下方弥三郎

下方弥三郎

士林泝に出てくる、何とも悲しいお話し。
下方弥三郎は、本能寺の変時、二条御新造で討ち死にした信忠の小姓。


信忠が最期を迎えようとした時、この下方が左足を負傷したうえに脇腹をやられてなんと、腸がはみ出していたという。その傷を包ながら信忠のもとにやってきた。
そこで信忠が声をかけた。
勇鋭と謂ふべし、然れば今生の恩賞は済まず、庶~は来世に於いてこれを賞せん、

もう恩賞は与えられないが、来世で与えようとは、、、
哀し過ぎますね。信忠より三つ上の二十九歳。


この話しは、尾張藩士下方氏の系図に出てくるもので、よく伝わったものです。
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~ Comment ~

No title

こんばんは

南紀徳川史の信長のエピソードはちょっとうれしくなるお話でしたが
この話はつらいですね~
来世で恩賞をとは・・・腸がはみ出してそれを押さえて主人の元に
駆けつける家臣も凄い。
信忠はちょっと評価が上がってるようですがこういう家臣の話を
聞くと慕われていたように感じます。

妙覚寺から直接家臣つれて安土に逃げればよかったのに、
せめて信忠が生き残ってくれてたらって思わずに居られません。

No title

都の風様
この話し、グッときませんか。
男臭いかも知れませんが、信忠は実像が信長に隠れてしまって、本当のところ、どの様な人物であったか、つかみにくいんですよね。

No title

k2さま
本当にグッとくるお話です。
私など信忠は濃姫の養子というだけで贔屓目に見てしまいます。
(養子というのはちゃんとした史料にあるのでしょうか?)
信長に必死で付いていこうと頑張った短い人生でした。
信長も後継者と認めてたようだし、ダメな二代目ではなかったと思いたいです。

きのうこの話を読んで大谷刑部の辞世を思い出しました。

また初心者むけに信長や信忠そして濃姫のエピソード
教えてくださいね。

No title

都の風様
信忠養子説の出典は、軍記なので一次資料ではありませんね。しかしながら、私も支持してます。
信忠が元服した時、三郎信重でなく、何故勘九郎信重だったのか。とか、信重から何故信忠に改名したのか。ナド、色々考えさせられます。
あと、信忠凡庸説は、ある学者が数十年前に言った事なので、今ではあまり下火の様な気がしますが。
徳川のドラマでは、確実に織田が必ず悪役になりますので、そういう印象を受けられると思いますが。。。

下方弥三郎は

こんにちは。
士林泝にはそこまで記されていませんが、下方弥三郎は、小姓ではなく馬廻りとされています。
本能寺で亡くなったという弟の武田喜太郎の方は小姓だろうと考えられているようです。

No title

通りすがり様
御指摘の箇所、確認しましたら、近習になってますね。
確かに、二十九歳になってますので小姓ではおかしいかもしれません。
あと、そこまで記されてませんは、どういう解釈でしょうか?
前略 貞弘(弥三郎)徒突出与 ニ 明智軍 一 戦、傷 ニ
左足 一 腸出裏(ツツミ)ニ 其瘡、一 謁信忠一。信忠日、可謂ニ勇鋭、一然今生ノ恩賞不 済、庶クハニ来世ニ一賞セン之。共一笑走出、挑戦致 死、時二十九歳。

読み下しは、桐野様の著書のを引用しました。
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