家康の花嫁

家康の花嫁

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大河感想。
問題の天正十三年がやってきました。
予想どおりスルーでした。お次秀勝没後、小吉秀勝が登場しました。
しかし、実際はお次生前に、小吉は秀勝を名乗っています。
この時、お次がどのような名乗りなのかは不明。毛利輝元の養女を娶ってる関係から秀元?元勝とか(笑)
名は冗談ですが。
 さて最近何故天正十三年十月だったのかと、色々考えたわけですが。
小吉没後、秀忠に嫁ぐまで三年と六日後輿入れしています。
これを当てはめると、お市と三姉妹が北の庄へ行った時期ぐらいでしょうか。
そうすると、与九郎との破談はこの頃かも知れません。
 太田先生の言うとおり、別人であるなら問題はないわけですが。
江が、大野へ行って離縁後、天正13年に祝言では早すぎます。

小吉の印象ですが、大政所や北政所が、江に対して敬意をはらってるなか、少し頭が高いような気がします。
九州征伐後の知行不足の伏線でしょうか。

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~ Comment ~

どうなんでしょう。

秀勝との婚姻解消は、秀勝の病没=死別によるもので、同じ死別であった秀頼と千は縁切寺の力を借りてこれを半年ほどに短縮しています。

死別は亡くなったほうの合意が得られなかったからそのような長いモラトリアムが必要だったのかなとも思いますが、生きての離別はどうだったんでしょうね。
一成と江の間に合意があったかどうかわかりませんが、旭が先夫と別れさせられてそこまで長くモラトリアムが置かれていないのも参考になりますでしょうか。

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紀伊様
コメントありがとうございます。
参考になります。
旭と先夫との離縁はどの史料に載っているか、ご教示頂ければ幸いです。やはり、この時代になってくるとさっぱりです(笑)
 今日やっと発行できのですが、旭の先夫は本能寺の変後、三好康長に嫁した系図があります。康長が何故消えていったのか?不明なこともあり、小説的ですが、副田甚兵衛とかぶるところもあり、切って捨てる系図ではないような気がしています。

No title

高木嘉正氏の羽柴秀勝について。だったか?
信長本陣の会報で連載されていたものです。
処分したので、今こまっています(笑)
残していらっしゃたら、ご確認を。

No title

かく言う私も旭は専門外なので偉そうなことは申し上げられません…(苦笑)
いろいろと考えているだけですので、なんともはっきりしたことは。無責任ですみません…

とりあえず、k2さんもお持ちだとは思いますが、『江の生涯』で福田先生が紹介されている箇所を引用します。

ところで、離婚させられた朝日の前夫に関しては、諸説ある。『改正三河後風土記』では「佐治日向守」とし、秀吉より天下治平のために妻を離別すべき旨を諭され、これを了承したけれども、妻を奪われて名誉を失ったため、天下に対して顔向けができないといって自殺したという。『武家事紀』では「副田甚兵衛」とし、但馬多伊城の守衛に任じている際、一揆に攻められて城を失ったので、秀吉から妻を取り戻されたが、そののちも秀吉に仕えていたという。、天下に対して顔向けができないといってじさつしたという。『尾張志』では、「尾張郷士副田吉成」とし、秀吉の命により妻を離別するにあたり五万石の封を提示されたが、これを辞して烏森村(愛知県名古屋市)に退隠し、剃髪して陰斎と号したという(中村孝也『家康の族葉』)

…とのことです。
ご提示の史料ですが、旭が本能寺の変ののち三好康長に嫁したということでしょうか?初耳です。そんな説もあるのですね。さすがです。
三好氏というと、秀次関係でしょうか?

私も於次の生前に小吉が秀勝を名乗っていたというお話は驚きました。それならば、於次の生前に小吉が江と婚姻していたこともより納得です。
wikiでは於次が秀吉に暗殺されたのでは~なんて説もかいてありますね。正直そんな話は初耳だったのでびっくりです。例によって出典はありませんでしたが。何かの小説?
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