江の生涯

江の生涯

江の生涯―徳川将軍家御台所の役割 (中公新書)江の生涯―徳川将軍家御台所の役割 (中公新書)
(2010/11)
福田 千鶴

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先月講演に行きました、福田千鶴さんの新著。
店頭に並び始めました、大河便乗本とは一線を画すものです。

ということで、福田さんの検証を検証していきましょう。
まず、心配してました小吉との婚姻時期、天正十三年十月はやはりご存じないようでした。
ということで、祝言も秀吉と茶々との婚姻であると「憶せず言おう」と述べられてます。
茶々と祝言を挙げたなら、もう少し一次史料に現れてもいいような気がします。

色々書きたいことが溢れてます。
福田さんが佐治幾衛系譜を引いて論考されてます。
鳥取佐治家に伝わる系譜で、活字化されてませんが、友人から前にご教示頂いてました。
ここでは、通説であるところの没年を間違いであると述べられ、もう少し年長者であったと論考されてます。
うーん、どうでしょうか?そうすれば、辻褄は合いやすくなりますが。

与九郎との婚姻時期、信長の生前との論考ですが、私もそう考えた事もありますが、福田さんは二、三歳で婚約したというのは疑問ですが・・・
 とにかくも、もう少し読み込んでみます。
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~ Comment ~

今、江関連の本沢山でできたんですね。
数年前は「江、誰?」と見向きもされなかったのに。
大河の影響はすごいですね。
江の初期の頃は本当わからないことが多い。
だから色々な説が出てくるのでしょうか。

信吉?

ヨクロー様
こんばんは。すごい数の本が出てくると思いますが、その中で買いの一つが、これでしょう。反論を期待してます。

この本読みました
真偽はさておき、
やっとおかしなフィルター抜きで江と向き合う研究者が現れたんだなあと

ちょっと感動してしまいました

家にお市と伝わる軸か゜あったのですがホロホロで今年表装しました、どうせ偽物と思ってましたし市は若死にですし。

そして先日「一個人」買ってみたら「江」そっくりです。びっくりしましたわ。

たけ様
便乗本ですが、他とは違いますよね。

江の生涯

近所の本屋に予約入れたら3週間後とのこと。
K2さんの推薦本ですのでとても楽しみに待っています。
反論?滅相な。
本当の所の真実は誰にもわからないものだと思いますが、福田先生のお調べになったことと、こちらの調べた事を融合すればより真実に近づけるじゃないかと考えます。
できれば直接会ってお話がしてみたいです。

No Title

ヨクロー様
その謙虚な姿勢こそ大事ですね。改めて読み直してみます。福田先生とお話しがしてみたいですか?
来年には、大野へ行きたいものです。

おしえてください

小吉との婚姻時期が天正13年10月だというのは、何に書いてあるのですか?恥ずかしながら教えてください。

関白殿之姪、小吉御祝言云々

以前にも著者本人様から、コメント頂いた事がありましたが、本人様なのでしょうか?
小吉の祝言の出典は、兼見卿記です。
天正十三年十月十八日条です。
最近出た小和田先生の「浅井三姉妹の真実」の中に、岡田正人様の論考が再録されてます。

No Title

K2様
本人様かも知れないコメントの後は、コメント入れづらいです。
「江の生涯」、実は未だ立ち読みもしてなかったのですが、これは買わねば、と思い切って購入いたしました。
飛ばし読みの段階ですが、本筋とは関係ない部分にちょっとした間違いが・・・。
P144~145、勝姫と高田馬場の名称の関係は、福田氏の記述とは全く逆で、「小田原北条氏所領役帳」にも記載があり、家康入部以前からこの地名であった高田の地に、勝姫が高田屋敷を与えられた事で高田殿と呼ばれた、というのが事実のようです。「江戸名所図会」等では、この高田殿が、同じく越後高田を領し改易された越後少将忠輝の母、於茶阿の方と混同されています。
因みに、夏目坂は、漱石の父小兵衛が名付け親です。
それでは、これから本腰を入れて。
感想等は、来年になるかもしれません。

