荒木村重と謀反

荒木村重と謀反


地域研究 いたみ 第40号 
信長の人間としての度量の狭さばかりが際だつ。
こう著者が主張されるのは、信長が村重の一族郎党を虐殺しても、摂津の百姓が信長に対する戦いをやめなかったように、信長の残虐行為は危機管理能力のない失格領主であることを世間にアピールしたものであるという、神田千里氏の主張に反論されている。
 その反論として、
村重の長男村次の妻である光秀の娘を解放した。
右近の父親の飛騨守を右近が織田方に寝返っても助命したこと
黒田氏が小寺から離反し織田方に属した後も官兵衛を殺害せず幽閉したのみに留めた

一つめの光秀の娘を解放した時期を謀反を起こして早々に返したというのは、軍記ものにみれるものであって、一次史料にみれるものではない。立入隆左記は村重が尼崎へ移った後のこととしている。
 
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