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湖国の姫

湖国の姫

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大河江 第一回始まりましたね。旅先で見ました。
第一回は永禄十一年から天正元年まで、駆け足で駆け抜けた感じでした。
鈴木保奈美演じる、お市の方がこの後もナレーションを担当されるみたいですね。
全体的に突っ込みたいところがありましたが、永禄十一年でお市が岐阜にいましたね。
監修が小和田先生ですから、小和田説を踏襲されたのでしょう。
資料提供された太田先生は、もう少し早い段階で長政に嫁いだように述べられていますが、小和田説に軍配があがったようですね。最近では、浅井三代を書かれた宮島新一先生は、もっと早い可能性もあると論考されてますが、今のところ決定打はないようです。川角太閤記説を取れば、今回の様な花嫁行列ではなかったでしょうが(笑)
永禄11年なら、行列で行っても大丈夫でしょう。
 小豆、小豆はありませんでしたね。これは、田淵色を出したかったんでしょうね。少し残念でしたが。
写真は金ヶ崎神社です。功名が辻放映時に作ったとおぼしき看板です。

 で、万福丸は出てきませんでしたね。三姉妹を重点に置く大河では仕方ないのかも知れません。

私の最重点ポイントは、江は果たして小谷城で誕生したかどうかという点です。
ドラマでは、江の誕生をいくつかの創作を含めて、映像化してました。
一つおかしかったのが、虎御前山とおぼしき信長本陣に、お市が「江」を抱いて現れます。
何故信長は、その子が男子かどうか確かめなかったのでしょうか?万福丸をスルーしたなら仕方のない設定かもしれませんが・・・
 話がそれましたが、リンクして頂いてる紀伊様が、先日太田先生に岐阜生まれの事を質問された事をお聞きしました。太田先生は、地誌に載ってるものなど信用できないと返答されたようです。
 そして、幕府側の資料に小谷生まれの記述があると、言われたようです。
図書館で簡単に手に入るもので、その様なものを見た事がないので、その返答は意外でした。
天正元年生まれで、小谷城在城ってかなり短い期間になりますが・・・どうでしょうか。
最近、元亀四年というのも大河便乗本に見られるようになりましたが、太田先生のいう資料にそう載っているのですかね。確かに、地誌には荒唐無稽なものがあります。(例えば近江輿地史略に、光秀近江出生説などとるに足らないもの)しかし、井奈波神社のその記録には、東福門院の名が出てきたりします。何か、江がその神社に縁があったように思えてなりません。
 「○○」という資料に、某藩の家臣の系図を編纂したものの編者の、聞き書きとして、
浅井長政の妻室が、岐阜で秀忠室を生んだというのが有ります。
この資料の精査ができてませんが、江戸時代初期頃には、江が岐阜で生まれたという説があったことだけは事実だと思われます。北之庄落城は、落ち延びる時間がなかったかも知れませんが、小谷落城は、落ち延びようとする猶予はあったように感じるのは、私だけでしょうか。
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~ Comment ~

K2様
幕府側の史料、何でしょうね?
かつて私が「良いとこ無し」と決め付けた『翁草』の巻百八十六「淀殿の略傳」に、「小谷落城の砌、女子は別條あるまじとて、内室と“息女三人”に、藤懸三河守を相添へ・・・」と有ります。福田先生も引用した条のようですが、これが「幕府側の史料」という事は無いですよね。「諱は於野々(割注で一本オチャチャ)」となっている位ですから。しかし、この記載にある年齢がこれまで通説だった、という事は・・・・・。元京都町奉行所与力は、ある意味幕府側ですね。この辺の記事はやはり「良いとこ無し」だとは思うのですが・・・。『江の生涯』には、巻百八十八の「秀忠公略伝」からの引用もありますが、これもかつてお伝えした巻五十八「永夜茗談抜粋」の比較的正しい認識の方が、何故か全く無視されていたのも気になっています。いずれにしろ、『翁草』は、「幕府側の史料」の編纂が盛んになる前の天明四年には版本として世に出ていますので、その影響を受けた史料も存在する可能性は大です。
江戸の代表的地誌『江戸名所図会』に家康の府中御殿跡の話が有り、数年前、件の場所と思しきほとんど利用者の無い立体駐車場を訪ねました。その時は半信半疑でしたが、先年その駐車場の解体工事で、府中御殿の遺跡が発掘されました。名所図会には国造の居館も在ったと有りますが、実際に国衙関連の遺跡も見つかっています。地誌に書かれている事を頭から否定する訳にはいかないようです。
ところで、先日触れた家光誕辰の宴についての驚きのリアクションは無いかと、細川忠興・忠利父子の往復書簡について書かれている『江戸城の宮廷政治(山本博文著)』で調べてみた所、寛永十四年の家光は、実は神経症が悪化し、絶不調だった事が判りました。確かに、この年の御実紀記事にも、御三家などが御気色伺いに登城し、恐らく会えずに帰るというような日が非常に多く、細川忠利書簡では、気も短くなり、酒井忠勝以外意見できる者がいない状態が伝えられています。ただ、家光の威光がそれだけ強大になっていた時期である事も確かなようです。出御は無しに、宴のみ行われた可能性も有りますが、残念ながら、その事についての書簡は無く、謎は謎のままです。

武江様
コメントありがとうございます。
今日も考えてたんですが、幕府側の資料に載ってるから正しい。
そんな事はないな、と思うようになりました。
与九郎の佐屋の渡しの件を、正しいなんて言う研究者っていませんよね。
 それに、藤掛三蔵が当時の読みだと思ってるので、その出典である総見記の記述自体、信のおけるものではないと思ってます。
藤掛三蔵は、当時数え17歳ですから。
地誌のご教示ありがとうございます。確かに、地誌は扱うには注意を要するものではありますが。家光は・・・勉強させてもらいます。

K2様
昨年末の各譜略の比較や、先日の『宇下人言』の引用などで、私が伝えようとしてきた所も、まさにK2さんの考えと同じ事です。まあ、3種の譜略に御実紀、徳川幕府家譜と、随分にらめっこして来ましたから(笑)。
『江の生涯』で福田先生が御実紀から引用されている、家康と竹千代・国松の相伴(春日の抜け参り)の逸話も、基は大道寺友山の『落穂集』、「御城内鎮守之事」にある話です。この逸話の出だし部分に「御兄弟、御同腹とハ乍申、御次男国松君の御事ハ、御台様、“殊の外成御愛子渡せ給故”、」云々とあります。そして、「保科中将殿之事」には、「御別腹故、御台さまの御手前を御思召され候を以て、親元に於て」云々、「然ば其元御申の通りに、御台様の、“只大かたならず御嫉妬ふかく”御座候成ニ付、」云々などとあり、後のステレオタイプの江のイメージにつながる文言は、全てこの書物の中に出揃っています。
大道寺友山の経歴も考慮しなければなりません。友山は、保科正之に始まる会津藩、結城秀康に始まる越前藩と渡り歩いている兵学者であり、そういう立場であった人物の視点から伝えられた話が、「幕府側の史料」の中にさりげなく紛れ込んでいるという事には、注意が必要だと思います。
次には、今一度江戸下向時期と、それに関わり無い事にされてしまった子ゝ姫について検証予定です。織田と関係無い話でもなさそうですので。家光は・・・(笑)しばらく止めときます。

武江様
ステレオタイプの江の出典のご教示、ありがとうございます。
細かく書いていただいて、助かります。
 コメントを読んで、小瀬甫庵を思い出しました。
家光は・・・気にしないで下さい。
お気軽にどうぞ。
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