徳川家康朱印状写

徳川家康朱印状写

緒川先方衆并常滑先方衆、此度帰参侯間、即令扶助、然者本領如前々
無相違可所務、只今水野宗兵衛桑名江差遣侯条、令同陣、諸事彼
差図次第可令馳走、依忠信、重而新地可申付者也、仍如件
          天正十二年
             三月十八日 家康(朱印)
          緒川先方衆中
          常滑先方衆中

先日某氏に、佐治について意見を求めたところ、その頃の大野についての文書があるとのことだったので、長久手町史資料編を紐解いてみた。多分この文書のことだと思うのですが・・・

 これが、所謂佐屋川の渡しの根拠となったものでしょうか。
これを見ると与九郎ではなく、常滑先方衆となっており、この時期でも統括する者がいなかった事を示すことができるかもしれませんが、時系列を含めて考察中です。
 今年の大河に関連してか、千葉さなが結婚していたことが判明したそうですが、来年にも大河効果を期待して・・   
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~ Comment ~

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この文書、以前見たことあります。これは、佐治ではなく、水野にあてた文書です。
当時、知多半島は、佐治と水野がほぼ2分していて、緒川も常滑も水野です。
家康の生母・於大の方は緒川城主の忠守と兄弟。常滑城主は監物といいます。
佐治は大野と内海です。
師崎の千賀重親も佐治の血を引きます。
地元でない人はよく混同されますが、常滑と大野は全く違う地区であるということを認識して下さい。
今でこそ大野町は昭和29年より常滑市に編入されましたが、当時の大野とは、今の知多市南部と常滑市北部をまたぐ、大野庄または大野谷のことを指します。
大野城(別名宮山城)は大野庄宮山村(現常滑市金山)に、大草城は大野庄大草村(現知多市大草)にあります。
また、大野村という名は天正20年の検地帳に初めて出てきました。
それまでは湊村といいました。
ですから、与九郎の時代に大野村はありません。
余談ですが、天保に書かれた信雄分限帳には「大野村」と記載されてますが、明らかに転記ミスです。
ひょっとして渡辺大膳も渡辺小大膳だったりして。
天正の原本が見てみたいです。

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ヨクロー様
ご教示ありがとうございます。
確か水野宛てとおしゃってたような・・
監物は光秀に味方して、当時は誰がいたんですかね。
 他、少しですが大野の様子が分かってきた気がします。
 信雄分限帳も、もう少し調べる必要がありそうですね。 

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k2さん、さすがお詳しいですね。監物は光秀に味方たため、常滑城を棄て嵯峨野に隠棲したそうです。しかし、城を棄てたのは監物一人だけで、妻子等他の者は残っています。小牧合戦で監物の子は討死。その後は高木が常滑を統治?
私まだ水野は詳しくないです。こちらを参考にされては。http://www.nakanoprint.co.jp/sun/busyo/mizuno.html

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ヨクロー様
監物は信忠軍団として京にいるところ本能寺の変に遭い?そのまま光秀と同行して安土城に入城したそうですので。 
 妻子は立派ですね、信長ファンとしては。
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