信長の焦衣

信長の焦衣

増補信長記廿ニ之三(内閣文庫)
前略
光秀信長公ノ屍ヲ索ルニ曽テ是ヲ得ス故ニ甚タ心ヲ安フセス斎藤内蔵助信長公ノ絹ノ焦レタルヲ索ノ出シテ光秀ニ示ス光秀猶怪ム

中古日本治乱記
前略
光秀下知シテ信長ノ屍ヲ尋レドモ得ザリシカバ光秀甚不楽此ノ時斎内蔵助瓜紋付タル衣装ノ焦残タル求出テ光秀ニ見セテ信長ノ御生害無疑 ト申セトモ光秀猶怪しむ

野史
前略
信長屍骸索得不。光秀快快。利三焦残衣得以光秀視。

信長が着ていたであろう、衣。
得たのは、清玉上人か?はたまた斎藤内蔵助か?
真意は分からないが、早くからそのような伝説があったことは間違いなさそうである。

追記
増補信長記に信長自刃した後、(見届けてか?)諸士(小姓、馬廻りか?)光秀カ不義不忠ヲ飽マテ、吐テ速ニ戦死ス
とあり、著名な信長公記には記されてない記述があり興味深い。
ドラマにもないが、信長の側近達は、光秀に対し恨み辛みを言いながら切り込んだと思われ、涙を誘う。゙
スポンサーサイト
Guide
  •  …この記事と同じカテゴリの前後記事へのページナビ
  •  …この記事の前後に投稿された記事へのページナビ
         
阿弥陀寺  ←阿弥陀寺 【2007年12月】の更新記事一覧 →清玉上人  清玉上人
 

~ Comment ~

不勉強ながら『中古日本治乱記』については存じておりませんでした。なんでも同書は、秀吉の祐筆であった山中長俊の手になる史書とのことであり、一度は読んでみなくてはならないですね。
k2殿は読まれているのでしょうか?

Tm殿
中古~は、その部分だけしか知りません(笑
焦衣の件が話題になった時に、頂いたものです。


『中古日本治乱記』

本日、国立公文書館にて『中古日本治乱記』を閲覧してきましたが、どうも不思議な史料のようです。

というのも、従来、他の史料のエピソードとして紹介されているものが多々見受けられ、その著者および成立時期について、一考あるべきではないかと思われるからです。

既存史料を整理し、改めて調査してみたいと思います。

Tm殿
そうですか、またご報告お待ちしております。

「信長の焦衣」問題

「利三と信長の焦衣」の件よくよく調べてみるに、ご紹介の史料の他にも、例えば『将軍記』のうちの「織田信長記」などにも見られ、内容を精査するに、どうやらその中では『増補信長記』の記述がより原典に近いのではないかと思われます。
『増補』の記術を省略引用したのが『将軍』だすれば、『中古』はそれに利三絡みの逸話を補足追加それもかなり細かに、といった具合です。
いわゆる俗書とされる後代の文献に見られる逸話の出処も、どうやらその『増補』にあるものと思われます。

その『増補』の著者・松平忠房は、あの『家忠日記』の家忠(深溝松平家)の孫にあたり、多くの書物を収集した人物(島原松平文庫の礎)であり、林鵞峰にも師事していたとのことですから、話の大元はその辺りにあるのかも知れません。

その上で、『増補』や『将軍』の成立はそれぞれ寛文2年(1662)、同4年(-64)なのですが、『中古』に見られる『元親記』[※寛永8年(1631)成立]の逸話は収録されておらず、そのことからも『中古』の成立がそれ以降であることが窺えます。

一方、「清玉と信長の焦衣」を伝える『雍州府志』は貞享3年(1686)の刊行であり、『増補』や『将軍』の成立よりも20年ほど下ります。
『増補』や『将軍』にも清玉が戦死者の供養を行なったとの記述が見られ、変の直後、阿弥陀寺に信長の墓が建てられていたのは確かですが、肝心の「焦衣」は延宝元年(1673)の大火で失われたとされ、おそらく『雍州』の著者の黒川道祐も実見しておらず寺伝をそのまま記したものと考えられます。

