危機に瀕していた朝廷を立て直すため、手をさしのべたのが信長

危機に瀕していた朝廷を立て直すため、手をさしのべたのが信長

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歴史読本8月号 織田信長 蘭奢待切り取り事件 金子拓著
禁中怪異で浮かび上がった朝廷の内憂
冒頭から、少し趣が違う感じで論考されてます。
大日本史料十編を担当されてる、この事件のあった年代が全国的に、どのようなものであったかを断片的ではあるが、紹介されている。そしてタイトルにある金子語録。
 内容は、国史学の論考に他の論考を参考しながら述べられているが、いわゆる信長「型」といわれるものとは程遠い、信長の実像が見えてくる。
 もうひとつ、意外でしたが蘭奢待切り取りは、全国に向けてのパフォーマンスと思いきや、大和があらたに自らの支配圏に入ったことを示すため、奈良下向を敢行したのではないかとの問いは、なるほどと思った。なるほど、直接行かなくても可能ではあるような、ないような。
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~ Comment ~

.「譲位」の事。

お久しぶりですどうも。
お邪魔することはありませんでしたが、
貴重な情報源としてまめに拝見、勉強させて
いただいておりました。

今回の金子氏の論考、自分も興味深く拝読しました。
と同時に、その前に掲載されている石原氏の論考にも
大いに興味を惹かれました。

その上で改めてあらためて思うのが「譲位」の事。
結局、信長の存命中に譲位は行われませんでしたが、
天正元年、同九年の申し入れは、当の信長自身が
有耶無耶(のうちに取り消し)にしたとの観があります。

前者は正親町天皇、後者は誠仁親王に対する牽制であった
というのが自分の持論であり、天皇については、後年は
信長との円滑な関係を望んでいたようですが、当初は
後醍醐天皇のイメージが重ね合わされる様なところもあり、
金子氏の論考にその一端が窺える気がします。

一方の親王はと言えば、当時の年齢からしても「後小松天皇」
の様には成れなかったでしょうね。
もし親王がもっと幼年であったなら、案外、譲位は実現していた
のではないでしょうか?

.

Tm殿
本当にごぶさたですね。
久々に元気のいいコメントどうもです。
譲位に関して、色々な論文読みましたが結局は資料不足なんですよね・・・
その、うやむやも信長にとっての優先順位は高くなかったんでしょうかね。
 その幼年も、末子を猶子にした話に繋がるのですかね。
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