No Title

ありがとうございました。兼見、見落としていたんですね。
高田の地名もそうなんですね。上越市史を執筆したときに、高田屋敷の地名については納得していないまま地元の伝を鵜呑みにしていました。ご教示ありがとうございます。一応、本人だとわかる情報として高田屋敷についてコメントしましたが、20日のコメントがはじめてです。前回というのがいつかわかりませんが、こういうものに投稿すること自体がはじめてなので、本人ではないと思いますよ。そんな人がいるのかとショックですが、といっても、信じてもらえないかもしれませんね(笑)。とりあえず、ありがとうございました。

No Title

福田様
誤解を与えたようですが、以前違う方の本を取り上げた時に、著者本人様から反論された事がありまして。
 福田様を名乗る方は、ありませんので。

初投稿で、当ブログにコメント頂きまして恐縮です。

No Title

私のコメントにも対応頂き、恐悦至極です。
尚、勇み足で「高田殿」としてしまいましたが、これは「高田様」が正解です。名所図会の於茶阿の方は「高田の君」とされていますが、この呼称は無いと思います。分限帳では、英勝院(於梶・於勝)の父とされる太田新六郎康資の所領として記録があり、この近辺が道灌の山吹の里伝説の地とされるのも、そのせいかなと・・・。
再び、福田先生が目にされることを願いつつ。
先生の参照された「柳営譜略(中川飛騨守忠英撰)」は、何所の蔵本でしょうか?
今私が目に出来るのは、東大蔵本、未刊随筆百種本(鳶魚本)、他一書の三書です。それぞれ独自に補訂してあって多少異同が有りますが、忠長の誕生日はいずれも三月ではなく「五月七日」です。
勝姫の生年月日を「慶長六年辛丑五月十二日」としているのは、鳶魚本のみですが、やはりこれでしょうか?東大本では、初姫と同年で明らかな間違いの「慶長八年癸卯」誕生となっています。この理由は、もう一書をみると判ります。ここには「慶長八年」「辛丑」と年次と干支の合わない記載がされており、東大本は、年次の方に合わせて干支を訂正したもののようです。
忠英の原本に近いのは、年次、干支の合っていないものではないかと思います。同様の事が、江の条でも起きている為です。しかも江戸下向年に関する記述です。
『○慶長十八年癸卯月日未詳江戸エ御下向』
とあり、慶長十八年はどう考えてもおかしい事から、慶長の癸卯の八年と記す積りだったものと思われます。この誤りは「徳川幕府家譜」にもそのまま引き継がれている事から、同書も柳営譜略の亜流であろうと考えていますが、紅葉山の日記類の調査に熱心だった中川忠英は、千姫に同行した江が、江戸に戻った際の記録を目にし、下向の記録と誤ったのではないでしょうか?
千姫の生年月日も、「幕府祚胤伝」が唯一では無く、同様の記載が柳営譜略にも有ります。成立年代から考えると、やはり譜略の方が先行するものと思われますので、忠英がこのように記すに至った幕府の資料があったものと思います。
それから、和子について。K2さんには以前に非公開でお伝え済みですが、譜略の東大本以外の二書には、台徳院御臺所於江與御方の条の末尾に次のような補筆が有ります。
『△ 京都大佛養源院境内依東福門院之志願建塔婆碑(鳶魚本には△無し)』
養源院に現存する江の供養塔がこの事か、未確認ですが、江の死に対し和子がこうした事を行っている可能性をお伝えします。
以上、一次史料によりほとんど論破されてますので、必要ないかとは思いますが、先生が参考資料に挙げておられる上記記録類についての史料批判に少しでも役立てばと思い、この場をお借りし(K2さん御免なさい)長々と述べさせていただきました。
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