安土城ー信長神が坐す神殿

安土城ー信長神が坐す神殿

権威を視覚化する戦略 大沼芳幸著
滋賀県立安土城考古博物館 紀要 第21号 H25年3月発行 を読んだ。

8 信長の信仰の指向性と薬師如来
「天王坊と申す寺へ御登山なされ、」とあるように津島神社の社僧の教育を受けて育った。
秋田氏の引用を、そのまま継承されている。
この天王坊は、那古野城下にあった寺であったことは、前から指摘してきた。
社僧というのは、どっちつかずの身分なのでしょうか。堯照法印も、法印であるから坊主だったと思うのですけど。

4 安土城に庭園がない
では、びっくりするような論が展開されていて驚く。
著者は、信長が神になろうとしたことを、肯定する論を展開されている。
それはルイスフロイスの記録。しかし、宣教師の記録には安土城には庭園があったとあるのに、これまでの発掘調査の結果、庭園は見つかっていないところから、舞台装置としての庭園は必要なかったと論じられている。
自説に都合のいいところだけ引用し、都合の悪いところはカットされている見本。
20年計画で行われた発掘調査でも、全体からいけば、ほんの一部に過ぎない。
登山道だけ登っていると、そう考えがちになるかもしれないが。

12 自然神の象徴としての「富士」
富士の根かた、かみのがはら、井出野にて御小姓衆、何れもみだりにおんうまをせめさせられ、御くるひなされの、この「狂う」を富士山を手に入れたことの驚喜の表現として捉えたい。と述べられている。
 これは驚いた。例えば、天正七年荒木村重が籠もる伊丹城包囲網戦の際、古池田で御狂ありと、あるがこれも驚喜の表現というのだろうか。村重に謀反された信長は、池田城で驚喜の表現をした。ということになり、かなりおかしい。

14 神殿としての安土城 その終焉
安土城の石垣の残存状況について述べられているが、肥前名護屋城にみられるように石垣の隅を落とす場合が多いが、安土城は天主台をはじめ隅は残っていると、述べられている。
しかし、名護屋城の隅は、上部のことを指すように思うのですが、どうなんでしょうか。
 隅とは、底部のことなんでしょうか。そうすると、名護屋城の主郭部は、ほとんど残っているように思えるのですが・・・

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