小嶋殿から、宇治の話題がでましたので、室町時代の終焉地宇治を話題にして見たい。
元亀四年七月十六日二度目の挙兵に及んだ足利義昭は、宇治槇島城に篭もった。信長は、上記タイトル柳山に本陣を置いた。
信長公記に、五ヶ庄の上柳山とあるので、かみやなぎか、うえやなぎと読まれた方もあるかも知れないが、柳山が正しい。
何故、上という字を太田が入れたのかを考えると、山の上だから上と入れたのかと思っていたが、この柳山にあった許波多神社に本陣を置いたように思う。というのも、現在隠元橋付近に遷座する、この許波多神社を下、柳山を上の社としたのではと、考えたのであるがいかがでしょうか?
兼見でしたか、岡谷に陣したとあるのは、下の社ではなかったのではあるまいか。信長勢は、二手に分かれて分宿したのであろう。
さて、信長はどこに泊まったのであろうか?これにはヒントが、先に紹介した谷口研語著の流浪の戦国貴族 近衛前久にある。
つまり近衛の別邸は、ここ柳山にあったのである。
現在、萬福寺が鎮座するが、信長の時代は無いので、この別邸がどの様な規模か分からないが、境内に中和門院産湯の井戸伝説があるので、ここに間違いなさそうに思う。といっても、前子は二年後の誕生であるが。
さて、信長軍は二手に分かれて宇治川を渡るのであるが、現在と元亀の頃とでは様子が全く違うであろうが、隠元橋付近は、渡しという地名が残っているので、急な宇治川の中でも緩やかなほうではなかったと思う。また、川上に美濃勢が渡ると、流れも少しは緩やかになるであろう。
この時の信長軍団における美濃勢の役割が興味深い。
柳山は現在、神社はなく、体育館と病院と墓地になっていて、墓地からの眺望は素晴らしい。
槇島城跡との位置関係を見たい方は、近くの大型スーパー屋上からの見学を大きな声では言えないが、お薦めする。
元亀四年七月十六日二度目の挙兵に及んだ足利義昭は、宇治槇島城に篭もった。信長は、上記タイトル柳山に本陣を置いた。
信長公記に、五ヶ庄の上柳山とあるので、かみやなぎか、うえやなぎと読まれた方もあるかも知れないが、柳山が正しい。
何故、上という字を太田が入れたのかを考えると、山の上だから上と入れたのかと思っていたが、この柳山にあった許波多神社に本陣を置いたように思う。というのも、現在隠元橋付近に遷座する、この許波多神社を下、柳山を上の社としたのではと、考えたのであるがいかがでしょうか?
兼見でしたか、岡谷に陣したとあるのは、下の社ではなかったのではあるまいか。信長勢は、二手に分かれて分宿したのであろう。
さて、信長はどこに泊まったのであろうか?これにはヒントが、先に紹介した谷口研語著の流浪の戦国貴族 近衛前久にある。
つまり近衛の別邸は、ここ柳山にあったのである。
現在、萬福寺が鎮座するが、信長の時代は無いので、この別邸がどの様な規模か分からないが、境内に中和門院産湯の井戸伝説があるので、ここに間違いなさそうに思う。といっても、前子は二年後の誕生であるが。
さて、信長軍は二手に分かれて宇治川を渡るのであるが、現在と元亀の頃とでは様子が全く違うであろうが、隠元橋付近は、渡しという地名が残っているので、急な宇治川の中でも緩やかなほうではなかったと思う。また、川上に美濃勢が渡ると、流れも少しは緩やかになるであろう。
この時の信長軍団における美濃勢の役割が興味深い。
柳山は現在、神社はなく、体育館と病院と墓地になっていて、墓地からの眺望は素晴らしい。
槇島城跡との位置関係を見たい方は、近くの大型スーパー屋上からの見学を大きな声では言えないが、お薦めする。

