朝倉氏の重臣山崎氏について

朝倉氏の重臣山崎氏について

一乗谷朝倉氏遺跡資料館 紀要2004 佐藤圭著

昨今、江戸時代に書かれた軍記ものや、読み物ではなく、由緒書きの中に表れる新しい信長像や、新知見などが知られるようになって喜ばしい。
本論考は、五年前のものですが、先日の旅行の時入手した。
ソレによると、この山崎氏本能寺の変時、光秀方として、二条御所に攻め込み赤座七郎右衛門を討ち取ったと言う。本城以来の衝撃です。

これは、加越能文庫蔵「山崎家系」に見られるもので、本文・奥書きをありがたい事に読み下ししてある。信孝の庶兄小島民部の事も、由緒書きから分かったので、まだまだ埋もれている資料があるかもしれません。

二条御新造は、本由緒書きでは、二条殿と出てくる。山崎長徳は、その時瀬田から懸けつけて、光秀と合流し、二条御殿へ入り、信忠を探したが見つけられず、たまたまいあわした、赤座ともみ合い、討ち取ったが、自身も重症を負い、気を失った。変後、御殿内の検してる時に長徳を見付け、光秀のもとへ運ぶと、光秀が声をかけた言葉が記されてる。

「山崎殿、山崎殿。今日二条の戦い足下の功第一なり。天下定まる後宜しく足下の本国越前州を以ってこれに封じて以って今日の労に謝すべし。自ら誓わくは言を食まじ」
その後、傷の治療の為堅田へ行き、山崎の戦いは参戦できず、戦後の残党狩りは、池田が向かったらしく、船で越前へ逃れたと言う。
事実がどうか、分からないが興味深い内容といえる。
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