天皇行幸」から見た安土築城について 石橋正嗣著
安土城の南口に秘められた信長の謀 仲川 靖著
桐野さんの問いに資料捜して見ました。
今日考えたのは、一次天主と言われるものがどこにあったか考えみまして、可能性として伝三の丸跡をこの前指摘しましたが、
1、現天主台跡
2、伝三の丸跡
3、御茶屋平
と、三ヶ所あげてみました。
1.に関して御指摘どおり真ん中のみの発掘ですね。真ん中の穴ですが、掘っ立て柱かどうか、分かりかねたと思いますが(発掘調査報告会で)確か、少し横に曲がっていたのは、倒壊した時になったものか?というような主旨を述べられていたと記憶します。
これを一次天主倒壊の痕跡かと考えました。
2.に関して天主風の建物があったとの御指摘ですが、あの鯱瓦は、伝三の丸の北側から出土しているので、伝三の丸建物に飾られていた可能性を指摘されています。つまり考えられなくはないと思います。
伝三の丸は一部しか発掘調査されていないようですが、三つの建物があったようだと報告されています。
3、これは自説ですが、工事中の安土城においての仮御座所がこのお茶屋平と言われております。仮と言っても狩野永徳に絵を描かす程、仮といえないような建物であったらしい。この建物を天主といえないだろうか。
*資料が今、見当たらないのですが、吉田兼見が天主が完成する前に、天主で会ったと見た記憶が有るのですが。捜してみます。
それと仲川さんの論文で、伝秀吉邸は計三回の改造が行われてるらしく、大手道の改変ではと論考されてますが、その、天主倒れに起因しているのではと思いましたが。
木戸さんは、伝三の丸を含めた、西は黒金門、伝二の丸、天主台を本丸で、八角平を、二の丸という見解です。近年三浦正幸氏が、伝本丸跡は行幸御殿ではなく、伝二の丸にあったのではと新説を唱えられてます。
城郭調査研究所の方は、猛反発されているようです。
近日にもう少しまとめてみたいです。
安土城の南口に秘められた信長の謀 仲川 靖著
桐野さんの問いに資料捜して見ました。
今日考えたのは、一次天主と言われるものがどこにあったか考えみまして、可能性として伝三の丸跡をこの前指摘しましたが、
1、現天主台跡
2、伝三の丸跡
3、御茶屋平
と、三ヶ所あげてみました。
1.に関して御指摘どおり真ん中のみの発掘ですね。真ん中の穴ですが、掘っ立て柱かどうか、分かりかねたと思いますが(発掘調査報告会で)確か、少し横に曲がっていたのは、倒壊した時になったものか?というような主旨を述べられていたと記憶します。
これを一次天主倒壊の痕跡かと考えました。
2.に関して天主風の建物があったとの御指摘ですが、あの鯱瓦は、伝三の丸の北側から出土しているので、伝三の丸建物に飾られていた可能性を指摘されています。つまり考えられなくはないと思います。
伝三の丸は一部しか発掘調査されていないようですが、三つの建物があったようだと報告されています。
3、これは自説ですが、工事中の安土城においての仮御座所がこのお茶屋平と言われております。仮と言っても狩野永徳に絵を描かす程、仮といえないような建物であったらしい。この建物を天主といえないだろうか。
*資料が今、見当たらないのですが、吉田兼見が天主が完成する前に、天主で会ったと見た記憶が有るのですが。捜してみます。
それと仲川さんの論文で、伝秀吉邸は計三回の改造が行われてるらしく、大手道の改変ではと論考されてますが、その、天主倒れに起因しているのではと思いましたが。
木戸さんは、伝三の丸を含めた、西は黒金門、伝二の丸、天主台を本丸で、八角平を、二の丸という見解です。近年三浦正幸氏が、伝本丸跡は行幸御殿ではなく、伝二の丸にあったのではと新説を唱えられてます。
城郭調査研究所の方は、猛反発されているようです。
近日にもう少しまとめてみたいです。
この記事へのコメント
こんばんわ
桐野さんの所経由で最近出入りさせていただいています。
天主の話、興味深く読んでいます。
随分と発掘が進んだとはいえ、まだまだ未発掘な場所もいっぱいありますので、なにか新しいものが出てくると面白いのですが。
一点質問です。
御茶屋平とありますが、これは安土古城図などに描かれている御茶屋のことでしょうか?
