徳川信康室織田氏 奥野高広著
「おごとく」が当時の呼称であり、信忠、信雄と同腹(信長正室生駒氏)
嫁入って 後岡崎殿と敬称されていた。
永禄二年十月十二日生まれ「源流綜貫」
この研究ノートには、養華院の墓で有名になった大徳寺総見院墓地の
図面が掲載されている。この図面は、東に隣接する聚光院が旧建物を解体した際に検出されたという。近世中期の作で鉛筆で線引きしてあるという。
このおごとくの墓の下辺りを見てみると、柱の抜け跡らしきものが見えるので、芳春院の前田家や、天瑞寺の秀吉母の墓と同じく覆い堂があったものと推測できる。
また、おごとくの京都での住まいであるが小笠原忠真年譜は油小路ニ住シ給フト云、又或書二ハ、京都烏丸中御門ノ南ニ居給フトアリ。とあるが、京雀巻第五 馬や町の項に
北行に岡崎殿と織田家の後家住給し其御やしき今は町人の家となれり
とあり実際に住んでいた場所も確定できる。
現在の烏丸丸太町の北西春日町である。
寛永八年(1631年)父信長公五十年御忌に付 自岡崎殿御香奠
(柳本織田家記録)の記事が見える。
「おごとく」が当時の呼称であり、信忠、信雄と同腹(信長正室生駒氏)
嫁入って 後岡崎殿と敬称されていた。
永禄二年十月十二日生まれ「源流綜貫」
この研究ノートには、養華院の墓で有名になった大徳寺総見院墓地の
図面が掲載されている。この図面は、東に隣接する聚光院が旧建物を解体した際に検出されたという。近世中期の作で鉛筆で線引きしてあるという。
このおごとくの墓の下辺りを見てみると、柱の抜け跡らしきものが見えるので、芳春院の前田家や、天瑞寺の秀吉母の墓と同じく覆い堂があったものと推測できる。
また、おごとくの京都での住まいであるが小笠原忠真年譜は油小路ニ住シ給フト云、又或書二ハ、京都烏丸中御門ノ南ニ居給フトアリ。とあるが、京雀巻第五 馬や町の項に
北行に岡崎殿と織田家の後家住給し其御やしき今は町人の家となれり
とあり実際に住んでいた場所も確定できる。
現在の烏丸丸太町の北西春日町である。
寛永八年(1631年)父信長公五十年御忌に付 自岡崎殿御香奠
(柳本織田家記録)の記事が見える。
この記事へのコメント
コメントありがとうございます。
女性史を中心にしたブログなんですね。女性関係についてはほとんど知識がないので、私も非常に参考になります。
今後もマイペースで更新がんばってください!
リンクの件は、フリーとしていますので、気にせずリンクしてもらっていただいて結構です。
今後もよろしくお願いします!
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今後もよろしくお願いします!
織田創様
ご返事ありがとうございます。
こちらこそよろしくお願いします。
雪姫様同様にまた覗かせて頂きます。
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2007/05/30(水) 08:45:03 | URL | k2 #-[ 編集]
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2007/06/06(水) 21:47:40 | | #[ 編集]

