泰巖宗安記
織田信長に魅せられた管理人が、信長に関するあらゆるものを(女性史を中心に)紹介して行きます。
安土城の大手道は無かった
登城道と御成道 木戸雅寿著
財団法人滋賀県文化財保護協会 2007年3月紀要 刊行20周年記念号

上記論文、題名だけ見るとえっ、と思われるかも知れないが、用語の使い方の事である。
また、先の記事で述べた様に、木戸氏は、安土山のことは、安土山だけで理解し解決して行く方法を取るべきと、再度提唱されている。

また繰り返しになるが、天主と殿主の違いについての区別について論考されていて、本稿では、伝二の丸に、殿主?と推定されているようである。つまり、ハレとケで云うケの部分であると思われるが、そうすると、兼見と対面したのは、この伝二の丸でしょうか?

さて、本稿の一番の見所は、最新成果への反映であろうが、南正面に現れた門前広場を木戸氏は、分かり易く図入りでされている。
大手口前調査で、現駐車場で見付かった石塁から、現県道までを天皇が通るであろう道を示され、堀を越える木橋か、土橋があったのではないかと論考されている。
そうすれば、南正面は今までの想像とは違う形となり風景として一変する。

木戸氏は、行幸肯定派で前にシンポで聞いた三浦氏とは意見が違う。まだまだ、活発な論議を期待している。
コメント
この記事へのコメント
伝二の丸
>伝二の丸に、殿主?

というのは、伝本丸よりも伝二の丸の方が中心という意味ですか?
三浦氏と大手道についての考え方は違うが、天主周辺についての考え方と同じ方向ということなのでしょうか。

そういえば、似たようなこと他の人も書いていたなと、書架を漁ったら、出てきたのは木戸氏の「よみがえる安土城」でした(^^;

2008/01/14(月) 22:35:31 | URL | 武藤 臼 #-[ 編集]
武藤様
論文の記事は、やはり難しいですね。
木戸氏は、本丸は行幸御殿のままで、伝二の丸を信長のプライべート空間と考えてられてるようです。


三浦氏の、外周路が本丸南門ではなく、左に曲がり黒金門に取り付くと云う案は、苦しいと思いますね。
あの道は、確かにありますが、狭過ぎる様に思います。
    
2008/01/15(火) 22:41:56 | URL | k2 #-[ 編集]
なるほど、そういう解釈ですか。

黒金門に取り付く道、一度上から眺めたことがありますが、あったんだか、無いんだかって印象でしたが(^^;

南門と黒金門の問題も悩ましいですね、自分は黒金門の方が立派に見えるんですね。
でも伝大手筋に取り付けないしなぁと・・・

外周路関係のところを、もう少し発掘して欲しいんですけど、無理ですかねえ
それに伝二の丸・・・は永久に無理?(^^;
2008/01/16(水) 00:55:05 | URL | 武藤 臼 #-[ 編集]
柱間
実際、天主(7尺間)よりも広い柱間を持つ伝本丸の建物(7尺2寸間)を奥御殿とする三浦説には無理があるのではないでしょうかね。
奥御殿なら逆に狭い柱間(6尺5寸か6尺間)であった筈だと思います。
2008/01/16(水) 04:38:20 | URL | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
武藤様
外周路もそうですが、馬場平他もっとして欲しかったですね。
伝二の丸、、、あそこが発掘出来ない為に色々な説が出てくる原因なんですね。困ったものですね。

Tm殿
やはりそこですよね、おかしいところは。
直接シンポに参加しましたが、なるほどと思う所もありましたが、、、
これからも、三浦氏の動向に注目ですね。
2008/01/16(水) 23:05:12 | URL | k2 #-[ 編集]
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2008/01/27(日) 01:39:11 | むとうすブログ