この場所は、測量平面図でいうと馬場平、あるいはその東のピークあたりになるでしょうか。
桐野さんの所経由で最近出入りさせていただいています。
天主の話、興味深く読んでいます。
随分と発掘が進んだとはいえ、まだまだ未発掘な場所もいっぱいありますので、なにか新しいものが出てくると面白いのですが。
一点質問です。
御茶屋平とありますが、これは安土古城図などに描かれている御茶屋のことでしょうか?
この場所は、測量平面図でいうと馬場平、あるいはその東のピークあたりになるでしょうか。
武藤様
はじめまして、ようこそ。
御茶屋平は、その御茶屋です。
東門と言われる所にある郭です。
中心部とは違う石積みと指摘するむきもあるようです。
現在、電車や車で訪れる方が殆どなので、見向きもされませんが、岐阜方面から徒歩で安土城内に入るとすれば、一番近くて、しかも広い郭です。
本丸と、お茶屋の間の尾根上に馬場平があります。
はじめまして、ようこそ。
御茶屋平は、その御茶屋です。
東門と言われる所にある郭です。
中心部とは違う石積みと指摘するむきもあるようです。
現在、電車や車で訪れる方が殆どなので、見向きもされませんが、岐阜方面から徒歩で安土城内に入るとすれば、一番近くて、しかも広い郭です。
本丸と、お茶屋の間の尾根上に馬場平があります。
2007/09/20(木) 09:43:29 | URL | k2 #-[ 編集]
こんばんは。
いろいろご教示有難うございます。
伝・三の丸も満更ではないわけですね。
あと、御茶屋平というのは私もよく知らないのですが、立ち入りはできますか?
そこの建っていた仮御座所に狩野永徳の絵が描かれていたというのは初めて知りました。どんな史料に載っているのでしょうか?
ともあれ、天主の場所が1カ所だけだという固定観念にとらわれるべきではないかもしれませんね。
いろいろご教示有難うございます。
伝・三の丸も満更ではないわけですね。
あと、御茶屋平というのは私もよく知らないのですが、立ち入りはできますか?
そこの建っていた仮御座所に狩野永徳の絵が描かれていたというのは初めて知りました。どんな史料に載っているのでしょうか?
ともあれ、天主の場所が1カ所だけだという固定観念にとらわれるべきではないかもしれませんね。
早速回答いただきありがとうございます。
馬場平へは去年初めて立ち入ってみたのですが、石仏巡りの道が通っていてなかなか雰囲気のある場所でしたね。
今年はまだ安土まで行ってないので、お茶屋平を含め今年中には再訪したいとろこですね。
馬場平へは去年初めて立ち入ってみたのですが、石仏巡りの道が通っていてなかなか雰囲気のある場所でしたね。
今年はまだ安土まで行ってないので、お茶屋平を含め今年中には再訪したいとろこですね。
桐野様
仮御座所は、上記論文からの引用ですが、角川本の信長公記でいうと、P238です。
仮御座所が、主郭より違う場所、離れた場所を匂わせます。
歴史読本、一読しました。もっと、読み深めたいですね。
武藤様
馬場平、雰囲気ありますよね。ただ、現在立ち入り禁止だと思いますので、桐野さんもお断りしてから、入られることを、望みます。
四国八十八ヶ所石仏ですね、1849年五個荘の安福寺の寿仙という尼僧が発起人として築かれ、大正八年に大々的に整備したとのことで、ここでも改変は行われていて、信長時代はどの様な形だったか?
