都名所図会

都名所図会

安永9年(1780)に町人吉野屋為八が計画・刊行した京都の地誌。
この地誌は竹原春朝斎の俯瞰図を多様した挿絵が評判を呼んだもので、当時の京都がどの様なものであったか分かる貴重な情報でもある。

さて、ここで取り上げるのは本能寺である。
現在地、寺町の本能寺がどの様な景観であったかが分かる。
織田信長墓は、どう紹介されているかと言うと
織田信長公の塔(本堂の東にあり。天正十年六月二日、当寺旧地において明智光秀がために自殺す。
委しくは「信長記」に見えたり。

俯瞰図を見ると現在とは少し違って、本堂と墓の間に祖師堂と開山堂が見える。
本堂も現在とは違って、小さかったのでしょうか?
本堂の北に廊下続きで、方丈が見える。
この方丈の前の門は聚楽城よりここに移すとあり、興味深い。
現在はないので残念である。

さて、この記事を取り上げたのは信長墳と、称される信長墓の創建年である。
図を見ると、現在の墓塔と同じ様に見え、安永年間にはこの墓形であったのが確認できる。
しかしながら、天正年間まで遡れるかどうかは甚だ疑問で、先日のシンポで河内氏は、天正十年と刻まれてるから、という主旨を述べられていたが、如何なものでしょうか?
これに反論するものとして、東近江市羽田神社に残る、織田三五郎(有楽斎の孫)が安土城の信長廟に寄進した灯篭が残っている。
この灯篭天正十年の文字があるが、三五郎は生まれていないので成立年として成り立たない。

また、この墓の横に信長公と彫られているのも気になる。


他に指摘するものとして、現在横にある戦没者合同墓も図には見当たらず、桐野様ブログに紹介されてる、嶋津氏の墓も図には載っていない。

追記
全国寺院名鑑によると、維新騒乱で元治元年木屋町の薩摩屋敷を砲撃する長州軍の目標となり全焼、学問所も廃仏棄釈で廃校。更に境内地の上地などで衰えて行った。
大正八年から再建に着手、昭和三年に落慶入仏式を挙行。
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