清玉上人

清玉上人

寺伝では、(京都寺誌稿、金森氏雑考)其母尾張鳴海の路上に分娩せんとして困しむ、時に同地に陣する信秀の庶子信広之を憐れみ、医に命じ、服薬せしめるが、効なく死す。その時生まれたのが、清玉上人という。
この日を天文十一年八月十日としている。ということは、信長より八才下となる。
しかし、清玉は、八十四?か五ぐらいで、亡くなったと言われてるので、この年代とは合わない。
しかしながら、信広の木像がある事から、何らかの縁があったのではと思われる。

変時、八十を越える清玉が、本能寺に駈け付けたのは、全てが終わってからと解釈したほうが、自然ではないでしょうか。
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