十二月十四日

十二月十四日



山中山城守の知識といえば、柴田勝家の墓塔を施主であったことと、中古日本~の著者ぐらいの知識しかなかったわけですが。
墓所も、東大路五条にあることすら、知りませんでした。
訪ねてみると、簡単に見つけました。無縫塔、坊さん用ですね。
画像のように、
松雲院殿前城州大守往林紹春居士
慶長十二年 十二月二十四日

西教寺のとは、日付も戒名も全く違いますね。
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~ Comment ~

No title

山中長俊ネタですので、こちらにコメントします。

西教寺の山中長俊室の墓は並んで右側でしたね。失礼しました。
山中長俊室の没年ですが、私が見たのは「戒光山西京律寺記」です。
こちらには「慶長三年正月二十日逝去」となっていました。
「慶長二年」没は何を見られましたか?

ところで、京都の東大路五条の方ですが、上記の「戒光山西京律寺記」にはちゃんと山中長俊は「洛東方広寺北慈芳禅院」と書かれているのです。
ですので、おそらく山中長俊は西教寺には葬られていないと思うのですが。

左側の墓は誰のものでしょうね。

No title

湖西堂様
コメントどうもです。
慶長二年は、先の湖西堂様のコメントです。
うち間違いですね。

左側の主ですけど、山中山城守が施主だと思われるのですが、読めませんでした。
まだ、東殿説にこだわってみたいのですが。

あと、青地ですけど多分一石墓塔だと思われるのですけど、あの広大な墓地で千基ぐらい未調査らしいので、根気強く探せばあるかもしれませんね。
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