分かりかねますね。
仮御座所は、上記論文からの引用ですが、角川本の信長公記でいうと、P238です。
仮御座所が、主郭より違う場所、離れた場所を匂わせます。
歴史読本、一読しました。もっと、読み深めたいですね。
武藤様
馬場平、雰囲気ありますよね。ただ、現在立ち入り禁止だと思いますので、桐野さんもお断りしてから、入られることを、望みます。
四国八十八ヶ所石仏ですね、1849年五個荘の安福寺の寿仙という尼僧が発起人として築かれ、大正八年に大々的に整備したとのことで、ここでも改変は行われていて、信長時代はどの様な形だったか?
分かりかねますね。
2007/09/23(日) 00:26:56 | URL | k2 #-[ 編集]
初めてお邪魔します。
こちらのブログを拝見させていただき、改めて不勉強の程を痛感させられました。
ここ2〜3年、環境の変化もあり、資料といえば市販の書籍を購入する程度に留まり、関連論文に目を通すことを怠っていたのが恥ずかしい次第です。
ご紹介の論文も未見ながら、考えてみれば、天正7年の5月に正式に天主に移徒するまで、信長がどこに住まいしていたかは重要な問題ですね。
御茶屋平がその場所とされていることについては初耳なのですが、それについて何か具体的な史料もしくは伝承はあるのでしょうか、お教え願えれば幸いです。
ただ、御茶屋平をその場所に当てるのには少々疑問があります。
と言うのも、御茶屋平は安土山の西に広がる城下(町)から見た場に最も奥まった位置にあり、城主の屋形が置かれたとするにはあまり相応しくないと思われるからです。
そこで改めて安土山の地形を見るに、どうも伝江藤邸跡がそれに相応しいのではないかと思われますが如何でしょう。
自分には伝江藤邸跡の地形が丁度、小牧山にも似ているや思われます。
それと桐野さんのブログにもコメントさせていただきましたが、古くは城主の住まう櫓を「天主」と呼んでいた事例もあることから、山頂の城郭が完成する以前の仮御所にあった櫓もまた「天主」と呼ばれていたのではないでしょうか。
兼見が訪れた天正4年の3月よりは後になりますが、同9月には義昭の「御城」にあった天主が安土に移されており、同6年5月に倒壊した天主がそちらの方であったと考えれば、天正7年に完成した天主の影に隠れ記録に残らなかったとも言えそうなのですが。
こちらのブログを拝見させていただき、改めて不勉強の程を痛感させられました。
ここ2〜3年、環境の変化もあり、資料といえば市販の書籍を購入する程度に留まり、関連論文に目を通すことを怠っていたのが恥ずかしい次第です。
ご紹介の論文も未見ながら、考えてみれば、天正7年の5月に正式に天主に移徒するまで、信長がどこに住まいしていたかは重要な問題ですね。
御茶屋平がその場所とされていることについては初耳なのですが、それについて何か具体的な史料もしくは伝承はあるのでしょうか、お教え願えれば幸いです。
ただ、御茶屋平をその場所に当てるのには少々疑問があります。
と言うのも、御茶屋平は安土山の西に広がる城下(町)から見た場に最も奥まった位置にあり、城主の屋形が置かれたとするにはあまり相応しくないと思われるからです。
そこで改めて安土山の地形を見るに、どうも伝江藤邸跡がそれに相応しいのではないかと思われますが如何でしょう。
自分には伝江藤邸跡の地形が丁度、小牧山にも似ているや思われます。
それと桐野さんのブログにもコメントさせていただきましたが、古くは城主の住まう櫓を「天主」と呼んでいた事例もあることから、山頂の城郭が完成する以前の仮御所にあった櫓もまた「天主」と呼ばれていたのではないでしょうか。
兼見が訪れた天正4年の3月よりは後になりますが、同9月には義昭の「御城」にあった天主が安土に移されており、同6年5月に倒壊した天主がそちらの方であったと考えれば、天正7年に完成した天主の影に隠れ記録に残らなかったとも言えそうなのですが。
2007/09/24(月) 12:23:46 | URL | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
Tm殿
ご無沙汰です、ようこそ。
倒壊したであろう天主がどこにあったか、現在のところ私は決定的な物は無いと前置きさせて頂きコメントさせて頂くと、御茶屋平の批定ですが、上記論文で指摘されているもので、主郭部からは離れていると指摘されています。
江藤邸ですが、兼見には下山とあるので少々弱いのでは無いかと思いますが、いかがでしょうか?
