本能寺と信長 藤井学著
先日の天下統一、信長・秀吉・家康で本能寺の堀が見つかり、信長が城郭風に改築したと、VTRで、K・K氏が述べられていたが、堀は信長が掘らせたのでしょうか?
上記本を読み返すと、元々この地を買い上げた本能寺は、数年前天文法華の乱で、焼き討ちされた場所と違う、西洞院四条坊門つまり本能寺の変の舞台となった場所を、沢村某氏から買うことになる。
また応仁の乱の際、周防の大内政弘の軍勢がこの土地に城郭を構えたことがあり、また、浦上則宗がこの城郭を拠点としたことがるそうだ。
つまり本能寺は、自衛の為に城郭であったこの土地を買った。
そして、その城郭風であった本能寺に目を付けたのが信長であった。
手直しをしたかも知れないが、元々堀はあったものと見て良いのではないでしょうか。
先日の天下統一、信長・秀吉・家康で本能寺の堀が見つかり、信長が城郭風に改築したと、VTRで、K・K氏が述べられていたが、堀は信長が掘らせたのでしょうか?
上記本を読み返すと、元々この地を買い上げた本能寺は、数年前天文法華の乱で、焼き討ちされた場所と違う、西洞院四条坊門つまり本能寺の変の舞台となった場所を、沢村某氏から買うことになる。
また応仁の乱の際、周防の大内政弘の軍勢がこの土地に城郭を構えたことがあり、また、浦上則宗がこの城郭を拠点としたことがるそうだ。
つまり本能寺は、自衛の為に城郭であったこの土地を買った。
そして、その城郭風であった本能寺に目を付けたのが信長であった。
手直しをしたかも知れないが、元々堀はあったものと見て良いのではないでしょうか。
この記事へのコメント
堀といえば、この夏の発掘調査により、信長の御殿の周りに堀が廻らされていたことが判明していたハズですよね。
藤井氏の考証はそれ以前になされたものではなかったかと思われますが、番組サイドではそれを知らなかったのでしょうかね。
もしかしたら本能寺本の出版が相続くなかで、たまたま発掘可能な土地があることを知り、「やれ行け」で企画され、結果あのような陳腐な番組が出来上がったのでしょうか。
発掘結果はそれなりに意義はあったとおもわれますが、通説を覆すようなものではなかったと思われます。
藤井氏の考証はそれ以前になされたものではなかったかと思われますが、番組サイドではそれを知らなかったのでしょうかね。
もしかしたら本能寺本の出版が相続くなかで、たまたま発掘可能な土地があることを知り、「やれ行け」で企画され、結果あのような陳腐な番組が出来上がったのでしょうか。
発掘結果はそれなりに意義はあったとおもわれますが、通説を覆すようなものではなかったと思われます。
2008/01/08(火) 16:06:51 | URL | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
Tm殿
藤井氏の考証は、現在一番良く出来てるもののように感じますが、良く分かりません。
発掘場所ですが、ビデオを見直して頂いたら、分かりやすいと思いますが、あの場所から西洞院通りが、広くなります。あれは、西洞院川が埋められた跡だと思っていたので、あの場所は、南北の堀だと思ったのですが、東西なので以外でした。
南端と云うのは、旧本能寺小の発掘調査で、通りの跡が出てるので、概ね分かってたことですが。
藤井氏の考証は、現在一番良く出来てるもののように感じますが、良く分かりません。
発掘場所ですが、ビデオを見直して頂いたら、分かりやすいと思いますが、あの場所から西洞院通りが、広くなります。あれは、西洞院川が埋められた跡だと思っていたので、あの場所は、南北の堀だと思ったのですが、東西なので以外でした。
南端と云うのは、旧本能寺小の発掘調査で、通りの跡が出てるので、概ね分かってたことですが。
2008/01/08(火) 22:26:13 | URL | k2 #-[ 編集]
遅まきながら、最近一連の発掘結果を踏まえ旧本能寺の寺域を地図上で確認してみました。
k2殿もご紹介のように、天文14年(1545)に本能寺が土倉の沢村千松より購入した土地は、東の境を西洞院、西の境を油小路とし、北限を六角、南限を四条坊門とする方4丁町(南西の一角を欠く)であり、それが中心寺域であったと考えられます。
