織田信長文書拾遺七題

織田信長文書拾遺七題

日本歴史 500号 H2年1月号 奥野高広著
織田信長文書の研究の著者でいらっしゃる、奥野氏の続編とも言うべき論考。

このうち取り上げるのは、椿井政長宛判物。
寛永諸家系図伝からの転用。
椿井は、つばいと読む。私も、はじめ読めなかった。
椿井氏は、現在で言うと京都府相楽郡山城町。京都市内と、奈良との中間ぐらいの所。
椿井城は、現在JR奈良線が中央を切り通してしまって、痕跡を台無しにしてしまっている。
京都から奈良へ、車で行く際は国道24号線が交通手段となるわけですが、渋滞してる時は旧道の、この椿井城跡近辺を通って行く事にしている。そして、24号に合流する前、狛氏が納めていた集落がジグザクになっていて、中々雰囲気のある所が良く、信長も奈良へ行く際はこの街道を通ったであろうから、こちらの方がお奨め。
(関係ないですが、この近くに数年前ワイドショーで話題になった某歌手の後援会長の豪邸が見えます。今はどうなってるんでしょうか)

話を戻して、これは永禄十年のもの。
上洛するに際して、早くから音信していた事が分かり、書き止めが「恐々謹言」となっていて、地方国人に気を使っているのが分かる。
これに刺激されて、山城町史を再読。
大和の松永親子、興福寺衆徒と同文言の朱印状が二通知られている。
一つは、松永久秀の老臣岡因幡守宛と、「瓶原七人衆」宛となっている。(石井家所蔵文書)
この書状から信長が事前工作において、南山城の地侍層の掌握にまで、手を伸ばしているのが興味深い。
そして、写真版で同文言の、野村右京宛信長朱印状写しなるものが掲載されている。
信長が上洛するに際して、相当な根回しをしていた証となる。
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