信長の安土城築城前は、寺があったとの伝承がありますので、工事の人夫や、職人の宿だったかも知れません。
お茶屋平ですが、西に行けば総見寺仮本堂に抜けられます。信長時代、そこに総見寺は無いわけですが、途中に総見寺の上へ抜けられる道もありますので下山も有かなと考えてます。
現天主台に初代天主があったというのも、考えられないものなのでしょうか?木戸さんの、そのありえない論を聞いて見たいです。天主台は、礎石のある部分以外は、信長時代の物かどうか分からないと思いますが。
桐野さんが、小谷城と比較されてましたが、山頂に天主が有るというのも当たり前のように思ってしまいますが、鎌刃城の櫓も山頂ではなかったように思いますので、馬場平も棄て切れませんね。
長くなりますが、お茶屋平が城下から奥まったところにあるという指摘ですが、今は否定されてるようですが、秋田裕毅さんは、能登川町側も城下町であったとフロイスの記述から論考されてます。能登川町側、観音寺城沿いに、下級武士屋敷群があります。(あの福田与一邸に批定)そう見ると奥まってないと思いますがいかがでしょうか?
ご無沙汰です、ようこそ。
倒壊したであろう天主がどこにあったか、現在のところ私は決定的な物は無いと前置きさせて頂きコメントさせて頂くと、御茶屋平の批定ですが、上記論文で指摘されているもので、主郭部からは離れていると指摘されています。
江藤邸ですが、兼見には下山とあるので少々弱いのでは無いかと思いますが、いかがでしょうか?
信長の安土城築城前は、寺があったとの伝承がありますので、工事の人夫や、職人の宿だったかも知れません。
お茶屋平ですが、西に行けば総見寺仮本堂に抜けられます。信長時代、そこに総見寺は無いわけですが、途中に総見寺の上へ抜けられる道もありますので下山も有かなと考えてます。
現天主台に初代天主があったというのも、考えられないものなのでしょうか?木戸さんの、そのありえない論を聞いて見たいです。天主台は、礎石のある部分以外は、信長時代の物かどうか分からないと思いますが。
桐野さんが、小谷城と比較されてましたが、山頂に天主が有るというのも当たり前のように思ってしまいますが、鎌刃城の櫓も山頂ではなかったように思いますので、馬場平も棄て切れませんね。
長くなりますが、お茶屋平が城下から奥まったところにあるという指摘ですが、今は否定されてるようですが、秋田裕毅さんは、能登川町側も城下町であったとフロイスの記述から論考されてます。能登川町側、観音寺城沿いに、下級武士屋敷群があります。(あの福田与一邸に批定)そう見ると奥まってないと思いますがいかがでしょうか?
