織田信雄分限帳の一番目に記される生駒式部少輔。
いま私の中で詳細を掴みたいと思っている人物である。
柏原町史には柏原藩四世卿(四家老)には
生駒氏 本姓は谷、藤原鎌足三十一世の孫丹波守重親が其祖である。
丹波に在って五千貫を領し、玄孫忠親は美濃に居った、信雄が之を徴して臣として五千貫を給し、織田信清の女を養女として之に配して生駒蔵人の祀りを継がした、蔵人は公の外父である、従五位下に叙し式部少輔に任じ岩倉城を守り後に犬山城を鎮めた(後略)
信雄に仕えるまで誰の家臣であったのか不明なのも気になる。
信雄が生駒蔵人つまり家宗の家督を継がしたということなのだろうか?
なるほど生駒利豊は蜂須賀家に養子に出ているようなので式部が継いでいてもおかしくないのかも知れない。
織田信清の女を娶っているのは織田家雑録に記されているので裏付けられるが問題はその時期である。
信雄追放後なのか追放前なのかであるが柏原町史を読む限り追放前のようだが、自分の側室を下げ渡したことになるがいかがであろうか。
追放された時弟範親は信雄に同伴し、柏原藩の家老家になったが式部は加藤清正分限帳に同じ名が見受けられることから清正に仕えたか?
とにかく分からないことだらけである。
いま私の中で詳細を掴みたいと思っている人物である。
柏原町史には柏原藩四世卿(四家老)には
生駒氏 本姓は谷、藤原鎌足三十一世の孫丹波守重親が其祖である。
丹波に在って五千貫を領し、玄孫忠親は美濃に居った、信雄が之を徴して臣として五千貫を給し、織田信清の女を養女として之に配して生駒蔵人の祀りを継がした、蔵人は公の外父である、従五位下に叙し式部少輔に任じ岩倉城を守り後に犬山城を鎮めた(後略)
信雄に仕えるまで誰の家臣であったのか不明なのも気になる。
信雄が生駒蔵人つまり家宗の家督を継がしたということなのだろうか?
なるほど生駒利豊は蜂須賀家に養子に出ているようなので式部が継いでいてもおかしくないのかも知れない。
織田信清の女を娶っているのは織田家雑録に記されているので裏付けられるが問題はその時期である。
信雄追放後なのか追放前なのかであるが柏原町史を読む限り追放前のようだが、自分の側室を下げ渡したことになるがいかがであろうか。
追放された時弟範親は信雄に同伴し、柏原藩の家老家になったが式部は加藤清正分限帳に同じ名が見受けられることから清正に仕えたか?
とにかく分からないことだらけである。

