安土城の大手道は無かった

登城道と御成道 木戸雅寿著
財団法人滋賀県文化財保護協会 2007年3月紀要 刊行20周年記念号

上記論文、題名だけ見るとえっ、と思われるかも知れないが、用語の使い方の事である。
また、先の記事で述べた様に、木戸氏は、安土山のことは、安土山だけで理解し解決して行く方法を取るべきと、再度提唱されている。

また繰り返しになるが、天主と殿主の違いについての区別について論考されていて、本稿では、伝二の丸に、殿主?と推定されているようである。つまり、ハレとケで云うケの部分であると思われるが、そうすると、兼見と対面したのは、この伝二の丸でしょうか?

さて、本稿の一番の見所は、最新成果への反映であろうが、南正面に現れた門前広場を木戸氏は、分かり易く図入りでされている。
大手口前調査で、現駐車場で見付かった石塁から、現県道までを天皇が通るであろう道を示され、堀を越える木橋か、土橋があったのではないかと論考されている。
そうすれば、南正面は今までの想像とは違う形となり風景として一変する。

木戸氏は、行幸肯定派で前にシンポで聞いた三浦氏とは意見が違う。まだまだ、活発な論議を期待している。

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雪の安土城

 滋賀県の安土まで、安土城考古博物館で行われている企画展信長と安土城を見に出かけ

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伝二の丸

>伝二の丸に、殿主?

というのは、伝本丸よりも伝二の丸の方が中心という意味ですか?
三浦氏と大手道についての考え方は違うが、天主周辺についての考え方と同じ方向ということなのでしょうか。

そういえば、似たようなこと他の人も書いていたなと、書架を漁ったら、出てきたのは木戸氏の「よみがえる安土城」でした(^^;

武藤様
論文の記事は、やはり難しいですね。
木戸氏は、本丸は行幸御殿のままで、伝二の丸を信長のプライべート空間と考えてられてるようです。


三浦氏の、外周路が本丸南門ではなく、左に曲がり黒金門に取り付くと云う案は、苦しいと思いますね。
あの道は、確かにありますが、狭過ぎる様に思います。
    

なるほど、そういう解釈ですか。

黒金門に取り付く道、一度上から眺めたことがありますが、あったんだか、無いんだかって印象でしたが(^^;

南門と黒金門の問題も悩ましいですね、自分は黒金門の方が立派に見えるんですね。
でも伝大手筋に取り付けないしなぁと・・・

外周路関係のところを、もう少し発掘して欲しいんですけど、無理ですかねえ
それに伝二の丸・・・は永久に無理?(^^;

柱間

実際、天主(7尺間)よりも広い柱間を持つ伝本丸の建物(7尺2寸間)を奥御殿とする三浦説には無理があるのではないでしょうかね。
奥御殿なら逆に狭い柱間(6尺5寸か6尺間)であった筈だと思います。

武藤様
外周路もそうですが、馬場平他もっとして欲しかったですね。
伝二の丸、、、あそこが発掘出来ない為に色々な説が出てくる原因なんですね。困ったものですね。

Tm殿
やはりそこですよね、おかしいところは。
直接シンポに参加しましたが、なるほどと思う所もありましたが、、、
これからも、三浦氏の動向に注目ですね。
プロフィール

Author:k2。
京都府在住のいち信長ファン。
織田信長の戒名は「総見院殿泰巌宗安大居士」。
泰巌宗安とは、織田信長が生前に笑嶺宗訴から与えた道号。
と、言われてます。

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