秀吉馬廻役、河原長右衛門定勝について

秀吉馬廻役、河原長右衛門定勝について

宇野日出生著 戦国史研究会 第25号
信長ではないが、秀吉の家臣の紹介。
河原定勝は、主に名護屋城本丸や御土居建設を始めとする、土木工事を中心に手腕をふるったことが知られている。京都の歴史第四巻に発給文書を写真とともに紹介されてはいるが、マイナーな人物にはかわりない。
その河原家現在でも子孫の方がいらっしゃり、貴重な資料をお持ちである。
その中でも定勝の四女である玉について、であるが、あまり知られていないが,豊臣秀次の側室であったとある。それに関連して、玉に発給された知行宛行状が残されている。
しかし、秀次の妻妾についてはご存知の様に、三条河原で処刑されている。
その中に、何故か河原長右衛門の女、玉と言うのは見受けられない。

定勝は、醍醐の花見の時、加賀殿の隋従を果たしているが翌年三月十三日没している。
その墓は、京都市右京区嵯峨越畑の阿弥陀寺に残されている。
これは、子である源之充が、越畑に移り住んだ事によるものである。

この越畑という場所は、京都市右京区とは言うものの、生活圏は完全な亀岡。
電話番号も京都市の075ではなく、バスも亀岡から出ている。
愛宕山の向こう、水尾の集落から樒原(しきみがはら)の集落を越えた、次の集落にある山に囲まれた田舎なのです。
ここに京都市最古の民家と言われるものが、京都市有形文化財河原家住宅。
そう、河原家の子孫の家だったもので、時代劇にでてきそうな素晴らしい建物であるが、遠方過ぎて見学される方はいないと思いますが(笑

この住宅、地元京都銀行のポスターに採用されていた事もあるが、これが河原氏とは結びつかなかった。

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