そこで問題は、後に阿弥陀寺では新たに『信長公阿弥陀寺由緒之記録』[享保16年(1731)]という新しい寺伝を創作していることで、「焦衣」が失われてから60年ほども経ち人々の記憶からも忘れ去られたが故にとも言えそうですが、火災等で家宝などが失われた場合に代品(模造品)が仕立てられることも往々にしてある訳で、阿弥陀寺ではそうした手立てが採られなかったのかのでしょうか。

「柳本織田家記録」との兼ね合いは不明ですが、あるいは『増補』や『将軍』の記述を契機に、一時そのような喧伝がなされたという可能性もあるのではないでしょうかね。

Tm殿
信長の焦衣の件、Tm殿の探求心には頭の下がる思いです。中古~のことも納得することしきりです。

阿弥陀寺の清玉の事ですが、現在は浄土宗ですが当時は時宗だったらしく戦死者の供養をするのは云々という論文か小論があったように思うのですが、分かりません(笑

火災から百年後の事ですが、例えば位牌は塔頭にとか、木像は当時方丈仏殿に安置等、再建さえ出来かね候事故、とあるので阿弥陀寺由緒之記録は、再建されたのを契機に作成されたものでは?と思ってます。

柳本織田家記録は、藩士佐和彦太夫が採訪し、天明二年に清書したものだそうで、ママ阿弥陀寺の記録を写しただけで脚色はされていないように思います。

k2殿どうも。

『柳本』の成立は天明2年(1782)ですか。
そうなると、本当に「信長の焦衣」なるものがあったかは不明と言うしかないですね。
ただむしろ史料の成り立ちから言えば、「利三と信長の焦衣」こそ阿弥陀寺の「信長の焦衣」から創作されたのかも知れませんね。

一方『中古』ですが、ほぼ先行史書からの引き写しであることが判明した?ものの、なお興味深い記述があります。
「恵林寺焼き討ち」について言えば、他にないほど細かに記述されており、また齋藤利三の子供らについてもしかり。海北友松の役割も通説とは異なることが記されています。

それらに何か成立の鍵を握るものがあるのかも知れません。

Tm殿
焦衣は、不明というかロマンですかね(笑
また、新しい事が分かりましたらコメント下さい。


以前、松平忠房は林鵞峰にも師事していたことから、本能寺の変に関する一連の記述の出典は林家にあるのでは書きましたが、谷口克広氏の『検証本能寺の変』を読み直してみたところ、鵞峰の著書『本朝通鑑・続編』にそれらしきことがある旨、書かれていました。

ただし、『本朝』の成立は寛文10年(1670)であるのに対し、忠房の『増補信長記』はそれよりも前の同2年であり、鵞峰が家綱よりその修史を命じられた年に当たりますから、忠房が知識を得たのは羅山の『本朝編年録』正保元年(1644)成立であったかも知れません。

以前k2殿が羅山と本能寺の変の因縁を述べられていましたが、『編年禄』は家光の命による修史事業とのことですから、春日局とも何らかの関わりがあったのではないでしょうか。「利三と信長の焦衣」もその辺から生まれたたのかも知れません。

で、その羅山が編纂に携わった『寛永諸家系図伝』の奉行を務めたのが太田資宗なのですが、その孫に太田資方なる人物がいるのは『中古』とは無関係でしょうかね。
彼こそが「太田和泉守資方」なのではないでしょうか。


ところで「柳本織田家記録」の出物があるようですが、購入すべきでしょうか。
一寸高いのですが、今なら手元に多少の余裕もあるので。

Tm殿
焦衣に関しての、御探求流石ですね。
なるほど時系列で書いて頂いたので分かりやすいですね。
太田資方なる同一人物がいるのですね。
それは、もう少し調べれないといけませんね。

柳本ですが、私は必要部分のみコピーしています。
奈良県立図書館でしました。大部分は、江戸期のものだったような気がします。

k2殿どうも。

太田資方については真っ先に検索し知っていたのですが、その時は別段注目していませんでした。彼は太田道灌の子孫を称する家系であり、牛一(=和泉守)とは無関係だからです。

