江の生涯を歩く

江の生涯を歩く

KKベストセラーズ 桐野様の新刊。四月二十五日発売らしいですが、ご恵贈頂きました。
豊臣完子の墓について、この新刊にて写真とともに掲載されています。
場所は・・・買って頂いてご確認下さい(笑)
京師順見記という資料に、天真院殿 九条政所 という記述をみつけたのですが、他10墓塔の記述があるものの、現存しているのは数基なので、よく残っていたなと思います。

秀忠との婚姻では、あの資料は採用されなかったようなので、ドラマでその場面の時にでも載せましょうか。
一点だけ、私もまだうらが取れてませんが、秀忠の伏見屋敷ですが伏見城の対岸、宇治川の向こうにある向島城ではなかったかと。これも伏見の「城」にあたるのでは。

値段もリーズナブルですが、文章もかなり読みやすいものとなってます。

予告が出てますが、来月の歴史読本の本能寺の変特集にて
「江と信長」と題して江の知られざる前半生を書かせて頂きました。
大変高名な先生方の末席に名前が載っているのも恐縮します。
主に岐阜生まれについて書きました。本能寺の変時斉藤玄蕃に拘束されたとか、与九郎との婚姻時期など全ていれられなかったのが残念でした。
桐野様の新刊とかなり被ってますが、お読み頂ければうれしいです。
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~ Comment ~

No title

歴史読本、必ず購入します。桐野さんの本ともども、楽しみです。

No title

来月号
ますます楽しみになりました^^

No title

紀伊様
どう反論しているか楽しみにして下さい(笑)

No title

武藤臼様
こんばんは。
あまりハードルを上げずにお読み頂ければ・・・

子ゝ姫実子説

k2様
桐野さんの御著書購入いたしました。もちろん、冒頭の江の江戸下向に関する書状が一番の目当てです。『長府毛利家文書』の翻刻原文は、下関市史にあるのでしょうね。区立図書館レベルでは置いてないようですので、やはり中央図書館か・・・。
取り敢えず現代語訳を読む限りですが、この書状によって、子ゝ姫に関する福田説は否定された、と言えるのではないでしょうか?「もし別腹に子どもができれば~」となっているとすると、この時点では、妾腹の子はいない事が判ります。この理屈で輝元等を納得させるには、3月にしろ6月にしろ(「祚胤伝」の6月11日は、秀忠の江戸還御の日からすると、きついらしいですが)既に誕生している子ゝ姫は、間違いなく江の子で、「祚胤伝」で江戸生まれと変更される前の多数説だった伏見生まれでなければなりません。
多産で側室を置かせなかったから嫉妬深いとされた、と云う見方も変える必要がありそうです。書状に記されている下向の動機は、あくまでも家康が語ったものです。書状からは、福田先生の仰るように、秀忠に側室が有った事も伺えますが、本当に書状のような意気込みを持って江が下向していれば、下向の翌年(慶長五年)末(源流綜貫説)もしくは翌々年初め頃(譜略説)の長丸の誕生は、無理だったはずです。これは、家康が、輝元等豊臣政権実力者に、江の下向を納得させ了承を得るための方便だと思います。そして、その内容から見て、この方便と「御台様の、只多形(おおかた)ならず御嫉妬ふかく御座候成ニ付、」という江のイメージが無関係とは思えません。この書状により、「嫉妬深い御台所」イメージの火付け役は実は東照大権現であり、江の江戸下向の了解を得る為の方便が元だった、と言って良いのではないかと思います。そうなると、当時江は未だ2人しか子を産んでいない状況ですので、これまでの多産云々の説は、成り立たなくなります。(尤も、話に尾ひれが付いていく中で、多産云々の方にウエイトが移ったから、元の話が忘れ去られた訳ではあります。)
また、長丸のこの時期の誕生は、世継ぎの無いまま、天下分け目の戦いが予想される状況となり、男子誕生の確立を上げるべく、むしろこの時期だったからこそ、秀忠の意志で妾腹の子をもうける事になった、と見るべきでしょう。同様に、江の実子としての慶長六年の勝姫の誕生も、時期的にも、また書状の江(家康)の意向からも、全く不自然な事とは思えません。尚、長丸、勝姫の誕生年については、『徳川諸家系譜2巻』をようやく入手しましたので、後日詳述しますが、結論的には上記の通りです。
江戸下向に話を戻しますと、伏見から大坂城に乗り込んで間も無くの申し入れというタイミングや、当時の情勢から考えても、家康が、漫然と江の要望に応えたという事では無いはずです。この時点で数ヶ月の先を視野に入れて布石を打っていない方がどうかしています。江の江戸下向もその枠組みの中で考える必要が有ると思います。『江の生涯』所収の江戸下向の際の饗応に対する礼状から、嫡男の正妻の身の安全の確保と共に、下向の道筋に位置する諸将の票読み的役割もあったのではないか、と考えていました。『東武実録』の編者・松平忠冬でさえ、かろうじて慶長四年「此年 台徳院殿ノ御臺崇源院伏見ヲ出テ江戸城ニ御下向アリ」としか判らなかったものが、彰考館系の『御系図大全』に十二月下向とされるのは、やはり同様の書状の写しが彰考館の収集資料としてあっての事でしょう。吉田城主だった池田家、掛川城主だった山内家などにもこうした書状が残っていたのではないでしょうか?このほか、茶々の妹である江が伏見を離れる事で、豊臣方としても、挙兵への障害が取り払われた、とも考えられ、そういう点からも家康の戦略的な思惑があったものと思います。なにしろ関ヶ原の直前には、伏見城は陥落し忠冬の祖父松平家忠等は枕を並べて討ち死にしていますので。
それにしても、こういう埋もれていた一次史料が、再認識されるというのも、大河の影響力というものなんでしょうね。書状の実物を拝見したいものです。

