濃姫の死去の時と場所をめぐって(続)

濃姫の死去の時と場所をめぐって(続)

郷土文化 第63巻 H20年8月 横山住雄著

全国の濃姫ファンの皆様、待望の続編でございます。
横山氏の動向から、目が離せません。今回は、内閣文庫所蔵本「謙斎稿」と言う和本に、信長が策彦周良に画賛を求めた記事の紹介である。
時は、天正二年春、つまり一月のことで、先に発表された雪渓宗梅が濃姫ではないかと言う論考を補強された。つまり、天正元年十二月二十五日に亡くなった濃姫の賛文を、策彦に依頼したのでは?と言う趣旨の論考である。
有名な安土山ノ記、策彦が辞退して、南化玄興になった経緯が有り、この女性の位の高さを表していると言えるのでは、ないでしょうか。
しかしながら、この賛文の題が「霊照女賛」と書いているのである。
霊照女について、横山氏の論考を読んだが、すっきりしない。策彦も、もっと分かり易く書いて欲しかったものだ。案外、濃姫では無く、早世した信長の娘の事かも知れない。

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~ Comment ~

No title

こんにちは
昨年何度かお邪魔した者です。
濃姫情報待っていました。

やはり、はっきりしませんか??でもいつまでも
謎のままの方が夢があってとも思ったりします。

もしその女性が
>早世した信長の娘の事かも
ならば、何かの史料に濃姫が女子を産んだ記録もあるそうですが
(信頼性のない史料かも)ひょっとしてなんて、
年齢的に合わないか??
まぁ濃姫は謎の人でいいか。

それと「真田太平記」私も借りるつもりでした。

No title

都の風様
お久しぶりです。
濃姫は、謎が謎を呼びます。
女子を産んだというのは、解釈の人によって、そう取る事も可能ではありますが、どうでしょう。

ただ、濃姫が産んだ子というのは、策彦に賛を求めた事を鑑みると、アリかなとも思います。
この賛がある、画像が見つかれば早いのですが。

真田太平記、是非見て下さい。今の大河に比べると、カタイかも知れませんが。
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