2007/09/24(月) 16:06:50 | URL | k2 #-[ 編集]
k2殿どうも。
確か秋田さんは、岐阜城の山麓居館についても異論を唱えられていましたね。
さて、実際に伝江藤邸跡を訪れたことはないのですが、御茶屋平にしても果たして「下山」と表現するに相応しいかと言えば微妙ではないでしょうか。
『兼見』の文面を読むに、最初、兼見は村井専次の宿所を訪れるも、専次は登城しており、暫らく待っても戻らないので自身も登城し天主近辺で待っていたところ、普請場より戻ってきた信長と対面したとありますね。
その後「下山」となる訳ですが、ほんの2ヶ月前に普請が始まったばかりの山頂部に城=御座所?が置かれていたとは到底、考えられませんから、麓近くの場所にそれが置かれていたと考えるべきだと思われます。
その場合の「下山」ですが、今でこそ「安土城」と呼ばれていますが、当時はそれを「安土山」と呼んでおり、そのことからすれば、『兼見』のいう「下山」とは、地形における高低に関係なく、「下城した」(あるいは安土を発った)との意に解するべきなのではないでしょうか。
つまり、伝江藤邸跡も候補に挙げられるのではないかと思います。
また、その時点で専次が正式な屋敷を構えていたとは考えられませんから、元より町並のあった西の城下の寺院などに宿を求め、また他の家臣たちも同様ではなかったと思われます。
そうした点を考えても、御茶屋平は城下より離れすぎているかと思われます。
確か秋田さんは、岐阜城の山麓居館についても異論を唱えられていましたね。
さて、実際に伝江藤邸跡を訪れたことはないのですが、御茶屋平にしても果たして「下山」と表現するに相応しいかと言えば微妙ではないでしょうか。
『兼見』の文面を読むに、最初、兼見は村井専次の宿所を訪れるも、専次は登城しており、暫らく待っても戻らないので自身も登城し天主近辺で待っていたところ、普請場より戻ってきた信長と対面したとありますね。
その後「下山」となる訳ですが、ほんの2ヶ月前に普請が始まったばかりの山頂部に城=御座所?が置かれていたとは到底、考えられませんから、麓近くの場所にそれが置かれていたと考えるべきだと思われます。
その場合の「下山」ですが、今でこそ「安土城」と呼ばれていますが、当時はそれを「安土山」と呼んでおり、そのことからすれば、『兼見』のいう「下山」とは、地形における高低に関係なく、「下城した」(あるいは安土を発った)との意に解するべきなのではないでしょうか。
つまり、伝江藤邸跡も候補に挙げられるのではないかと思います。
また、その時点で専次が正式な屋敷を構えていたとは考えられませんから、元より町並のあった西の城下の寺院などに宿を求め、また他の家臣たちも同様ではなかったと思われます。
そうした点を考えても、御茶屋平は城下より離れすぎているかと思われます。
2007/09/24(月) 21:01:53 | URL | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
Tm殿
江藤邸は、城内唯一の堀切があるところで、出丸のような感じがします。信長時代より前かも知れませんので、候補に挙げられると思います。
下山では無く、下城のご指摘ですが、それも考えられますね。また、色々ご教示下さい。
江藤邸は、城内唯一の堀切があるところで、出丸のような感じがします。信長時代より前かも知れませんので、候補に挙げられると思います。
下山では無く、下城のご指摘ですが、それも考えられますね。また、色々ご教示下さい。
2007/09/25(火) 22:05:52 | URL | k2 #-[ 編集]
k2殿どうも。
石橋正嗣氏の論文、早速、入手いたしましたが、どうも史料の解釈に根本的な相違があるようです。
石橋氏は、天正5年に計画されていた安土への行幸は、その為の大掛かりな準備が遅れ、同10年にまで延期されたと主張されておられますが、元より自分はそれを、一年遅れの同6年に予定されていたが諸事情により中止となり、新たに同10年に再び行なわれるべく計画されたと考えています。
つまり、物理的には既に天正6年に行幸の準備は整っていたものと見ており、その為の殿舎こそが同正月に人々(信忠を始めとする12人?)が拝見した「御殿御座所」であり、それを石橋氏が信長の「仮の御座所」(『武功夜話』が典拠)とするのは明らかに誤りであると言わざるを得ません。