No title

武江様
長文コメントどうもです。
後半の大河でのコメント待っています。
桐野さんのは、さすがですね。
そこから色々見えてきます。
江の嫉妬深いのくだり。
武江様、大変興味深い指摘です。
そのような見方をされた書籍など、みたことないです。
すごい知識をお持ちの方だと、あらためて思いました。
 
福田説・・・淀殿を書かれた本より、かなり評判がよろしくないですね。評価はまだ、これからでしょうけど。

No title

武江さん、もしかして三鷹には行かれましたでしょうか?

その節はどうも

Tm.様
震災前以来です。ようやく「祚胤伝」を入手しました。ここで買っとかないと、という値段の品を見付けまして(笑)。
牟礼野の辺りは、以前はチャリンコで神田川を1時間ほど遡上して、井の頭池までよくサイクリングしていましたが、ここしばらくご無沙汰です。家光の関係か何かでしょうか?

三鷹

桐野さんの講座を受講されたのかと思いまして。

No title

Tm.様
失礼仕りました。
存じませんでした。もう1回目は終わったんですね。
平日の昼間は難しいですが、休日であれば参加してみたい内容です。

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No title

武江様
御礼が遅れまして失礼しました。
この当時、秀忠の官位が中納言ですね。
大慈院の秀忠妾は、長男の母の可能性があります。
ヒントを頂いてありがとうございました。

渥美格之進

k2様
何か多少なりともお役に立てたようで。論考の発表心待ちにしております。
さて、先の愚按について、大筋には影響無いものの、一部認識を変更しなければならない発見がありました。どうも彰考館の資料収集力を過大評価していたようです。
「格さん」のモデル、彰考館総裁・安積覚兵衛(澹泊)が編んだ『烈祖成績』は、御実紀同様参照史料を附してあります。その慶長四年十二月の末尾に、
「“是月”。世子夫人淺井氏自伏見赴江戸城。(家忠日記、關原合戰誌)」
とありました。発給文書では無く、松平忠冬編「家忠日記追加」を参照したものという事です。「關原合戰誌(記)」も「家忠日記追加」と同じ綱吉治世に編纂されており、国書総目録で、彰考館に蔵書が確認されます。關原合戰誌記の記載内容は確認出来ていませんが、家忠日記に関しては、既に紹介した通りで、十二月の後に、「この年~」とあります。それを、格さんがその月の項目だと勘違いしたものが、偶々史実とほぼ近い内容だった、という可能性が浮かんできました。「御系図大全」の佐野郷成も格さんと同時代の館員ですので、出所はこの辺りだと思います。
結構江の下向年を記した書物は有って、それらの元を辿れば結局松平忠冬だった、という意外な展開になってきました。尚、この事で、他の発給文書の存在の可能性を否定するものでは有りません。

No title

武江様
いつも勉強になります。
もう少しで、伏見時代に入りますね。
ドラマと対比して、考えてみます。
江は伏見時代どこに居たかが、今気になってます。
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