泰巖宗安記
信長ファンの独り言。
生駒家と家の存続
織田信長の室となった生駒家宗の女の兄家長には四男五女がいた。
長男平蔵は矢島の生駒親興の娘を妻とし、次男善長は阿波国に居住し蜂須賀家に仕え、阿波生駒家の初代となり、四男利豊は家長の跡を継ぎ、三女は蜂須賀家政の室となっている。この代までに結ばれた家と家との関係がその後中絶し、十代周房による家格儀礼の復権問題に繫がることになるのである。六代利勝は、祖父利豊の女の嫁ぎ先肥田忠重の長男を養子として迎えいれたもので生駒家の中興の祖である。
生駒利勝は生駒家のアイデンティティの形成に関わるいくつかの事業を行っている。
1.富士塚の石碑の建立
2.父母を祀る宝頂山石廟の建設
3.家記録の編集
4、家訓の作成
5、久昌寺の支配マニュアル

この内久昌寺を織田信雄系同族団の統合の地として位置付けようとしている。この時、曹洞宗から臨済宗への再度の改宗する運動を藩に対して行われている。この願いは結果として取り下げになっている。
この出来事は織田信雄の孫織田主膳良雄の子(祖天)を入寺させる前提としての改宗願いだったことがわかる。

そして十代周房が信長室久庵桂昌大禅定尼の法要を媒介とする信雄系柏原藩主織田家との交流が始まるのである。
明和二年(1765年)久庵桂昌大禅定尼の二百回忌法要が執り行われ、柏原藩主織田山城守信舊に取り纏めを頼んだようである。

*上記のように尾張藩士生駒氏は久昌寺ならびに生駒家宗女、通称吉乃を媒介として織田信雄系大名柏原藩に取り行っていく様子が興味深い。

尾張藩社会の総合研究 岸野俊彦著 2001年
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