本能寺の変と上杉景勝

本能寺の変と上杉景勝

天正十年六月九日付景勝書状 石崎建治著 日本歴史 2005年6月号

これからの大河を見るにあたって、本能寺の変をどう描くかが興味のあるところ。
本論考は、近年発表されたもので、本能寺の変が上杉景勝のもとにどの様に伝えられ、景勝がどのように認識されていったかという点を論考したもの。

まず本資料、芦名方遊足庵に伝えたもので、内容は播磨、摂津両国境において毛利と対陣中の秀吉が毛利方に捕らえられ、信長が救援に向かったが、秀吉は死亡し、信長も敗退しかけたところ、甥の津田信澄が変心し、信長が切腹したというもの。この情報を加賀越前国境付近で入手した事が判明すると言う。
これら、歴史的事実と相反する。本能寺の変の情報が虚実を交えて諸地域に伝達されていった事が指摘できる。そして、三つの書状を紹介され、六日にはまだ、変報に接していないように思われ、八日か前日の七日に景勝のもとに伝わったのでは推定されている。

史料六として、直江与六つまり、兼続宛、天正十年六月十九日付け湯原八丞国信書状。
この段階で、本能寺の発生が確実なものであることを伝えるとともに、自身が佐々成政を破ったことを報じ、その上で景勝に越中に出馬する事を側近の直江与六に披露してくれるよう依頼したもの。
この時点でも、首謀者に津田信澄のあるところが注意点である。
この時期の景勝は、上野・信濃・能登の三方から信長方の越後進行の動きを受け、また国内でも信長と連携する新発田重家との抗争に直面していたが、本能寺の変により危機を脱した。
ここで重要なのは、足利義昭の名が出てこないところを留意して頂きたい。光秀の使者が訪れたと解釈されている方もいらっしゃるようですが、そうであれば、虚報もないであろうし、義昭の名が出てきても差し支えないでしょうに。

これを踏まえて、どの様に変報が伝わるかが楽しみです。
でも、予想は長沢まさみが、与六に密かに伝えると思います(笑
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