泰巖宗安記
信長ファンの独り言。
久庵慶珠
信忠の母は生駒蔵人家宗の女で、信雄、五徳の母でもある(織田家雑録)
上記久庵慶珠の記載のある文書は岐阜県長良の崇福寺宛信忠文書に記載されているものであるが、愛知県江南市に残る久昌寺の記録等には久庵桂昌となっており、珠と昌と違っているのが引っかかる。
小嶋広次氏は、写しのようであるが、奇妙の署名のみで花押影も御判の記載もない。元服前で花押がないならば、印もしくはそれに代わるものがあってもよいはずでる。写しだから省略したのだろうかと論考されており、
研究の余地は残るとみるので対象外とされている。
織田信忠の尾張美濃支配について 小嶋広次著

写しであるので、写し間違えたのだろうか、又読み違えかも知れない。
高野山悉地院の過去帳には慶庵久性?となっておりよく分からない記述になっている。
コメント
この記事へのコメント
崇福寺の手紙の件
信忠の生母が生駒氏か否かは最近あちこちのサイトで目にしますね。崇福寺に残る信忠の手紙から私は別人説を信じていたのですが、高野山悉地院の過去帳の話を知ると書き間違い説もありかなと思ってしまいます。

たかが四文字なのにこんなでたらめな写しっていったい…?

ただ久庵桂昌の喪主は信忠ではなく信雄がやったという記録が残っているのに、崇福寺の件はなぜ信雄ではなく信忠が前面にでてやってるのかな?という疑問は残ります。

ところで崇服寺といえば有名なお鍋の方の手紙が残っていますよね。最近やはりあちこちのサイトでこの鍋の手紙は側室が書いたものではなく、正室が書いたものでないか?つまり濃姫が書いたのではないかという説を目にしました。

とても有名な手紙だし、崇服寺の方でお鍋の方の手紙として認識しているのに、それが濃姫の手紙だなんて、こんなことってありえるのでしょうか?
2007/07/10(火) 08:47:16 | URL | ねこ #-[ 編集]
はじめにおことわりとしてねこ殿と有意義なお話が出きればと思っております、というのも某掲示板にて言い争いになり後味悪い結果となった経緯がありましてこのブログを立ち上げた理由の一つなのですが。

久庵慶昌の喪主が信雄がしたという記録というのは多分久昌寺縁由の
巳後信雄公為慈母報恩、訴信長公、寄付於寺領、後略
だと思われますが、この記録は江戸時代に作られたものであり、大名家として残った宇陀藩、小幡藩として残った信雄を意識して作られたものであると思われます。尾張藩士生駒氏が自分達のアイデンティティとして信雄の母つまり信長室生駒家宗の女を利用?したことは判明しております。
また記事にしますね。

崇福寺の書状ですがこちらもむつかしいですね。
お鍋では無いとなるともうひとつ傍証が必要ではないでしょうか。
個人的には濃姫が本能寺の変時、天正十年に存命していないと思ってます。

2007/07/10(火) 23:13:43 | URL | k2 #-[ 編集]
確かに濃姫がらみの検証は荒れていくことが多いですね。どうしてなんだろう?

今まで特別濃姫にはこだわりはなかったのですが、こんなに謎が多いということを始めて知りとても興味を持ちました。ブログ主さんのおかげだと思っています。

信忠や信雄生母についはさらにこだわりがなかったのですが、あっちこっちでいろんな説を目にして、検証されていると、さすがに気になり始めてきました。
中途半端に謎が残っているせいでしょうかね。
信雄生母の記事を楽しみに待ってます!
2007/07/11(水) 08:08:12 | URL | ねこ #-[ 編集]
はじめまして、湯浅と言います。

久昌寺の記録は久庵桂昌ではなく、久庵慶昌なのですか?
久昌寺を訪ねた時に久庵桂昌と説明文を見せていただいたのですが。
2007/07/19(木) 15:12:04 | URL | 湯浅 #J/OPKEkg[ 編集]
湯浅様
ご指摘ありがとうございます。
書き間違えです、お詫びして訂正させて頂きます。
悉地院の過去帳は慶で間違いないのですが写しのようなので書き間違いかも知れません。
(芝村藩主織田家記録適要)
2007/07/19(木) 15:35:06 | URL | k2 #-[ 編集]
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