淀殿ではなかった。

淀殿ではなかった。


江の放映時に話題になった、建礼門院木像が淀殿をモデルにしたかどうか。
寂光院の寺宝美術 H17年6月
によると、台座に慶長二年(1597)に総検校藤井伝一が検校座中に勧めて、大佛師治部卿法眼康理に頼んで旧像に似せて造ったとある。木像を納めてある葵紋厨子は、慶長八年(1603)徳川家康が寄贈したもの、貼り付けている四季を描いた絵はその時の九条家の北の方から贈られたものという。

つまり建久三年(1192)に贈納されたものが原型なので、残念ながら淀殿のよすがとなるものではなかった。
それにしても、焼失前の木像も掲載されていたが、容貌は違いすぎるような。



九条の北の方が、完子であるかは出典がないので不明。
気になっていた、秀頼画像は本堂にあったらしく、あの火災で焼失。
どのような容貌だったかは、見たことがなくこの本にもなかった。
スポンサーサイト
Guide
  •  …この記事と同じカテゴリの前後記事へのページナビ
  •  …この記事の前後に投稿された記事へのページナビ
 

~ Comment ~

寂光院はいろいろ気になりますが、いかんせん焼けてしまったのが残念でなりません…

九条家の北の方は完子が嫁ぐ前年なので兼孝室でしょうか。

例の豊臣の女性をモデルにしたという話はどこからでたものだったのでしょうね?

NoTitle

紀伊様
やっと見つけたのですが、ご期待にそえる内容でなくてすみません。
九条家の北の方ですが、微妙ですよね。
よく分かりません。

あと秀吉の衣類布というのがあり、阿波内侍像の戸帳に用いられたものが淀君の寄付だそうです。
  ※コメントの編集用
  シークレットコメントにする (管理者のみ表示)

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

MENU anime_down3.gif

同じカテゴリの記事が一覧表示されます
同じタグの記事が一覧表示されます
更新月別の記事が一覧表示されます
キーワードで記事を検索