山口甚助

山口甚助

マイナーな人物だが、気になる人物。
一般的には、家康の伊賀越えの際に宇治田原でその一行を歓待した事で有名。
また、宇治橋の架設の奉行としても名が上げられようか。
一次資料では言継卿記に武家足軽衆として
山口甚助、同子、同古田左介

甚介の名と、古田の前名に注目したい。甚助は秀景、左介は景安。
この景と言う字は、ヘンキではあるまいか?

それはさておき、同子であるがこれを、秀次の家老となった山口玄蕃だと思っていたが、違うと思われる 資料がある。遊行三十一祖京畿御修行記に、宇治へ行った際山口甚助が手引きした記述の後、彼子息小坂表で討ち死にした仙清雲宗の追善する臨時踊が有った事を記している。
これは、天正四年五月三日原田直政と共に討ち死にした中に甚助の子もいたとものと思われる。
公記にも二段は原田備中、大和・山城衆同心致しとある。
甚助が従軍したかどうかは、不詳。
寛政譜では、甚助の子として玄蕃の名が無いのは西軍に属した為でしょう。

甚介は元々宇治田原の領主では無く、擁州府誌には城州葛野郡下山田(京都市西京区)の領主とある。義昭の元をいつ放れたかは不明ながら、信長に仕えた際の所領替えと思われる。
京都誠心院に甚介と玄蕃の画像があったようだが、現在は無いと言う。
また、中村武生さんのブログでも記事になってましたが、あまり歴史に熱心では無いようで、山口一族の墓石が一ヶ所にされていて、石碑も建てていらっしゃるのだが、横向きに並べてある墓石があり、また隙間が小さくて、彫ってあるものが読めないんですよね。

向かって右から
1、花屋妙運禅定尼 元亀元年四月廿二日
2、読めない
3、秋伸宗○禅定門
4、山口玄蕃頭
5、山口玄蕃後室
6、不明
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