晴豊公記より
天正十年五月四日条
前略
上ろう・大御ちの人御出の人のよし候て、若君御座候、成水申、信長まかない候、
物所へ御出候、余友感所へ参也、
この若君を、橋本氏は三法師と論考されてるが、信忠の子が、安土にいることは不自然で、
信長の子の誰かというほうが自然ではないでしょうか。
そうすれば、その子は誰かと推定したくなるのが私なのだが(笑
ずばり、お鍋の子信吉(酌丸)と見ている。
そのヒントは、成水つまり鳴海助右衛門にある。
谷口先生の辞典でも、数行しかとどめないマイナーな家臣であるが、八風街道の歴史 深谷弘典著に永源寺の郷士小辰家文書に、その名が出てくる。
柴田勝定と連名で、鳴海助右衛門尉 長士 とある。
何と読むのだろうか?(笑)ながもとか?
鳴海は、母お鍋の生誕地?に通じていた人物と推定でき、その子酌丸の守役であったかも知れない。
追記
竹本千鶴女史の松井友感論に、晴豊公記の読み下しがあるが、ところどころ微妙
に違うようである。
今日はここまでで。
天正十年五月四日条
前略
上ろう・大御ちの人御出の人のよし候て、若君御座候、成水申、信長まかない候、
物所へ御出候、余友感所へ参也、
この若君を、橋本氏は三法師と論考されてるが、信忠の子が、安土にいることは不自然で、
信長の子の誰かというほうが自然ではないでしょうか。
そうすれば、その子は誰かと推定したくなるのが私なのだが(笑
ずばり、お鍋の子信吉(酌丸)と見ている。
そのヒントは、成水つまり鳴海助右衛門にある。
谷口先生の辞典でも、数行しかとどめないマイナーな家臣であるが、八風街道の歴史 深谷弘典著に永源寺の郷士小辰家文書に、その名が出てくる。
柴田勝定と連名で、鳴海助右衛門尉 長士 とある。
何と読むのだろうか?(笑)ながもとか?
鳴海は、母お鍋の生誕地?に通じていた人物と推定でき、その子酌丸の守役であったかも知れない。
追記
竹本千鶴女史の松井友感論に、晴豊公記の読み下しがあるが、ところどころ微妙
に違うようである。
今日はここまでで。