そのうえで藤井尚夫氏の考証では、その北限をさらに三条大路までとしています。
しかしながら、昨夏の発掘調査の結果からも信長の「御屋敷」があったのが先の中心域であった事が確認されており、やはり藤井氏の考証が誤りであったことは明らかです。
正直、あの御殿群も立派過ぎます。
そうしたなか、歴史街道2005.8号には南限を錦小路にまで広げた推定図が掲載されています。
堀で囲まれた先の中心域に、子院や鐘楼堂そして塔頭などのある南域(堀は無し)という構成になっており、旧説に従った考証であったと思われますが、元本能寺南町の旧本能寺小跡の発掘調査で「下京総構え」の堀が発見されていますから、寺域を錦小路にまで広げることには無理がありそうです。
藤井氏の考証は、それをそのまま北へずらし全ての周囲を堀で囲った形になりますが、むしろ中心域の北に子院や鐘楼堂そして塔頭などがあった可能性はないでしょうか。
k2殿もご紹介のように、天文14年(1545)に本能寺が土倉の沢村千松より購入した土地は、東の境を西洞院、西の境を油小路とし、北限を六角、南限を四条坊門とする方4丁町(南西の一角を欠く)であり、それが中心寺域であったと考えられます。
そのうえで藤井尚夫氏の考証では、その北限をさらに三条大路までとしています。
しかしながら、昨夏の発掘調査の結果からも信長の「御屋敷」があったのが先の中心域であった事が確認されており、やはり藤井氏の考証が誤りであったことは明らかです。
正直、あの御殿群も立派過ぎます。
そうしたなか、歴史街道2005.8号には南限を錦小路にまで広げた推定図が掲載されています。
堀で囲まれた先の中心域に、子院や鐘楼堂そして塔頭などのある南域(堀は無し)という構成になっており、旧説に従った考証であったと思われますが、元本能寺南町の旧本能寺小跡の発掘調査で「下京総構え」の堀が発見されていますから、寺域を錦小路にまで広げることには無理がありそうです。
藤井氏の考証は、それをそのまま北へずらし全ての周囲を堀で囲った形になりますが、むしろ中心域の北に子院や鐘楼堂そして塔頭などがあった可能性はないでしょうか。
2008/01/15(火) 21:20:48 | URL | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
Tm殿
旧本能寺の寺域は実際行くと狭いと感じられる程、短い距離です。発掘調査も部分的なもので、全体の把握は謎ですね。
三條までですか、それは広すぎますね。それに、今まで見てきた復元案で一番立派ですね。
個人的には、西側に塔頭が並んでいたと想像していたのですが、根拠はありません(笑)
旧本能寺の寺域は実際行くと狭いと感じられる程、短い距離です。発掘調査も部分的なもので、全体の把握は謎ですね。
三條までですか、それは広すぎますね。それに、今まで見てきた復元案で一番立派ですね。
個人的には、西側に塔頭が並んでいたと想像していたのですが、根拠はありません(笑)
2008/01/15(火) 23:10:55 | URL | k2 #-[ 編集]
k2殿
北側としたのは南北に門があったとする説にしたがったまでで、西側であったかも知れませんね。
本願寺文書の中に何かそれを窺わせる記述はないものでしょうか?
北側としたのは南北に門があったとする説にしたがったまでで、西側であったかも知れませんね。
本願寺文書の中に何かそれを窺わせる記述はないものでしょうか?
2008/01/16(水) 04:44:27 | URL | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
Tm殿
本能寺文書ですよね?
建物に関するものは、なかったと思います。
復元案は、京都に残る他の法華寺院を参考にしているのでは、ないでしょうか?
本能寺文書ですよね?
建物に関するものは、なかったと思います。
復元案は、京都に残る他の法華寺院を参考にしているのでは、ないでしょうか?
2008/01/16(水) 23:14:06 | URL | k2 #-[ 編集]

