寺院の特長、本庄惣右衛門覚書等から、寺の東北に信長が自刃した御殿があったとの話になり、その辺りで、話込み、中々皆さんがその場所から離れなかったことがあったが、場所はそれを裏付けることができて、納得したのですが、本堂がないとはどうかと。

コメント
この記事へのコメント
k2殿。

まぁ確かに狭いですね。本能寺自体が現在の二条城本丸くらいの規模でしょうか?
その1/4の面積となると更に狭く、信長の御殿は、現本丸御殿のうち常御所を除いた程度の規模になるかと思われますから、個々の建物の規模も小さく、天皇はもとより、大勢の公家たちを迎えるのも無理ではなかったのかとすら思われます。
ただ単に、信長の居間・寝所といった日常生活の場とみるのが妥当なのではないでしょうか。

したがって、本能寺の変前日、多くの公家たちとの対面が行われたのは、もとより在った本能寺の建物でのことではないでしょうかね。

もっとも、本能寺の堂坊構成が不明であり、天正8年の改築時には周囲の民家を立ち退かせたとされますから、本来、本能寺自体が小川通りの西側にあり、信長はそれを東に広げさせたのではないでしょうか。


2007/10/21(日) 04:51:09 | URL | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
Tm殿
コメントどうも。
地図を見る限り、二条城本丸と同じくらいか、少し小さいぐらいかと思いますが、現場へ行くとかなり小さいと感じます。

小川通りの西側にありとの指摘ですが、天文法華の乱で焼けた前の場所と同じ大きさのようですから、少し無理ではないかと。
東側の西洞院川沿いか、北側ではないでしょうか?
小川通りまでなら、狭すぎるように思いますが。

2007/10/21(日) 21:28:46 | URL | k2 #-[ 編集]
今回の発掘で色々な事がわかったんですね。
なおさらマンション建設が残念です。

船岡大祭ですが、雨が降ってるし生理で腰と腹が痛いわで1時間も立ちっぱなしは辛いと判断し、終わりがけにちょこっと顔を出しました。

帰りに宮司さんとお話させてもらったら、雨のせいで中止になった催し物もあったそうなので、船岡大祭へは晴れの日に行くに限りますね。

雨で靴も服もそこそこ濡れちゃったので、帰りに大徳寺にも寄らず今宮神社の織田稲荷とあぶり餅食べて帰りました。

今度は晴れの日に再度訪れたいと思います。

2007/10/24(水) 13:48:06 | URL | 雪姫 #Ixtcrl/M[ 編集]
雪姫様
それは大変でしたね。
同じ北区にいましたが、今日は大変だろうなあと思ってました。私も三年前に行った時も雨の中、敦盛見ました。
来年は晴れるといいですね。
2007/10/24(水) 22:25:42 | URL | k2 #-[ 編集]
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