ただこうして「焦衣」を巡る記事の根源を手繰っていくなかで接点らしきものが見えてきたことで、改めて太田資方についてもう少し調べねばと考えています。

「太田和泉守」に敢て「資方」の諱を記すことで、『中古』の著者が自分であることを暗示したと考えるのは穿ちすぎでしょうかね。


『柳本』は国会図書館には無いようなのですが、都立図書館にはあるようなので、一度閲覧してみてからが良いですね。
でもその頃には売れてしまっているかも知れませんが。

自分の買い物は、結構そのパターンが多いもので(笑

私には買えませんが.....

K2様 Tm様

御無沙汰致しております。年末から年始にかけてパソコンが使えませんでした。

いつもながら、お二人の探求心には、頭が下がります。

「本能寺の変」には、稲葉が逃げたり、利三が絡んだりで、小嶋日向守としては、大橋家所蔵の河野系図にあった縁戚関係を思い出し、楽しいひとときを過ごさせて頂きました。

遅ればせながら、本年もよろしくお願い致します。

小嶋殿
少し遅いですが、おめでとうございます。

こちらこそ今年も、よろしくお願いします。

Tm殿
中古~ですが、聞いたところによると、膨大な資料だそうですね。山中も怪しく、太田を騙る者のようですね。
また、資方について教えて下さい。

太田資方(=資房)

k2殿どうも。
先日、改めて国会図書館で関連史料を閲覧してきました。

先に羅山の『本朝編年録』正保元年(1644)を挙げましたが、同書は宇多天皇(887-97年在位)の代までであり、「利三と信長の焦衣」については、それに先立つ『織田信長譜』(寛永18年・1641)が初出のようです。
それでも利三が先が清玉が先かは分かりませんが、敢て羅山がそのような話を創作したとは考えられませんから、当時、既にそのような逸話があり、一方「清玉と信長の焦衣」については触れられていないので、阿弥陀寺でも特に喧伝するようなことはなかったと思われます。

その阿弥陀寺の寺伝が『雍州府志』に紹介されたのは貞享3年(1686)のことであり、しかも問題の「焦衣」は延宝元年(1673)の大火で失われたとされており、後には『信長公阿弥陀寺由緒之記録』(享保16年・1731)という新しい寺伝が創作されていることからも、時系列的に疑問のもたれるところです。
やはり、清玉が信長の骨灰を見定めためた根拠は別にあったのではないでしょうかね。

で肝心の太田資方ですが、『寛政重修諸家譜』に「初名 資房」なる記述がみられることが分かりました。詳しくは桐野さんのブログに書きました(と言ってもまだまだ問題は残ります)が、やはり『中古』の著者としてその資方が候補に挙げられるのではないかと推察されます。


ところで『柳本』は情報が古く、既に売れていました。
決して安くない値段であったので良かったかも知れません(笑

Tm殿
阿弥陀寺の残ってる寺宝ですが、専門家ではないので、断言出来るものではないですが、概ね信頼できるのではと思っております。
それと同じ記述にあるので、真贋は別にして、本当にあったことは間違いないと思いますが、観光寺でもなかったと思いますので、江戸時代初めに有名になることはなかったんでしょうかね。

k2殿どうも。

あるいは、利三が発見し、それが戦死者の供養に訪れた清玉の手に渡ったのかも知れませんね。
その場合でも、「焦衣」が本物であったかどうかは分かりませんが。

秀吉が大徳寺で信長の葬儀を盛大に行ないそれを喧伝(※『惟任退治(謀叛)記』=『総見院殿追善記』)したことで、阿弥陀寺が「焦衣」について語ることを憚り(禁じられた?)、利三のことのみがが巷間に伝わったのかも知れません。
  ※コメントの編集用
  シークレットコメントにする (管理者のみ表示)

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

MENU anime_down3.gif

同じカテゴリの記事が一覧表示されます
同じタグの記事が一覧表示されます
更新月別の記事が一覧表示されます
キーワードで記事を検索