しかもそれが存在した場所は山頂の主郭であったと考えます。
となれば、今回の「タヲ畢」という天主は、天正10年に焼失した天主と同じ位置、というより同じものであったと考えるのが妥当ではないかと思われ、当然のことながら「タヲ畢」というのは誤聞であり、しかしながら何らかの被害を受けたのではないかと考えます(行幸の延期、中止の一因?)。
桐野さん(和田さんも?)は否定的ですが、「人民死畢」は当時の大雨による災害で各地に死者が出たということを述べたものだと解するべきであり、いささかセンセーショナルに走り過ぎたのではないかと思われます。
とは言え、天正10年の行幸に向けての準備プロセスについては石橋氏の論文にも拝聴すべき点は多々あると思われ、また、天正7年5月に正式に天主に移徒するまでの信長の「仮の御座所」、『兼見』によれば天主を伴なっていた見られる城(居館)の位置には興味がもたれます。
仮とはいえ義昭の「御城」普請での前例を鑑みるに、かなり本格的なものであったと考えられ、伝江藤邸跡および蓮池周辺域が怪しいのではないかと思われます。
石橋正嗣氏の論文、早速、入手いたしましたが、どうも史料の解釈に根本的な相違があるようです。
石橋氏は、天正5年に計画されていた安土への行幸は、その為の大掛かりな準備が遅れ、同10年にまで延期されたと主張されておられますが、元より自分はそれを、一年遅れの同6年に予定されていたが諸事情により中止となり、新たに同10年に再び行なわれるべく計画されたと考えています。
つまり、物理的には既に天正6年に行幸の準備は整っていたものと見ており、その為の殿舎こそが同正月に人々(信忠を始めとする12人?)が拝見した「御殿御座所」であり、それを石橋氏が信長の「仮の御座所」(『武功夜話』が典拠)とするのは明らかに誤りであると言わざるを得ません。
しかもそれが存在した場所は山頂の主郭であったと考えます。
となれば、今回の「タヲ畢」という天主は、天正10年に焼失した天主と同じ位置、というより同じものであったと考えるのが妥当ではないかと思われ、当然のことながら「タヲ畢」というのは誤聞であり、しかしながら何らかの被害を受けたのではないかと考えます(行幸の延期、中止の一因?)。
桐野さん(和田さんも?)は否定的ですが、「人民死畢」は当時の大雨による災害で各地に死者が出たということを述べたものだと解するべきであり、いささかセンセーショナルに走り過ぎたのではないかと思われます。
とは言え、天正10年の行幸に向けての準備プロセスについては石橋氏の論文にも拝聴すべき点は多々あると思われ、また、天正7年5月に正式に天主に移徒するまでの信長の「仮の御座所」、『兼見』によれば天主を伴なっていた見られる城(居館)の位置には興味がもたれます。
仮とはいえ義昭の「御城」普請での前例を鑑みるに、かなり本格的なものであったと考えられ、伝江藤邸跡および蓮池周辺域が怪しいのではないかと思われます。
2007/09/26(水) 15:14:56 | URL | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
Tm殿
石橋氏の論文、その他行幸、辞官等など、、、
これらについて、論争出きる程自説を持ち合わせておりませんので、この辺りは桐野さんのブログでお聞き頂いたほうがよろしいかと。
仮の御座所ですが、こちらも決定的なものは見つけることは現状では難しいのでは無いでしょうか。
伝江藤邸は、称明寺があったという伝承がありますので、それを拡張、改築し仮御座所にした可能性はありますね。
蓮池辺りの現説も参加しましたが、結論の出ない内容だったと記憶してます。
今後の専門家さんの意見を拝聴したいと、一安土城ファンとして期待しております。
石橋氏の論文、その他行幸、辞官等など、、、
これらについて、論争出きる程自説を持ち合わせておりませんので、この辺りは桐野さんのブログでお聞き頂いたほうがよろしいかと。
仮の御座所ですが、こちらも決定的なものは見つけることは現状では難しいのでは無いでしょうか。
伝江藤邸は、称明寺があったという伝承がありますので、それを拡張、改築し仮御座所にした可能性はありますね。
蓮池辺りの現説も参加しましたが、結論の出ない内容だったと記憶してます。
今後の専門家さんの意見を拝聴したいと、一安土城ファンとして期待しております。
2007/09/26(水) 23:52:57 | URL | k2 #-[ 編集]

