阿弥陀寺

阿弥陀寺

雍州府志 巻四
阿弥陀寺
浄土宗にして、開山、生誉清玉と号す。織田信長公生害の時、本能寺焼け終てて後、
清玉、その場に赴き、骨灰を聚む。この寺に葬る。灰中、信長公の常に著るところの衣服の余燼あり。これをもって徴とし、別に葬埋し奉る。堂に、信長公ならびに信忠公の彫像及び戦死百二十人の連牌あり。

柳本織田家記録の阿弥陀寺の項に、
御肌ニ被召候御帷子 血付有之候
とあり、寺宝だったことが分かるが、延宝元年十一月廿五日の大火で焼けてしまったという。
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~ Comment ~

信長の墓

あーそういう事だったのですね。

襲撃の最中に本能寺に入り込み信長の遺骸を発見し、その場で火葬のうえ遺骨を持ち帰るなんてことは非常に疑わしい事だと思っていたのですが、一方で山科言経が、「変」から1ヶ月後の7月11日に阿弥陀寺の信長の墓に参り、以降も度々参っている史実に当惑していたのですが、ご紹介の史料により解消しました。

津本氏の本でも指摘されていますが、延宝元年のの大火の後、新たに上記のような寺伝(享保16年)が創作されたのでしょうね。

初耳ですが、これまで信長研究者で何方、指摘されていたでしょうか?
k2殿、御手柄かも知れませんよ。

Tm殿
いえいえ、指摘されてないのは専門家の方は、阿弥陀寺の記録は、一次史料ではないから問題外だったのでしょう。

どうなんですかね、難しいですね。全焼していて、焦衣が残ったというのも疑問ですしね、色々憶測できますが。

もしもし亀よ、

今更ながらにだいぶ時間が経ってしまいましたが、「柳本織田家記録」の記事は「信長公阿弥陀寺由緒之記録」を転載したもののようですね。
直ぐ近くの図書館に『改定史籍集覧』が有ったのに確認を怠っていました。

「信長公」には有名な例の一説とは別に、清玉が光秀に陣中見舞い?を贈り、そのうえで戦死者の供養を願い出た旨が記されており、『雍州府志』の記述を合わせ考えるに、やはり清玉が本能寺に立ち入ったのは襲撃後のことであり、あるいはその時に利三が発見したという「焦衣」を入手(手渡された)のではないでしょうかね。

Tm殿
清玉が光秀に陣中見舞いをしたと言うのは、浄華院辺り、現京都御所東側に当たり、粟田口で兼見と会っていたのなら、そのまま大津へ行ったと思われ、この陣中見舞い話は疑わしく思ってます。
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