織田信長の足半

織田信長の足半

日本歴史 第375号 1979年8月号 歴史手帖 皆川完一著
以前から欲しかった日本歴史を古本屋で百円で手に入れました。
昔、名古屋の豊清二公顕彰館(現在は違う名前)でまじかに見せていただいた思い出あるもの。
この足半、某氏によると後世のものであるとか、ないとか。それでこの論考をいつか入手して確認してみたかった。あたり前だが、足半自体でいっても国内で一番古いものであるので、それを比べる対象になるものもないとの論考も、さもありなんと。
東大史料にも、この足半の模造品があるようですが、それは兼松家から寄贈されたらしいのですが、現存のものと比べて同じものではないそうで、寄贈された明治時代の史料では経緯が分からないらしい。そんな事はさておき、写真も目次の後に添えられてる。

さて、足半とはわらじの半分くらいのもので、著者が幼い頃は、まだ足半を使用していて、学校の休み時間などは足半をぶつけあって遊んで、それが無くなってしまい、裸足でいる事がよくあったようで、微笑ましい。
説明はいらないかも知れないが、この足半が兼松又四郎家に伝来した経緯は、信長記にも記されていて、兼松家の家譜類にも述べられている。また兼松又四郎の画像にも足半が腰の辺り描かれている。
谷口先生の合戦全録の冒頭にもってこられ、わたしも好きなエピで、朝倉追撃戦で裸足で戦って、敵の首を討ち取った兼松を見た信長が、その足が血に染まっているのを見て足半を与えた。
翁草によると、わらじを履く暇も無く駆け出した為、裸足であったという。これは佐久間信盛同様、信長が退却するからの注意を聞き入れなかった事による、油断といえようか。著者は、わらじを履いていない兼松に戦場の心得を諭したもので、皮肉ともとれると論考されている。この辺りの指摘はさすがですね。兼松は信長馬廻りにもかかわらず、わらじを履いてなかったという事は、信長の許にいなかったのでしょうか?それとも、近くにいながら油断していたのでしょうか?兼松の素顔をかいま見れる様な気がします。
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