埋蔵文化財調査報告書30 三王山遺跡(第1~5次)

埋蔵文化財調査報告書30 三王山遺跡(第1~5次)

1999年3月26日発行 編集 名古屋市見晴台考古資料館

現在千句塚公園になっている三王山の発掘調査報告書。
名古屋市史指摘の堀を考える

調査区北端から神社境内地にかけて五段にわたって人工的に造成した可能性が高まったとある。
この造成は、城郭における「切岸」遺構と同種のものと考えられる(千田嘉博氏のご教示)

緒畑神社の由来書(大正から昭和に書かれたもの)には桶狭間の戦いに際し、鳴海城とともに「三王山砦」が焼失したといたという内容で、信用するには躊躇するが、4次発掘で柱穴列は、由来の記述とは時期が異なるものの、各ピットが埋土に焼土を多く含んでいた事が関連していて気になると論考されてる。

まとめると、これらは信長の時代より前の時代のものであるようなのだが、丹下砦は古屋敷と記述があるのに、三ノ山は何も記されてないところを見ると、赤塚の戦いの際は何もなかったのでは、ないでしょうか?
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~ Comment ~

山王山

今晩は。
貴重な資料をご紹介いただきました。
両方とも読んでいませんでしたので、勉強になりました。

おっしゃられるように、赤塚合戦当時に山王山には既存の砦があったもとは思えません。それもご指摘の通り丹下の古屋敷跡に砦を構えたというような伝承がないからです。

しかし、名古屋市史が推測しているのは、「陣城」として応急に構築したものです。それは、かなり昔であろうと堀切りなどが先行してあったならば、工事が容易だからでしょう。

名古屋市史では、「天文廿二年の(赤塚の)戦いに際して臨時の陣城が構築され、その後、丹下砦が築かれるまで機能したものと推測される。」と記載していますが、小生はそれを支持したいと思います。

信長は、当日そこに到着して、鳴海城から出陣した九郎次郎が出陣したのを見て、急遽部隊を山王山に展開布陣したのではないと考えるからです。

先行部隊が陣城を築いたところに信長が着陣したから、九郎次郎が出撃したのではないかと思うのです。

三の山

かぎや様
コメントどうも。
かぎや様のHP見ても思うのですが、現地を知らないとむずかしい所がありますが、今回は見てきましたんで(笑
先行部隊が、というのはうなずけますね。
あの場所を押さえたのは、先行部隊か、山口方でも織田方に付くものもいたのでは、など考えました。


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